夜行列車に乗って
目覚めは最悪だった。一応は寝たはずなのに、体が岩のように重い。
「……起きなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟いて、習慣となった動作で制服を着ていった。大きな鞄を持って部屋を出る前に、昨夜から置いてあった麦茶を飲む。コップの中身は、お湯とたいして変わらなくなっていた。
「おはよう」
階段を下りていくと、台所で朝食を用意していた母が明るく言った。
「……おはよ」
私はやる気のない声でそれに応える。礼儀作法にうるさい母は、私が返さない限り同じ科白を繰り返し、手を尽くして言わせようとするからだ。
「何日間行くの?」
目玉焼きとトーストを出しながら、母が訊いた。目は、床に置かれた私の鞄を見ている。
「ん……十日間」
私は少々焼きすぎたトーストを頬張りながら応えた。相変わらず、母は料理が上手でない。下手とは言えないのだが、この回りが焦げた目玉焼きはどうにかならないものか……。
「そう、頑張りなさいね」
母は私に微笑みかけた。それを見ても、私の中に躊躇いが生じることはない。
「……うん」
返事をした私の思考は、既に母には向けられていなかった。
今日から、私は所属している弓道部の合宿に出かけることになっている。しかし、休みに入る前に、部活は引退していた。もちろん、母や父にも言っていない。
横目で、足元にある鞄を見た。入っているのは、お気に入りの服がたった一着と、ロープだけ。他に、物が詰まって見えるようにと、ありったけのタオルと、もう着られなくなった衣服が無造作に入っている。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、母の料理は私のお腹の中に消えた。
「……ごちそうさま」
食べ終えた食器を洗い、私はほとんどが合宿には要らないもので占められた鞄を肩に掛け、玄関へと向かう。母は、大量にある洗濯物を片付けていて、見送りには来なかった。
「……行ってきます」
外に出る前に、脱衣所の方に向かってそう声をかけると、いつもと変わらない母の返事が返ってきた。
―――バタン。
背後で、無機質にドアの閉まる音がした。
早朝の、昇り始めた太陽が、日中の暑さの片鱗を見せている。私は駅へと向かうバスの停留所へと歩いて行った。学生なのでお金も無く、とても飛行機では行けないので、全行程が普通電車移動の貧乏旅行となる。事前に購入した切符が、しっかりと鞄にしまってあった。目指すのは、幼い頃に一度だけ旅行で行った場所。その場所以上に相応しい所は無いと思った。
ふと、私は立ち止まる。振り向くと、ついさっき出てきた家が、遥か後ろにあった。誰もいない道で、小さく言う。
「……さようなら」
――私は行きます、夜行列車に乗って。
再び前を向き、私は歩き出す。雲ひとつない快晴だった。
―fin―