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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Possession─ポゼッション─

作者: 蝉土竜

1/


「ハレルヤ。我が魂よ、主を褒め称えよ。我が生ある限り、主を褒め称えよ。生命の限り、我が神に賛歌を。諸々の君を頼ることなかれ、人の子を頼ることなかれ、彼の者に救いはあらぬ。息が絶え、彼は土に帰り、日に諸々の計画は滅び失せん──」


 礼拝堂で説教をしていると、摩耶は長椅子に腰かけたまま、退屈そうな態度を隠しもせずに不満を口にした。


「ねえ、セネカ……もしかして今日もずっとこんなのが続くの?」


 聖書を閉じた私は、摩耶の方に向き直る。


「ええ、まだ詩篇百四十六の四節までしか読み上げていませんよ。さあ、摩耶も私のあとに続いて──」


 言い切ろうとしたところで、摩耶は口をアヒルのように尖らせ、抵抗の意思を示した。高校二年生がする反抗手段としては、ぎりぎりのように思える。


「全く、あなたという人は……この程度のことで根を上げてどうするのです」


「だってさ、セネカの言うこと、難しくてよくわかんないんだもん」


「だもん、じゃありません。ちゃんと集中して教えを乞う精神を保つことができれば、意味が理解できずとも、その言葉のありがたみというのは痛いほど感じ取ることができるはずなのです。だというのに、あなたという人は……」


 その先は言葉にならなかった。いや、言葉にできなかったと表現した方が正しいだろう。


「ええー、そんなの嘘だよ。マヤ、ちゃんと聞いてたけどなんにも感じないよ」


「それはあなたの信心が足りないだけです!最近はどこも物騒なのですから、真面目に説教を聞きなさいといつも言っているじゃありませんか」


 あろうことか私の目の前で聖書を肘置きにして、さらには頬杖までつくこの不届き者の名は辻道摩耶という。

 長めで活発的な印象を与えてくるポニーテルに、女性にしても比較的小さめな体格は、まるで可愛らしい小動物のよう。くりっとしてまんまるな瞳が、その印象に拍車をかけているのは間違いない。まさに、可愛さ余って憎さ百倍といった感じだ。

 しかし、彼女はただ可愛らしいだけの女子高生ではない。

 ──曰く、癒しの御子の血を啜れば不老不死になれる。

 などという根も葉もない噂が裏社会で広まってしまうほどに、彼女の力は神秘的であり、また神聖なもの。

 一歩間違えれば、人の道理や摂理を引っ繰り返せてしまう。

 そんな治癒能力を持った彼女の護衛を任された私は、バチカンから派遣された異端狩りのプロ。我が神に逆らう異端者を排除、撃滅する為のアメイジングシスター、という訳なのだ。


「そんなことよりさあ、コイバナしようよ。まずはセネカからね」


「しません! そもそも何故私からなのです! こういうときはまず、言い出した方が先に語るものでしょうが!」


 このように、彼女と会話をしていると何故か不思議とペースを乱される。今日こそは、今日こそはと固く決意していても、いざ会話してみると、彼女の妙にふわふわとした空気に懐柔されてしまう。

 本来ならば、きちんとした防衛術や邪なものに対する心構えなどを説きたいところではあるのだが、本人が望んでいないものを押し付けようとするのは、いささか強引なように思えてならなかった。

 彼女を──

 摩耶を守る為には、それも必要な要素なのだろうけれど。


「邪魔するわよ、お二人さん。あっ、誤解がないように言っとくけど、一応ノックはしたからね」


 私と摩耶しかいない礼拝堂に来訪者が訪れた。鬼灯要は、清潔感のあるビジネススーツに身を包み、隙のない身のこなしで近づいて来た。ヒールとパンツルックがやけに似合う要は、私達二人の前まで来るとその歩みを止め、自然な動作で腕を組んだ。

 胸を強調したいのだろうか。


「刑事さんが神聖な礼拝堂になんの御用でしょう。懺悔があると言うのなら、こちらも無碍には致しませんが」


「申し訳ないけど、今は神さまに用はないの。用があるのはあんたよ、セネカ」


 信心の薄い彼女がわざわざ教会まで足を運ぶ理由を、私はよく知っていた。

 彼女は私に仕事をさせたいのだ。

 普通の人間には、できない仕事を。


2/


 摩耶を家まで送り届けた後、私は要刑事に連れられて夜のドライブに繰り出した。濃いワインレッドに染まったNCロードスターに揺られながら眺める夜の首都高は、昼間とは違う様相を呈している。


「これだけ明るいと、昼も夜も大差ありませんね」


 隣で運転する要は、ハンドルを握ったままこちらに視線を移すこともなく、軽く相槌を打つ。


「そうね。ただ、重犯罪発生率は夜の方が圧倒的に高いし、見られたくないものを隠すにはこっちのほうがいいんじゃない」


「……ロマンの欠片もないじゃありませんか」


「夜にロマンなんかないわよ。あるのは欲望と、申し訳程度の静寂だけ」


 夜勤してたら嫌でもわかるわよ、と付け足し、要はアクセルを強く踏み込んだ。おかげで頭のベールが吹き飛びそうになったので、慌てて抑え込む。


「安全運転でお願いしますよ」


「善処はする、あんたの返答次第ではね」


 彼女が教会に訪れたときから嫌な予感はしていたが、車内という逃げられない空間に閉じ込められた私はもしかすると、袋の鼠というやつかもしれなかった。


「それで、今回はどのようなご用件で?」


 要がアクセルをさらに踏み込んだせいか、エンジンが強く唸りを上げる。


「恍けないで。『あんた達』は人を試して惑わすのが性分かもしれないけど、こっちとしてはいい迷惑よ」


「言っている意味が理解できないのですが」


「……都心で起こってる事件、ニュースで聞いたことくらいはあるでしょ。被害者は顔の皮を剥いで殺害されていたっていう、あれ」


 唐突に会話が中断されたせいか、車が風を切る音だけが耳に響く。


「被害者は全部で三人ってことになってるけど、一昨日の深夜に四人目の犠牲者が出たの。多分マスコミに対する報道規制も、ここらが限界。やっこさん……見境がなさ過ぎて、現場じゃクリーチャー扱いされてる」


「恐ろしい猟奇殺人だとは聞いていますが、流石にクリーチャーは誇大表現かと──」


「素手よ」


「はい?」


 思わず聞き返してしまった。


「一切道具を使ってないのよ──だから、素手。全ての犯行を素手でこなしてるみたい。はっきり言って人間の成せる所業ではないわね」


 道具を使用していたとしても、人一人を殺めるのには相当な力が必要なはず。どれだけ肉体を鍛え抜いたとしても、素手で人の皮を剥ぎ取るなど、不可能に近い。

 正に、化物。

 そう呼ぶに相応しい。


「……犯人の目星は?」


 要は胸ポケットから写真を一枚取り出すと、こちらに無言で手渡してきた。その写真にはまだ大学生ぐらいの、私と同年代と思われる若くて美しい女性が写っていた。彼女は眩しいくらいの笑顔でピースサインをしている。


「沙月芽衣。一人目の犠牲者が発見された日のニ週間前から、行方不明になってる。最初は男女間でのトラブルが原因で失踪したと思われてたんだけど、どうも違うみたい」


「……この方が猟奇殺人を犯せるとは思えません。ましてや、素手で人の皮を剥ぐなど──」


「あたしだってそう思いたいわ。でも、感情と論理ってやつは、うまいこと共存してくれない。この子の毛髪が現場に落ちていなかったら、あたしはあんたをドライブに誘ったりはしなかった」


 何度写真を見ても、彼女には犯行に至る動機もなければ、犯行を完遂する力もないように思えた。


「手遅れだと思いますか」


 あしらう様に片手を振ると、要は言う。


「愚問ね。命の責任なんて、誰にも取れやしないのよ。人を手にかけた時点で、答えなんて決まってる」


 吐き捨てるかのように答え、運転に集中する要。高速で移り行く街の光を見つめていると、この光のどこかしこに人が暮らしていて、日常を謳歌しているのだという現実を知ることができる。

 再度、沙月芽衣の写真を目に焼き付け、記憶する。どれだけ変わり果てた姿になっていようとも、せめて私だけでも、この形を忘れない為に。


 ──決意が、固まった。


「……長い夜になりそうです」


「当たり前よ。これで断りでもしたら、見逃してきた余罪を追及してしょっぴいてやる。そうね、手始めに銃刀法違反とかでどう?」


 夜のドライブを終え、要のロードスターは教会前に足を止めた。降車してから、私は要に告げる。


「シスターを恐喝するなんて、信心が足りません。そんなことでは天国に行けませんよ」


 狭い通路にも関わらず器用に車を切り返し、要は最後に捨て台詞を残して行く。


「生憎だけど、あたし──無宗教なのよね」


3/


 深夜二時、夜の闇が一層深まってきた頃、私は修道服のまま刀袋を肩に下げ、おぼろげな気配を辿って郊外を探索していた。

 季節は夏。

 むせかえるような暑さにやられ、しんと静まり返った街の空気を吸い込めば、身体の奥がぴんと引き締まる。

 アスファルトに微かに残った熱が足取りを軽くしてくれていたのか、かなりの距離を歩き回ったのに疲労はそこまで感じない。

 郊外にある廃病院の前まで来て、私は確信を持った。


 ああ──ここが根城なのか。


 度重なる医療ミスが原因で経営が悪化。二年程前に廃院となったらしいこの病院は、次の土地所有者が決まり、来年には大型のパチンコ店がオープンする手筈になっているとか、いないとか。

 噂話でしか聞いたことはなかったけれど、来て納得した。ここは随分と気の巡りが悪い土地だ。おそらくは、次にオープンする店もそう長くはもたないだろう。

 立ち入り禁止の看板を無視して、侵入を拒む為の金網をよじ登る。

 院内に入ると、まだ経営していた頃の名残があり、機材も放置された状態のまま散在していた。人が立ち入らなくなったとはいえ、二年そこらでは酷く瓦解することもないのかもしれない。

 電気も完全にストップしている院内を、窓から差し込む月明かりだけを頼りに進んで行く。

 受付、小児科、外科、救急外来と見て回り、階段を上って産科、婦人科に。階を増す事に強まっていく吐き気に耐えながら、三階の整形外科までやって来た。


「やけに綺麗ですね」


 人がいないにしては、随分と清掃が行き届いている。他の階で見られた埃も、ここだけは明らかに少ないように感じられた。しかし、辺りを見渡しても人っ子一人いやしない。だとしても、それは至極当然で、違和感など欠片もない。ここは廃病院なのだから。

『人』は、いるはずがないのだ。


「ミーヅケタッ」


 瞬間、眼前で火花が散った。

 突然後頭部に激痛が走り、床に倒れ伏せる。気を失わなかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。

 リノリウムの床を汚していく赤黒いなにかが自分の血だと気がついて、私は背後から何者かに殴られたのだと理解した。


「ゴソゴソトカギマワッテタカラ、ダレカトオモッタゲド……アナダ、シズターナノ?」


 およそ人間のものとは思えない声帯の持ち主は、うつ伏せで倒れ伏せた私を蹴り飛ばし、仰向けにする。


「ヤッバリソウダ、シズターダ。ゾレモ、ガイジン。ガイジンハマダ、ハイダゴトナイ」


 人の皮を被った人外は乱暴な動作で私の足首を掴み上げると、そのまま引き摺って行く。どうやらどこかに運び込むつもりらしい。

 こちらに配慮するつもりなどないようで、身体が院内のあちこちにぶつかり、その度に鈍い痛みに苛まれる。だが、おかげで朦朧とした意識は回復し、自分がどのルートを辿って連行されているのか記憶する余裕さえある。

どうやらこの化物には計画的かつ、効率良く犯行を重ねようとする意志はないらしい。

 しばらくボロ雑巾のような扱いをされたまま運ばれ、目的の場所に到着したのか、犯人は私の首根っこを掴んで放り投げた。

 衝撃に耐え目を開くと、無影灯が視界に入ってきた。どうやら私は、手術室の手術台に寝かされているようだった。

 手術室を照らすのは、心もとない蝋燭が数本だけ。ゆらゆらと揺れる小さな火が、二人分の影を作り出す。


「アア、ヨグミダラアナタ──トッデモギレイ。ガミモ、ハダモ、マッジロ」


 犯人がこちらの顔を覗き込んできたので、こちらからも相手の顔がよく確認できた。

 その顔は劣悪で、醜悪だった。

 自分の顔に他人の顔の皮を無理矢理縫い合わせているせいか、縫合は不十分。不衛生の影響からか、皮膚はただれ、膿みや炎症に侵されている。

 もはや誰とダレの皮を継ぎ合わせたのか判別するのも困難で、原型を想像できない姿は化物と呼ぶに相応しい有様だ。


「ウラヤマジイ。ジブンダケ、ズルイ。ワダシモコノガオ、ホシイ」


 化物は骨ばった指で私の顎に手をかける。


「ダイジョウブ、ゴワクナイ。アナダハ、ワダシトヒドツニナルダケ。アナダハワダシノナカデ、ズットズットイギル。ダガラ、ゴワクナイ」


 後頭部の痛みよりも、目の前に自分以下の弱者がいることに憤りを感じる。


「……それが、あなたの宗教ですか」


 喋ることができるという事実に驚いたのか、化物は私の顎にかけていた指の力を緩めた。


「ゾウ、ミンナアダシノナガデイキデル。ゴノコタチハ、エイエンニギレイナママ。ワダシダチハ、エイエンナノ」


「永遠、ね……止めはしませんが、その前にまずは鏡を探すことをオススメしますよ」


 言葉の意味を理解したのか、化物は私の首を強く締め上げた。苦しいのも痛いのもまっぴらごめんなので、必死に抵抗を試みる。


「バガニジデルノ? イマ、バガニジタノ?」


「い、いいえ……馬鹿になどしていません。ただ、そう、憐れんで……いただけです」


「ウゾ、アナダワダジヲバガニジテル。アイツドイッジョ。ワダジヲステダ、アイヅトオナジメヲジテル」


 憎しみ、か。

 あれだけ美しかった人間一人を、ここまで醜悪な姿に変化させてしまうことができる感情なんて、そうそうありはしない。

 同情の余地がないといえば嘘になる。


 だが──


「あ、あなたは……弱い」


 首を締め付ける力が一層強くなり、咳き込みそうになる。


「ワダジガ……? ワダジハヅヨイ! ワダジハヅヨイ! ダレニモワダジヲバガニナンデサゼナイ! ワダジハ……ワダジハヅヨイ!」


 少しでも抵抗を緩めれば首の骨がへし折られるのではないかと思うほど、凄まじい力で圧迫され、意識が朦朧とする。

 手放すのは簡単だ。ただ抵抗する腕の力を抜いて、楽になってしまえばいい。もしかすると、ここで死を迎えることができるかもしれない。

 でも、頭の中で誰かが叫んでる──

 私を壊すのは、この『悪魔憑き』じゃない。


「まさか……あなたは、こちら側の人間ですよ。自身の醜さから目を背け、自ら堕ちた者を……強者とは呼ばない。少なくとも、私は……あなたを認めない!」


 私の叫びに呼応して、中に在るものが目を醒ました。不可視の腕が、首を締め上げていた異形を弾き飛ばす。衝撃で吹き飛んだ化物は、手術室の壁に勢いよく叩き付けられ、呻き声を上げた。


「ガァ……ナンデ、ナンデナンデナンデッ! アナダ、シズダーナンガジャナイ!」


 手術台からゆっくりと身体を起こしていく。

 私の背後に寄り添って蠢く、紫色で人型の靄が化物を睨み付ける。

 そこから動くな、とでも言う様に──


「失礼な方ですね。これでもバチカン公認の列記としたシスターなんですよ……まあ、あなたと『同類』であることは否定しませんが」


 手術台を降りて、一歩。

 また一歩と近づいて行く。

 眼前で狼狽える異形の瞳には、その姿はさながら獲物を狩る狩猟者のように映っていただろう。


「ウゾツキッ! ゴレジャマルデ、ワダジトオナジ──」


 継ぎ接ぎの化物が言い切るよりも速く、紫色の靄が異形の首を締め上げ、宙に運ぶ。


「これで形勢逆転、ですね。どうです、首を絞められる気分は。やられてみないと中々わからないものでしょう」


 私の意志に従って動く靄は抵抗をもろともせず、継ぎ接ぎを天井近くまで釣り上げたまま微動だにしない。


「アハ……アハハハ、ゴンナゴトシテモムダ。ワダジハ、ゴンナゴトジャジナナイ」


「──そうでしょうとも。悪魔に身体も魂も売り払った……いや、売り払い切ったあなたには、痛みもなければ傷もない。生はおろか死すら存在しないあなたを救う手立ては、もはや、ない」


 宙で足をばたつかせる継ぎ接ぎの化物は、未だ必死に抵抗してくる。普通の人間ならば、気を失っていてもおかしくないというのに。


「……なにか言い残すことはありますか」


 紫色の靄が、虚ろな刃を作り出す。

 刃は、有形にして無形。

 日本刀に酷似したそれを、靄は化物の左腕に向かって一振り。音もなく一閃した刃は、型のない中身を斬り裂いた。


「ギィ……ギャアアアアアアア──」


 継ぎ接ぎの化物に損傷はない。

 斬ったのは肉体ではなく、肝心の中身。自身を支える精神や自我をまるごと削ぎ落としたのだ。


「ナ、ナニヲシダノ……ウデガ、ウデガアヅイ! イダイ! イダイイダイイダイ!」


「肉体の損傷は、あなたの『中にいる誰か』がなんとかする。磨り潰そうが、捩じ切ろうが、叩き切ろうが、再生する。ですが──『中にいる誰か』ごとあなた自身を斬られたら……どうなると思います?」


 例え形がなくとも、現世に在るものならば、悉く消え去るのが運命。

 物理的な干渉が許されない虚ろな存在だとしても、そこに例外はない。

 以前の面影など微塵もない、変わり果ててしまった姿で喚き散らす彼女の瞳を見つめる。そこには、写真に写っていた頃の輝きは見出せなかった。


「ギィ……イヤダッ! キエダクナイ! キエダクナイ! マダワダジハギレイニナレル! ダガラミズテナイデ! スデナイデ!」


 過去にどれだけの苦悩があったのか、察するに足りる怨嗟。悪魔に魂を売り払ってでも、叶えたいという強い想い。涎を撒き散らしていることにも気がつかず、ただ自分の願いを叫び続けるそれは、まるで飢えた獣のよう。


「祈りなさい。己の罪を懺悔なさい。肉体が朽ち果てようとも、その祈りには意味がある。悔いが残ろうとも、その願いには救済がある。例え主が汝を許さずとも……私があなたを許しましょう」


 継ぎ接ぎの化物は止まらない。

 何故ならこの異形には──

 彼女には、もはや祈る神など在りはしないのだから。


「イヤダッ! キエダクナイキエダクナイキエダクナイキエダクナイキエダクナイキエダクナイキエダクナイキエダクナイッ!」


 もう、終わりにしよう。

 これ以上泣き言に付き合っていると、目の前の弱者と同類であるという事実に、押し潰されそうになる。

 こんな──

 こんな弱者と同じだなんて、認められるはずもないのは道理でしょう。


「アルグロ──もう、食べてもいいですよ」


 人型の靄が変化する。

 頭部が大きく裂け、継ぎ接ぎの化物を丸呑みにするよう、じわじわと包み込んでいく。

 むしゃむしゃと。

 ばりばりと。

 捕食していく音は聞こえずとも、靄が継ぎ接ぎの全身を包み込んだ頃には、手術室内に響き渡る悲鳴は消え去った。


「救いのなき魂に一抹の休息を──エイメン」


 中身を喰らい尽したのか、紫色の靄が私の中に還っていく。残ったのは空の肉塊が一つと、シスター気取りの悪魔憑きだけ。

 服装の乱れを軽く整え、手術室を後にする。

 去り際に一度だけ振り返り、空っぽの器を眺めた。

 面影などまるでない、醜い亡骸。


「ああ、一つ言い忘れていたのですが──」


 彼女を見たときから思っていたことを口にする。


「写真のあなた、今よりずっと綺麗でしたよ……もう聞こえてはいないでしょうけれど」


 誰に伝わることもない言葉は、夜の静寂に消えていく。

 ひっそりと浮かぶ月だけが、労いの拍手もなく、終幕を見届けていた。


4/


「私は、罪を犯しました」


 教会に戻るといつも通り、直ぐに懺悔室に向かった。もうすぐ夜明けだというのに、神父様は黙って私の告解を聞いている。


「罪を罰する為に、罪を重ねたのです。他の手段を模索することを止め、解決を力に委ねました。悪を悪で裁くこの連鎖は、いつになれば終わるのでしょうか……この使命の先に、はたして救いはあるのでしょうか」


「…………」


「私には、大切な人がいます。命を賭しても守り抜こうと誓った、大切な人がいます。ですが、いつか彼女が私の醜悪な正体に気がついたとき、彼女はこれまでのように微笑んでくれるでしょうか。同じ感情を以って、彼女を守り続けることができるのか──不安で仕方がない」


「…………」


 返答はない。

 いつもこうだ。神父様は告解を聞き入れてくれても、決して答えを下さることはない。

 悩み続けることが──

 悩みを抱き続けることが、罰。

 きっと、神父様はそう伝えたいのだろう。


「セネカ、いる?」


 懺悔室の外から声がする。


「こんな時間だというのに、仕事熱心ですね」


 要は小さな溜息を零した後、疲れを感じさせる声色で言った。


「例の事件の容疑者、無事とは言い難いけど、一応逮捕できたから……報告がてらにね」


 報告など必要ない。

 あの場に残っていたのは、ただの器だけ。中身がない、空っぽの器。


「要は、どう思いますか?」


「なにがよ」


「あれが人のまま在れたとして、司法の裁きを受けることになったとき、その刑罰は彼女に救いを与えるでしょうか」


「まず裁けるどうかも怪しいわよ、あれ。まあ、ただ生きる機能だけが働いてるものを人と呼んでいいのなら、話は変わるけどね」


 特に感慨もなく軽い調子で、要は言う。

 仕事として割り切っているのか、彼女個人の考えなのかは、判別がつかなかった。


「……時々、わからなくなるのです。私がしていることは、正しいのかと──もっと他に選択肢はあったのではないかと、思ってしまう」


「ふうん……あたしにはあんたの言う正しさってものがわからないけど、少なくとも、あのまま沙月芽衣を放置しておけば、もっと多くの犠牲者が出てた。多くの人が涙を流してた。だから、それを未然に防いだと思えば、あんたの行いは間違ってない……正しいとも思わないけどね」


「リアリズム、というやつですか。冷静なのですね」


「まさか、あり得ないわ。生粋のロマンチスト捕まえてなに言ってんの。これは単なる仕事よ、仕事」


 じゃ、そういうことだから、とだけ付け加えて、ヒールの足音が遠ざかっていく。

 リズム良く刻まれていた高い音が、唐突に止まる。


「でもさ、そういうことで悩むことができる自分を、ちょっとぐらい許してあげてもいいんじゃない」


「…………」


「だって、あんたは連中とは違う……シスターなんだから」


 再び歩き始めた彼女を追いかけることもなく、私はただ黙って朝日を待つことしかできなかった。


5/


 どれだけ悩んでいようとも、朝日は昇る。

 寝不足な身体に鞭打って、今日も恒例の礼拝に臨もうとしていたところ、朝から教会に来訪者がやって来た。


「おはよー、セネカ」


「ええ、おはようございます、摩耶。朝から教会に立ち寄るなんて、珍しいじゃありませんか」


「あのね、今日はなんだか早起きしたい気分だったから、早起きしたの。そしたら、なんだかセネカの顔が見たくなって、早めに登校することにしたんだ」


 満面の笑みで語る摩耶の顔が、ステンドグラスから差し込む朝日に照らされて、色鮮やかに、神々しく見える。胸の中で蟠っていた想いが、少しずつ解かれていくのを感じた。


「ふふ、そう思って頂けて光栄です。では、早起きついでに朝の礼拝をご一緒にいかがです?もっと気持ちの良い朝を迎えられますよ」


 満面の笑みが苦笑いに変化した。

 全く、現金な娘だ。


「げええ! い、いやー今日は聖書忘れちゃったから、残念だけどご一緒はできないんじゃないかなー」


「聖書なら私のものを貸しますよ。内容は全て暗記していますので、ご心配なく」


「え、ええー今日は勘弁してよ、セネカー」


 困り顔で腕に縋りついてくる摩耶の肩を、軽く叩く。


「冗談ですよ。ゆっくりしていってください」


「ホ、ホント!?」


「本当ですとも」


 礼拝堂の中心でぴょんぴょんと小さく飛び跳ね、身体全身を使い喜びを表現する摩耶に、一つだけ問いかける。


「摩耶、少しいいですか」


「ん、どうしたの?」


「これは例えばの話なのですが……仮に私が原型もわからなくなるくらいの大火傷を負ったとして──二度と元に戻ることができないくらい酷い姿となったとき、摩耶にとっての私はどうなりますか」


 思考する間もなく、一瞬で答えが返ってくる。


「変わらないよ、一つも。火傷したってセネカはセネカだもん。見た目が変わっても、マヤの大事なセネカだってことは──変わらない」


 そう、はっきりと言い切った。

 迷いのない、凛とした摩耶の瞳を見て、私は確信を得た。

 ──強者は弱者にないものを所持している。

 弱者がどれだけ渇望しても手に入らないものを、強者は自然と所持している。

 それは目には見えないし、形がない。

 不思議そうにこちら覗き込むあどけない少女に、やんわりと微笑み返す。

 所持している者と、していない者。

 その差を埋める為に、今日も私は強く在ろうと虚勢を張る。

 どこかにあるはずの、救いを求めて。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 新着の短編小説欄で見掛けて読ませて頂きました。 葛城自身はホラージャンルが全く書けないので楽しく読ませて頂きました。 では頑張って下さいね。 [気になる点] 誤字報告をしています。 一緒…
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