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葉月が学校に行かねばならないので、初日の稽古は六時前には切り上げられた。
山を下りると空はうっすらと明るくなってきており、寒さも若干マシになっていた。
息を切らしているのは遠藤だけ。葉月の方は汗こそかいているものの、疲弊した様子は一切見られない。
——元々才能の塊なんだろうな……。
遠藤はシャツの袖で額の汗を拭いつつ、内心で滅恨士の少女に対して評価を下す。
——学んだ事を吸収するのが早過ぎる。この調子じゃ、すぐ追い抜かれちまうだろうな。
これが、もう伸び代のない三流と可能性に満ち溢れた金の卵の違いなのだろうか。遠藤は自身を卑下している事を悟られないようにしながら、このあとについて葉月に尋ねる。
いったん久穏荘に戻るのかと思いきや、「温泉入りにいきましょう」と提案してきた。「ここから少し先に行ったところに入浴施設があるんです」
久穏荘を通り過ぎて少し歩いたところに日帰りの温泉があった。そういえば昨日見たなと思いつつ、遠藤と葉月は自動ドアを潜って、古びた販売機で入浴券を購入した。フロントを見回すが、カウンターに高齢の女性がいるだけだった。店番のお婆さんに入浴券を渡し、男湯の暖簾を潜ろうとしたところで、「あっ、これ使ってください」と葉月が鞄から取り出したバスタオルを手渡してくる。「六時半くらいには上がりますから」と言って女湯の方へ消えていく。
——鞄がパンパンだったのは着替えの他にタオルのせいか。
遠藤も男湯の脱衣所へ入る。汗の滲む服を脱ぎ捨てロッカーに突っ込む。引き戸を開けて浴場に足を踏み入れる。広さとしては三○畳ほどで、大きな浴槽が一つと洗い場が一○箇所ほど。浴場の左手はガラス張りになっており、その向こうを覗き込むと露天風呂になっていた。
何となく一番奥にある洗い場に腰掛け、備えつきのシャンプーとボディーソープで頭と体を洗う。立ち上がると、屋内の浴槽の方はスルーして露天風呂へ向かう。外へ出た瞬間、濡れた体を容赦なく冷たい外気が叩く。思わず早足で浴槽に向かい、熱い湯に全身で浸かる。無色透明の湯は温泉特有の臭いもなく、僅かにとろみを感じる。疲れた体の隅々まで温泉の成分が染み渡っていくような感覚に飲まれ、うっかり寝落ちしてしまいそうになる。
遠藤はたっぷり一五分ほど湯に浸かったあとに浴槽から出た。やはり無防備な状態で外気に当てられると寒い事この上なかったので、すぐに屋内へと戻る。掛け時計に目をやると葉月に言われた約束の時間が迫ってきていたので、脱衣所に戻り、渡されたタオルで水気を拭き取ってから着替える。とはいえ着の身の着のまま旅館から連れ出されているので、替えの服などはなかった。清潔にした肌に汗ばんだ服の生地が張り付くのが不快だったが仕方ない。また久穏荘に戻ってから着替えれば良いかと考えつつ、暖簾を潜ってフロントへ。
一足先に上がっていたらしき葉月が畳張りの休憩室で寝転がっていた。「お帰りなさい、遠足さん。気持ち良かったですかー?」
「ああ、結構良かったぜ……って、おっ……?」
セーラー服に着替えた葉月の印象が昨日とは少しだけ違っていた。具体的に言うと眼鏡を掛けていた。青いフレームのウェリントン眼鏡は彼女の持つアイスブルーの瞳を一層際立たせているよう。レンズの奥の顔の輪郭が少しズレている事から、ちゃんと度が入ったものだと分かる。
「目、悪かったのか?」
「はい……昔からかなり……」と自嘲するように答える葉月。体を起こすと両手で眼鏡を上げたり下げたりしつつ、「だから普段はコンタクトですよ。遠藤さんも上がってきたし、そろそろ付けようかなーって……」
「ん、ああ……そうか、そうだよな。じゃ、俺何か飲み物でも買ってくるからよ」
歯切れの悪い返答と共に、そそくさと自販機へ直行しようとする遠藤の挙動不審さを葉月は見逃さなかった。女の子座りのまま首を傾げて、容赦なく核心を突く。「眼鏡、好きなんですか?」
ギクッ! という擬音が聞こえてきそうなほどあからさまに肩をビクつかせた遠藤は、罰の悪そうな顔で振り返ると、「……うるせえ、悪いかよ」と消え入りそうな声で精一杯の反論を返す。数十分前まで、ただの元気な子供程度にしか思っていなかった少女に不覚にも魅力を感じてしまったなどとは口が裂けても言えない。しかも相手は中学生。普通に犯罪者の思考である。すでに法を犯しまくって生きている遠藤からすれば今さらな話かもしれないが、やっぱりそれとこれとは話が別だと言いたい。
風呂に入ったばかりだと言うのに尋常でない汗を流す遠藤に対し、葉月は逆に不自然なほどに年相応な爽やかな笑みを浮かべて——
「コーヒー牛乳買ってくれたら、遠藤さんの前では眼鏡でいてあげますよ」
「………………………………………………………………………買わせていただきます」
欲望には勝てないのは変態の性だった。