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「霞沢葉月だな。俺は警視庁の武田ってもんだ。ちょいと面貸してもらおうか。担任の許可は取ってあるから気にすんな」
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、昼食の前にシャープペンシルの煤で汚れた手を洗おうと教室のドアを開けた直後だった。目の前に厳ついスーツ姿の男性が佇んでおり、そいつは葉月の事を明確に認識して声をかけてきた。
葉月は一歩後退り、「……警察に目をつけられるような悪い事、した覚えはないんですけどね」と警戒心を剥き出しにする。
武田と名乗った刑事は鼻で笑うと、「安心しろ。お嬢ちゃんが犯罪やるような『悪い子』に見えねえのは俺も同じだ」と言った。「むしろ正反対。お嬢ちゃんは『正義の味方』って奴だろ」
「……何を言って……?」
「察しが悪いな」武田は顔を葉月の耳許まで近づけると、周囲に聞こえない程度の声で囁いた。「滅恨士について、この場で知ってる事全部大声で叫んでやっても良いんだぜ?」
「——なッ!?」言葉に詰まる葉月。
「自分の立場を理解できたか? ここにいる警察官は物語の中にいるような『かませ犬』じゃねえ。お嬢ちゃんの喉笛を噛みちぎれる牙を持ってるって肝に銘じとけ」
「……私はどうすれば良いですか?」
「まずは着いてこい。学校にいたんじゃ色々と不都合だろ。段々と周りの目も集まってきやがったしな」
教室の中に残っていた生徒だけではなく、校内の生徒達の視線が続々と葉月らに向いてきている。普段、人目を忍んで滅恨士として動いている葉月からすれば確かに状況は良くない。この平穏な日常を潰されるのは彼女としても遠慮したいところだった。
「分かりました……。あなたの言う通りにします……」
建設途中のホテルか何かだろうか。まだ骨組みだけで内装も何もない建物の周りは、鉄の足場と落下防止用のシートで囲われており、どこか外界と隔絶されているような印象を受ける。今日は現場が休みなのか、人の姿はなく耳が痛いほどの静寂に包まれていた。
「警察の人って、もっと真面目な方が多いのかと思ってました。ここ、勝手に入ったら駄目ですよね?」
「馬鹿真面目なだけの警察官ってのは単なる無能っつうんだ。多少悪い事やろうが、きっちり結果を出すのが俺らの役目なんだよ」
不法侵入した建物の上層へ昇っていきながら、二人はまばらに言葉を交わす。五つほどフロアを跨いだところで開けた場所に出た。そこで武田は足を止めた。「ここで良いか」と言って、葉月の方へ振り返った。「さて、まずは無礼の穴埋めでもしとくか。まずは俺がお嬢ちゃんの質問に答える番だ。さすがに訊きたい事がないって事はねえだろ」
「当然です」葉月は鋭い眼光で不良刑事を睨みつけ、「どこで私の……滅恨士の事を知ったんですか?」と一番の疑問を投げかける。
「ジェフリー=ダーマー、そんで黄昏の骸。これだけ言えば、ある程度察しがつくんじゃねえのか」
「……昨日の隔離空間の中にいたんですね」
「ああ。途中からお嬢ちゃん達の戦いも見させてもらってた。滅恨士や怪恨についての情報はダーマーの野郎を拷問して吐かせた。……つっても大した情報は持ってなかったがな」
「ただ見てただけですか」葉月は冷めた声色で吐き捨てる。「卑怯な人ですね。あの人は滅恨術なしでも怪恨に正面から立ち向かったのに……」
武田は薄く笑う。「否定はしねえよ。だが、あの場で馬鹿正直に俺が飛び込んだところで状況は好転しなかったはずだ」
「……次の質問です。どうやって私の事を見つけたんですか?」
「それこそ警察の得意分野だ。それに加え、俺は昨日の時点でお嬢ちゃんの顔も制服もこの目で見てる。あとは簡単だ。ここ最近の『怪恨による被害のあったと思われる場所』の監視カメラを片っ端から洗って、お嬢ちゃんの行動範囲を調べて上げて、その近辺にある学校を絞り込む。そんでお嬢ちゃんの着てる制服を採用している学校を虱み潰しに回れば、自然と行き着く」
「まるでストーカーですね」
葉月の棘のある言い回しも全く意に介す事なく、「目的は違えど、やってる事は確かに一緒かもな」と武田は一笑に伏した。
「んじゃあ今度は俺の番だな。まあ知りたい事は両手の指じゃ数え切れねえほどあるが、まず俺からお嬢ちゃんに訊きたい事は一つだけだ」
「——ただの人間のくせして俺らの世界に分け入ってくる事についてどう思うよ?」
「「——!?」」
突如として割り込んできた葉月のものでも武田のものでもない声。滅恨士の少女と不良刑事はすぐさま警戒体制を取る。広いフロアだが、あるのは鉄の骨組みだけ。隠れられるところなどないはず。
「上です!」葉月が叫んだ。
「言われなくても分かってんよ!」
武田の頭上から三フロア分ほど下降しながら、何者かが急襲を仕掛ける。吹き抜け状となっていたために襲撃者の姿を直前まで視認できなかったのだ。しかし武田は動き出しが遅れた事にも全く動じる様子はなく、懐から抜き放ったニューナンブM60回転式拳銃を真上へと発砲した。乾いた銃声が鳴り渡り、大鉈を振り下ろそうとしていた襲撃者がとっさに身をよじる。そのまま着地し、間髪入れずに武田へと斬りかかってくる。
「さすが警察! 物騒なもの持ってるなあ!」
「テメエに言われたかねえよ。そいつは人に向けて振り回すもんじゃねえはずだが?」
「仕方ないだろ。霞沢の連中と違って、俺達はまともな武器なんか持てないんだから。使えるもんは何でも使わないとなあ!」
目茶苦茶に振り回される鉈を武田は紙一重で躱していく。
——非正規の滅恨士……!? 何でこんなところに……?
武田にとっては完全に正体不明だろうが、葉月は男の身元についてある程度察しがついていた。
通称、非正規滅恨士。
つまりは霞沢本家と分家以外のところから発生した滅恨士だ。彼らは一般人の中から偶発的に生まれ、滅恨士としての力を僅かながら有する。その多くは滅恨術すら扱えないほどに異能の力が弱く、通常の武器に自らの力を宿して戦う。
当然、非正規の者達は最初から怪恨の事を知っている訳ではない。だから霞沢家は非正規滅恨士を見つけ次第、傘下に招き入れて統率する。
——あの人は野良じゃない。
襲撃者の口振りからして、奴は怪恨の事も霞沢の事も知っている。したがって少なくとも『力を得て暴れているだけの一般人』ではない。
——霞沢が統括する非正規滅恨士だとしたら、彼は何かを勘違いしている可能性が高い……!
「霞沢本家次期当主、霞沢葉月の名において命じます! 攻撃の手を止めなさい! その警察の方を敵と断じるのは早計です!」
「ああ、あんたが本家の跡継ぎか」しかし襲撃者の反応は冷ややかだった。「俺は霞沢の駒じゃない。だから、その大層な肩書きに屈する必要なんて微塵もないんだよ。それどころか——あんた自身も俺のターゲットだっての!」
「——えっ!? 何これ……!?」
葉月の目の前の空間が歪み、形作られたブラックホール状の紋様から出来損ないの人間と犬を混ぜ合わせたような化け物の集団が出現した。その数、二○はくだらない。その半分が葉月へ、もう半分が武田の方へと殺到していく。
——下級怪恨!? この人が使役しているというの!?
不可解な展開が続くが、ここで飲み込まれてはいけない。葉月は覚悟を決めると自身の武器である『雪舞閃』を顕現させ、突撃してきた下級怪恨を一瞬の内に斬り伏せる。
「刑事さん! 逃げてください!」と葉月が叫ぶが間に合わない。身元不明の非正規滅恨士と対峙する武田の喉許へ牙を突き立てようと下級怪恨の群れが襲い掛かっていく。
「イカレ野郎と化け物共の挟撃か。どっちもクソ面倒臭せえな」
武田はこの状況においても全く取り乱さなかった。襲撃者が放ってきた大振りの一撃を身を屈めて回避し、その体勢のまま強烈なタックルを繰り出す。決して大柄な体格ではないが、正しいフォームでぶちかまされた体当たりは成人男性一人を押し倒すには十分な威力だった。「ぐほあッ!」と襲撃者が背中から地面に叩きつけられる。続けて下級怪恨が武田の背後から急襲。
ドパンッ!!! という重なった銃声が炸裂した。武田が腰から抜いたモスバーグM500ショットガンから撃ち出された散弾が下級怪恨の小さな体躯に無数の風穴を穿つ。
「逃げるつもりなんか毛頭ねえよ。こういう状況なんかこれまで何度も切り抜けてきたんだからよ」
さらに二体目、三体目と下級怪恨を撃ち伏せていく。通常武装の効果が薄いとはいえ、まともな戦闘能力を持たない下級怪恨にとっては十二分に脅威的な威力だ。
武田が下級怪恨を仕留めている間に襲撃者が起き上がる。「やってくれるな……!」と毒づき、「弾がなくなるまで物量で攻め立ててやる……!」と大鉈を振るう。その瞬間、再び男の周囲にブラックホールが現れ、追加の下級怪恨が産み落とされていく。
「こいつも滅恨士って奴か?」武田は散弾銃をリロードしつつ、葉月に問う。
「はい……とはいえ持っている力は微弱です。あの人自身の戦闘能力は強力な怪恨に比べれば大した事はありません。でも……」
「あの化け物共を使役してるのが、そんなに気になるか?」
「…………」無言のまま葉月は頷いた。「……あれは下級怪恨と呼ばれる怪恨の『種』のような存在です。下級怪恨は人間に対する怨嗟の感情を元に成長、変質し、やがては人に徒なすに足るだけの力を得る可能性があります。ですが、単体では野生動物にも劣るほどの力しか持ちませんし、そもそも人を襲うような習性も確認されていません。せいぜい数が多過ぎて対象しきれない……というのが厄介なだけの怪恨です」
「つまり何が言いたい」
「あの下級怪恨にこれだけの攻撃性を持たせて尖兵に仕立て上げるなんて事、力の弱い非正規滅恨士にはできないはずなんです……!」
葉月の声は震えている。異能の力を有し、それらがひしめく世界を渡り歩いておいてなお理解の及ばない現象。それを目にしてしまった事で頭の中が真っ白になってしまっていた。
対して。
今しがたこの世界に足を突っ込んだばかりの不良刑事は堂々とした態度で、この状況と向き合う。
「まあ、あれだ。あの野郎がお嬢ちゃんにとってのイレギュラーなのは分かった。けどよ、そもそも物事を難しく考える必要なんかねえんだ。シンプルに行こうぜ」と言って、向かってくる下級怪恨へとショットガンの銃口を差し向ける。「奴らは俺らの共通の敵。俺らが話をするにも、まずは連中を叩き潰してから。どうだ? 簡単だろ」
破裂音が何度も木霊し、木っ端微塵にされた下級怪恨が次々に倒れ、光の粒子となって霧散していく。葉月と武田は襲撃者へ詰め寄っていくが、男は休みなく下級怪恨を投入し、肉壁を作って接近を阻む。
葉月は溜息混じりに微笑を浮かべながら、「遠藤さんと言い刑事さんと言い……金沢の外には凄い方々がたくさんいますね……」と洩らした。「私があなた達と同じ立場だったとしても、とてもそんな風には考えられないと思います」
「当たり前だ。伊達にお嬢ちゃんより長く生きてねえよ。その遠藤とかいう奴もな」
四方から連携して襲い掛かってきた下級怪恨四体を武田の銃撃が粉砕し、後方で隙を窺っていた一○数体を葉月が放った『凍閃華』が八つ裂きにした。
襲撃者は余裕の表情を崩さず、途切れる事なく捨て駒を放っていく。
「倒しても倒してもキリがねえな……! 化け物を統率してるんなら、あいつ自身を叩くのがセオリーだが……」
「中々近づけませんね……! あの人自身、自分が弱点だと理解しているからか守りが硬い……!」
物量戦に付き合えば、こちらが引きずり回されるだけ。頭では理解していても、打開策が思うように浮かばない。それに歯痒さを感じていた時だった。
葉月と、おそらくは武田もその姿を視認した。しかし努めて顔には出さないようにして劣勢を演じる。ここまで足音を消して登ってきたであろう人物の計画を台無しにしないように。
下級怪恨を使役しながら、全体の戦況を把握する事に集中していた襲撃者は最後まで気づかなかった。
自らの背後を取り、奇襲を仕掛けようとしていた遠藤克己に――。
無言で日本刀を薙ぎ、非正規滅恨士の首を狙う遠藤。彼の動きに無駄はなかった。手首の捻りだけで刀を振るう動作は極限まで風斬音を低減させ、相手から回避という選択肢を奪い取る。普通ならばこれで終わっていただろう。
だが、襲撃者が連れているのは曲がりなりにも人外の存在だ。遠藤の気配に気づいた内の一匹がすぐさま飛び上がり、襲撃者と遠藤の間に割って入る。刃が下級怪恨の胴体を破断した。しかし仕留めるべき相手は無傷。遠藤の奇襲は肉の盾に防がれる形で失敗に終わってしまう。
下級怪恨が動いた事で、襲撃者の方も遠藤の介入に気がついた。「……ああ、あんたか。やっぱり霞沢の本拠地に下級怪恨送り込んだ程度じゃ殺せないよな。中級クラスのダーマーと殺し合える腕があるんなら、こんな雑魚共目じゃないか」
遠藤は襲撃者の言葉には取り合わず、「葉月! こいつは俺が殺る! そっちの小せえ奴らは任せたぞ!」と呼びかけた。
「わ、分かりました! 遠藤さんも気をつけてください!」
なぜ遠藤がこの場所に来てくれたのかは分からないが、とにかく彼が術者本人を狙える位置にいるのは確かだ。
――遠藤さんが心置きなく戦えるように下級怪恨を引き付けるのが私の役目……!
雪舞閃を構え、下級怪恨の集団に向き合う。
「背中は任せな、お嬢ちゃん」と武田がモスバーグM500散弾銃を照準する。「一気に畳んで、あの兄ちゃんに加勢すんぞ」