死に誘引される逢瀬
俺は走っていた
17歳、月並みな体躯、上から下まで月並みだが、体力は同級生よりも自信があった。それが救い。
力の限り足を回転させる。力の限りというと語弊があるかもしれない。なぜなら俺は今自分の体力を上回る勢いで足を動かしていたからである。
正直自分にこんな体力があった事が驚きでならない。それは生物の本能だからだろうか。
駆ける、駆ける、駆ける。
眼前を林が、木々が過ぎ去って行く。
十月の乾燥した宵闇の中、月光だけが足下をおぼろげに映し出していた。
鬱蒼とした木々の中では歩くのにも苦労しそうな光量である。
それでも足を止める訳にはいかなかった。
追われている。
誰に?和装の女性。俺の仕事中にのそりと現れた
身の丈は俺と同じくらいだが、痩身。すらりと伸びた指は何でも掴んでしまいそう。
腰まで伸びた漆黒の長髪、その黒は光すら吸い込んでしまうのではないかと錯覚させられる。たった一つの光源、太陽の反射光、妖艶に酔った月明かりの収束地点。
着ている羽織は赤だが、中の振り袖すら黒い。どこを探しても黒い振り袖を日常的に着る女性はいないと思う。俺の常識が壊れていなければ。
ただただ、薄気味の悪い女。
俺と顔合わせるなり一つニヤリと歪な笑みを顔に張り付かせた。
その瞬間、俺の脳は一つの行動を電気信号として全身に送り、次の瞬間には体が爆ぜた。直感が言っている、あの者に関わってはいけない、と。
踵を返し、自分が居た純和風家屋を脱兎の如く駆け抜け、側道を走り、人の往来の少なくない商店街を抜け、気配を感じながら走り続け、気がつけば林の中。
暗闇が一方的に視界を奪い、黒の世界が暴力的に存在を主張する。
周りの枝が体をかすめていき、地上に横たわる石は何度となく俺の走行を邪魔をする。
空を見上げるとそこには暗闇に穴を開けた様にまんまるの月が辺り一面を照らしていた。
今日は満月。人でない者が狂い、猛るそんな夜。
枝の一つに制服をひっかけた様だ、その箇所から風が吹き抜けて破れたのだと分かる。
構っていられるものか。そのまま体を前進する為への推進力に預ける。
まだまだ走り続けられる。日々の努力は嘘を吐かない。爺さんに会って何とか話をしなければ。
あの爺さんなら現状を何とか出来るかもしれない。
その前にこういう状況への対応を習っておくべきだった。
それに、無我夢中で走り始めたので自分の家とは違う道を来てしまっている。
ここを抜けなければ何にもならない。
色々と苦悩を撒き散らし歯がみしながらも駆け続ける。
目の前に木々が避けて出来た様な円形の空間があった。月光が素直に差し込んでいるのでさっきより明るい。
あそこを抜けて整備された道路まで行かないといけない。
あまり広くない林道を抜け、空間へと身をすべりこませた時、一つ違和感に包まれた。
シャボンの様な薄膜を通り抜けた感触が全身を過ぎたのだ。
木々がそこに自生するのを嫌って出来た様なまあるい空間は十月とは思えない程の暖かみを帯びており、何やら気持ちがいい。
おかしい、明らかにおかしい。走ってきた体は蒸気しているのにそこにいる事を心地よいと感じているくらいだ。
それはまるで胎の中―――。
そんな折、目の前の林道から何かやってくる…いや、入ってくる。
ブルネットの腰まであるクセの無いロングヘアーが風に揺れた。
容姿端麗、眉目秀麗。切れ長の目は母の様な穏やかさをたたえながらも底が見えない洞の様。
真っ黒の和装がそれを際だたせる。街中で見かければ誰もがその美麗さに目を留める事だろう。
振り袖を一つたなびかせて優雅に『それ』は現れた。
声が出ない。口は呼吸を求めた金魚の様に開くが声は出ない。体は鋼の様に固まり、鉛の様に重い。
背筋を冷たい汗が伝っていった。空間は温いというのに、数秒前まで心地よさを感じていた体は冷え切ってしまっていた。
一歩、一歩と穏やかな歩行で女はこちらに近寄ってくる。
数秒の間が数分にも感じられる。
早鐘の様に鳴り響く心臓の音すら煩わしい。
逃げろ。
脳がそう言い続けているのに鉛の体は動かない。
数秒かけて無理矢理体をねじ曲げて元来た道、女とは真逆の方向に手を差しのばそうとした。
元の道に戻れない。壁がある。透明の壁が。押し込むとぐにゃり歪むが決して破れそうにない膜。
「ごめんなさいね、結界、張らせてもらってるから」
そんな言葉をきっかけに腹部に衝撃が走った。
「あ…?」
腹が熱い。女の腕が肘まで腹部に突っ込んでいる。
背中から女の手が生えている。
17年間生きてきて経験した事の無い、常識外の光景が脳を混乱状態へと引きずりこむ。
困惑した脳が事態を理解する前に喉まで鉄臭い液体がこみあげてきた。
赤い赤い。生命の根源たる赤。
ビシャという変哲のない音を立てて血が散逸した。
呼吸が苦しい。鼻から鉄の匂いが抜けていく。
地面に赤いシミが広がる度足から力が抜けていく。
同時に膝がガクガクと震えだした。
女は片方の手で俺の肩を抱き、自力で立つ事が難しくなった肉の塊を近くの木の根元に座らせた。
女は俺の腹から手を抜き、一振り。血痕が飛散する。
腹に出来たドーナツ程度の穴から血が止まる事無く溢れ出ていた。
襲い来るのは寒さと痛み。
身体は冷たくなる一方なのに身体の芯は熱く、脂汗が止まらない。呼吸は荒々しく定まらない。目に映るは女の足。まぶたが重い、光を失っていく。頭によぎるのは生物としての死―――。
「……生きたい?」
俺は目の前にいる存在が何を言っているのかわからなかった。
真意が―――読み取れない。
俺を殺したのはお前―――
さんざん追いかけ回したあげく、腹を貫いて死を誘引した―――。
必死に女の顔を見上げた。逆光で解りづらかったが、その口は三日月の様にひしゃげていた。
その口がもう一度言葉を紡ぎ出す。
「生きたい?」
俺の思考は定まらなかったが、生物の本能が勝った。
「………生ぎだい…」その一言だけがまろび出す。
俺の言葉を聞くと満足気に微笑む女。眼前に血濡れた自分の手を差し出すとこう問いた。
「食べられる?私の体を食べれば助かるわ。腹に穴の開いた人間が助かる方法はそう無いわよ」
女の二の句はやっぱり理解出来なかった。
自分の手を薬として食べろと言っている。こんなに趣味の悪い話も無い。
さっき俺の腹を貫いた手を、生命を終わらせようとしている手を食め―――と。
女の顔から笑みは消えない。俺の目を真っ直ぐ見据えて。
「食べるか、死ぬか…貴方が決めなさい」
そう言った。
俺はその言葉を反芻する間もなく―――
目の前に居る女の柔肌に喰らいついた。
前歯が肉に食い込む。自分のモノとは違う血液が口に充満する。
思い切り皮を引き千切り、肉を咀嚼する。
ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり。
人とおぼしき存在を食む事がこんなにも気持ちの悪い事とは―――。
身体の反応が思わず肉をはき出しそうになったが、こらえる。
おおよそ人間とは思えぬ一挙動を終え、肉を嚥下した。
「食べ…たぞ!」
俺の言葉に女は何も語らない。相変わらずニタリと笑みを浮かべたまま俺を見下ろしている。
限界だった。視界が揺らぐと俺は前のめりに昏倒した。
俺は何も知らず―――意味さえ知らず。
ただただ、虫の様に死んでしまった。