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序章

 今日も今日とて残業に精を出している労働者によって、乱立する高層ビルの窓一つ一つに明かりが灯される。

 眠る事を知らぬ大阪の街、梅田。夜中の一一時を過ぎても道を行き交う人々の姿が途切れる事はなく、その場にいるだけで耳が痛くなるような喧騒に包まれ、時々風が乗せてくる空気はドブ臭い。一昔前よりも若干小綺麗になったビル街は、やはり根本のところではまだ変わり切れていないのだと感じ取れてしまう。

 そう、変わっていない。表面だけをいくら取り繕ったとしても、薄皮一枚剥いだ先には醜い本質が隠されている。何も知らずに退屈で平和な日常を謳歌する一般人達の裏には、病原菌だらけのドブを啜って生き抜く社会不適合者が大勢いる。時には殺し、時には殺され、多少いなくなったところで代替可能な価値と役割しか持たぬ者達は、今日を生き残るためだけに武器を手に獲物を探し回る。

 殺し屋の遠藤克巳(えんどうかつみ)もその一人だった。

 金色に染めた髪の前髪は重たく、目が隠れそうなほど長い。グレーのTシャツの上にカーキ色のワークシャツを纏い、下は濃紺のチノパン。一月も半ばを過ぎた大阪の空気はさすがに冷たく、防寒着として黒のダウンジャケットを羽織っている。見た目だけなら、若干チンピラの気がある一般人。しかし遠藤が右手に握っているものこそが、この街で彼を異質な存在たらしめていた。

 日本刀。

 すらりと伸びた刀身は暗闇の中でも良く光り、その切れ味を見た者に否応なしに想像させる。遠藤は現代日本人が持つには余りにも危険極まりない刃物を手に、自身の前方で全力疾走する男を追いかけていた。

 ——この先は行き止まり……乗り越えようと思えば乗り越えられる程度の塀しかねえが、一瞬動きを止められれば余裕で仕留められる。

 ——しばらくぶりのカモだ。何としてでもぶっ殺してやる……!

 相手の風貌は四○半ばほどの男性だった。パンパンに膨らんだ黒い鞄を両手で抱え、息を切らせながら走っている。普段から大して運動はしていないのか、その体躯はだらしなく肥え太り、吹き出した汗からは悪臭が漂う。後ろで猛追する遠藤の鼻孔にも、なかなかにキツい臭いが漂って来ていた。だが、そんなものを気にも留めている余裕はない。遠藤に見えているのは、あの男の命のみ。見た目が綺麗だろうと汚かろうと殺害してしまえば一緒だ。やがてどちらも腐臭を撒き散らす肉塊になるだけ。

 遠藤は頭の片隅でそんな事を考えながら、最後の追い込みに入る。日本刀を持つのとは逆の手で、腰の後ろのホルダーに仕込んだ大振りのダガーナイフを抜き放つ。

 ——これで当たれば文句はねえが……。

 肥えた男の背中へ向けてナイフを投擲。そのコントロールはお世辞にも褒められたものではなく、銀の軌跡を描いて飛んでいった刃物は背中には当たらず、男の右太腿を捉えた。鋭い切っ先がスラックスの生地を貫通し、その下にある脂肪多めの皮膚を食い破る。「いぎゃああッ!?」という無様な悲鳴を上げ、男のバランスが大きく崩れた。だが、これが火事場の馬鹿力という奴なのか、男は倒れる事なくナイフの刺さった脚を引きずりながら必死で逃走を続ける。

「無駄な努力、御苦労な事で——!」歯を見せ、獰猛な笑みを浮かべる。

 すでに行き止まり(ゴール)は見えている。男は逃げるのに夢中で気がついていないだろうが、彼が助かる確率はもう万に一つもない。

 そのまま日本刀を構え、動きの鈍った男を仕留めんと迫る。——()った! という確信が遠藤の中に芽生えた瞬間だった。「……は?」

 遠藤は目を丸くし、間抜けな声を洩らす。自分はまだ刀を振り切ってはいない。肉を裂く感触も何も感じてはいない。なのに——いつのまにかなくなっていた。

 男の、首が。

 立ったまま頭部を喪失した男の首の断面から、どろりと溢れ出す血液。それが流れ出るに従い、男の体からバランスも失われていき、やがて糸の切れた人形のように汚い地面に倒れ込んでいった。同時に男の持っていた鞄が手から離れ、血溜まりの上にどさっと落ちる。その衝撃で限界まで膨らんでいた生地が破れ、中から大量の『白い粉の入った袋』が散乱した。

 横取りされたのだと気がつくまでに数秒を要した。

 そして、それが致命的だった。

 暗闇から突如として現れた斬撃が容赦なく遠藤の首筋を狙う。とっさに体を数センチ反らし、ギリギリのところで不意打ちを躱す。一瞬遅れて首に静電気を流されたような痛みが走る。薄く皮膚が裂かれ、血の水玉が洩れ出ていた。

 ——同業者……! それも……。

 路地裏の闇と一体化しているかのごとく、遠藤を襲撃した少年の存在感は希薄だった。ベーシックなデザインの詰襟学生服の上から同色のモッズコートを羽織り、両の袖からは鉄錆臭い体液を滴らせる鉤爪が伸びていた。

 真冬だというのに自分の背中が汗でびっしょりと濡れているのが分かる。皮膚に張り付いた衣服の不快感に顔をしかめる余裕すらない。遠藤は震える手で日本刀を構えながら、ジリジリと後退する。勝てないと思わせるには十分な威圧感だった。この路地裏の世界しか行く場所がなかったから殺し屋に身をやつした遠藤とは違う。生まれた時から、この世界で生きるべき運命を背負い、全ての適性を備えていた者。両者の溝は余りにも深く、人間のちっぽけな一生をかけても絶対に埋められないほど。

 ナメクジのような動きの遠藤と少年の距離が五メートルほど開いたところで、少年の方が背を向けた。その直前の表情が少年の行動の意味を如実に示していた。遠藤に対する興味の一切をなくした目。互いに人間を殺せる武器を持っているにも関わらず、何ら脅威にはならないと判断された。路傍の石ころ程度の価値すらないのだと無言のままに断じられたのだ。

 そして、遠藤はその事に感謝しなければならない。

 勝算のない勝負に引きずり込まれて、手も足も出ずに殺される事なく、この場から逃げ出せる事に。

 遠藤は踵を返し、一目散に少年から離れていった。



「ああ。霧崎鷹(きりさきたか)だろ、そいつ。最近乗りに乗ってる奴。つうか学生なのか。若いのにすげえな、お前と大違いだな」

「一言多いんだよ。……くそッたれが。久々の獲物だったってのによ……」

 一○畳ほどの事務所で安物のソファに腰掛けた遠藤は、仏頂面を浮かべながらインスタントコーヒーを啜っていた。四方の壁は大学の研究室のように大量の本が収まった本棚で覆われ、床も足の踏み場がないほどの本やクリップで綴じられたA4用紙の束で埋め尽くされている。かろうじて朝日が差し込む程度の小さな窓の側には木製のビジネスデスクが鎮座し、その上に置かれたデスクトップPCを部屋の主が操作していた。

 部屋の主——刈谷満次(かりやみつぐ)は俗に仲介屋と呼ばれる職業に従事している。その仕事は裏社会の人間への仕事の斡旋。つまりは三流の殺し屋の遠藤に小金を稼げる仕事を持ってきてくれるありがたい存在なのだが……。

「遠藤。今月に入って、これで六回目だぜ。さすがに俺も守り切れんぞ」

「……分かってる! 次こそは必ず……!」

「裏社会、表社会に関わらず仕事をするに当たって大事なのは信用だ。世の中ってのはな、そいつをなくしちまった奴から脱落していくもんだ」刈谷はキーボードを叩く手をいったん止め、モニターの向こう側から遠藤に視線をやる。「どうだ? 遠藤。失敗続きのお前にそれだけの信用があると思うか? 本来、殺しの仕事なんてのは一回の失敗が命取りになる。それを連続して何回も、だ。もう地獄に片足突っ込んじまってる自覚はあるのか?」

「…………」遠藤は歯噛みする。

 殺し屋として完全に裏社会の人間になってから四年。そこから今に至るまで遠藤はまともな成果を挙げれていない。標的の取り逃がし。他の殺し屋から横取り。様々な要因で仕事に失敗してきた訳だが、結局のところ遠藤には才能がない——理由はこれに尽きる。昨夜出会った少年など若くして頭角を現す天才がいる一方、二○も半ばにして未だに無名なままの遠藤のような者もいる。

「分かってんだよ……この仕事に向いてねえって事くらい……!」遠藤は自分の髪を乱暴に掻き乱し、悔しさに歪んだ顔を伏せる。「足を洗う事だって何度も考えた。けどよ、やめたところでどうやって生きろっていうんだ!? まともな生き方なんて知らねえ……! 奪う事でしかテメエの命を繋げねえ奴が……!」

「やっぱ、だいぶ参ってるみたいだな」

 感情的になる遠藤に対し、刈谷は冷静だった。直前の言葉から、遠藤の内心をすでに見透かしていたのかもしれない。

「今さら生き方を変えろとは言わん。俺だって、もう表社会だけでは暮らしていけない身の上だ。だからといって今のお前を放っておくのが良いとも思わない訳だ」

「……なら、どうしろってんだ?」

「簡単だよ。いったん逃げ出しちまえば良いんだ」

「はあ……? 何言って……」

 惚けた表情の遠藤を横目に、刈谷は再びデスクトップPCのキーボードを叩いていく。

「ずっと同じ事で悩んでいると、次第に頭が硬くなっていっちまう。ちょうど二年前に兄がくたばっちまった時の俺みたいにな。こういう時は今いる場所から離れて、しばらく違う環境に身を置いてみたら良いんだよ。……お、出た出た」

 刈谷は、「こっち来い」と遠藤を手招きする。遠藤は半信半疑なまま重い腰を上げ、紙の腐海と化した床を掻き分けていく。「ここだよ、ここ」とモニターを指差す刈谷に従い、画面を覗き込む。

御影(みかげ)温泉……? どこだよ、ここ?」

「俺が前に行ってきたとこ。金沢の山奥にある温泉街なんだが、なかなかに良いところでな。静かで自然豊かで飯も美味い。当然、温泉も最高。今の時期だとちょっとばかし寒いかもしれんが、リフレッシュ休暇には最適だと思うぜ」

「お前の感想は分かったが……行こうにも金がねえぞ、こっちには」

「それくらい出してやるよ。遠慮すんなよ、俺とお前の仲だろ?」

「気持ち悪い言い方するんじゃねえ」

「お。ちょうど空きがあるな。しかも、俺が前泊まった久穏荘(くおんそう)って旅館だ」

「聞けよ」

「ここは良いぜ。何せ女将が超べっぴんだからな。子供いるとは思えないくらいに若かったし。手え出すなよ?」

「聞けっつってんだろ。まだ行くって決めた訳じゃねえ。それと俺は度入り眼鏡が似合う女じゃねえと惚れねえって何度も言わせんじゃ」

「部屋取ったぜ。何かドタキャンでもあったんかな? 二週間分くらい空いてたから、全部予約入れといたぜ」

「多過ぎるわ! 缶詰する作家じゃねえんだぞこっちは! ただの頭おかしい奴だと思われんだろうが!」

 喚く遠藤の事など無視して刈谷はさらに特急の乗車券までネットで購入し、底意地の悪い笑みを浮かべ、「こいつはお前に対する親切じゃない」と言った。「潰れそうなお前に対する『荒療治』だ。拒否権はない。分かったら、明日から荷物まとめて行ってこい」


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