Scene 5 : こんなはずじゃなかった
「え? え? えええええ?」
ニーニャが両目を高速で瞬かせながら後ずさっていくのを、アレックスは興味深そうに眺めていた。頭を抱えてその場にしゃがみ込み、ぶつぶつと何事かを呟いている姿にも、うっすらと笑みを浮かべた以外は心動かされた様子もない。
なるほど。さすが貴族様だ。
内心で独りごちて、ユリアは、己の出世のために必要な公爵令嬢を見つめた。
容姿端麗。頭脳明晰。才色兼備。
すべて噂で聞きかじっただけの言葉だが、それらは精確にアレックスのことを表している。魔法で眠らされた城の状態にも動揺しないのは、おそらくその魔法の使い手に心当たりがあるか、魔法そのものの構造をいくらか把握しているからだろう。アレックスが心配している素振りを見せないのは、この魔法が時間制限のあるもの、つまり、一定時間の後自然に解除されるタイプの魔法だからか。それとも、解除方法を知っているのか。
どちらにしても、これがテレンシア領にとって一大事であることには変わらない。にも関わらず、この落ち着きよう。見目麗しい公爵令嬢は、剛胆でもあるらしい。
ここまでは、ユリアにも予測がついていたことだ。オード帝国での貴族の数は少なくない。その中で、ヴェランデにも聞こえるほどの評判を吹かせるには、それ相応の理由がなければならない。噂に尾をつけることはあっても、水浸しの場所に火を起こすことはできない。
唯一誤算だったのは、公爵令嬢が令嬢ではなかったことだ。
天蓋付きのベッドで上半身裸で仁王立ちになったままのアレックスを見上げて、ユリアは顔をしかめる。
貧乳で有名なユリアよりもぺったんこの胸は、男性のそれでしかありえない。グレンのようにでたらめな筋肉がついていないだけで、アレックスのそれは美術品のように美しい。ただし、アレックスが身につけている下着は女性のものだし、男性にならあるはずの膨らみもまったくない。
両性具有。
その存在を聞いたことはあったが、まさかご対面できるとは思っていなかった。
「アレックス様。お着替えは?」
とりあえず、半裸の貴族をベッドの上でふんぞり返らせておくわけにもいくまい。
ユリアに声をかけられると、アレックスは不遜な視線で彼女を見下ろし、両腕を広げた。
「それは、どういう……?」
仕草の意味を計りかねて問えば、鼻で笑われる。
「オレが自分で着替えるとでも?」
「それは、もしかして、お一人で着替えをされたことがない、ということですか?」
「ある。ていうか、できる。でもやらない。少なくとも、今は」
尊大な言い方だが、不思議と心証が悪くない。声音のどこかに、何かを面白がるような色があるからだろうか。
床にうずくまって現実逃避に忙殺されているニーニャは役に立ちそうにない。仕方なく、クローゼットから持ってきたドレスを手にして、ユリアは四苦八苦しながらアレックスの着替えを手伝った。
「なんか、聞きたいことがあるんだったら受け付けるが?」
ドレスは、アレックスに言わせると”普段着”で、”近所の散歩用”らしいが、その胸元に縫いつけられた輝くビーズのようなものは本物の宝石だし、ウエストの華奢さを強調するように背中に盛られたリボンは極上のシルクだし、スカート丈がやや短いとはいえ、それに施された刺繍は誰の目にも一流の職人の仕事だと分かる。
その普段着のドレスを纏って、アレックスは今、出窓近くに置かれた読書用の一人掛けソファに腰掛け、脚を組んで紅茶をすすっている。
もちろん、紅茶もユリアが淹れたものだ。
「質問というようほどでもないのですが」
歯切れ悪くそう言うと、アレックスは慈悲深い笑顔を向ける。
「遠慮するな。お前も見ただろ? 城の者は全員、眠っている。オレにどんな内容を尋ねたとして、それについて咎める者はいない。そして、オレはお前にどんな内容を尋ねられたとしても、驚かないし糾弾するようなことはしない。安心して口を開けばいい」
「では……。お言葉に甘えて……」
とは言ったものの、やはり、これから訊こうとする内容を鑑みれば、口も重たくなる。
ユリアがどうやって尋ねようかと悩んでいる間中、アレックスは一言も口を挟むことなく、優雅に紅茶の入ったカップとソーサーを手にして、窓からの景色を眺めている。その品良く上を向いた鼻の形も、長く濃い睫毛も、ぷっくりと膨らんだ可愛らしい唇も、美少女そのものだ。
「あの、その、アレックス様のご体質については、城の方々は」
「両親は知ってる。ま、当たり前だな。他の者は、公には知らないことになってる。ただ、知らないままでいることの方が難しい」
「それで、アレックス様は、その、なんと言えばいいのか。精神的には……?」
「良い質問だな」
ようやく、アレックスがユリアを見据えた。その蠱惑的な深緑の瞳は、太古の昔から生きる仙人のような知性をたたえ、それでいて、何十年も前線で戦い続けてきた武将のような闘志をも内包していた。
「オレは、生まれたときからこうだった。両親は初めは、娘が生まれたと喜んだんだ。でも、だんだんと体が大人になっていく中で、オレの体が上下で違う性を持っていることに気づいた。オレも、両親も。もともと、オレは女として育てられていたし、男には人気があった。この容姿だからな。だから、そのまま女として生きていくことを望まれていたんだ。テレンシアは血族が領地を治めることには割合、寛容な方でな。オレが婿を取れば、それで事足りると思っていた」
テレンシアは、ここ百年ほど戦もなければ大きな自然災害もなく、平和で暮らしやすい領地だ。ここの領主になれ、しかも公爵の位を与えられ、なおかつ社交界に名を轟かすほどの美人を嫁に取られるとあれば、アレックスの伴侶になりたいと願う男性は星のほどいるだろう。
「でもな、致命的な欠陥が見つかったんだ。オレに」
ソーサーを音もなくテーブルに置いて、親指を胸元につきつける。貴族らしい優雅な仕草と相反する乱暴なそれは、アレックスの中で決して混じり合うことのない二つの性を表しているようだった。
「オレには、繁殖能力がないということが分かった。オレの体は、子を成すことも、子を与えることもできない」
伝えられた情報はあまりに深刻で、本当にこのようなことを知ってしまって良いのだろうかとユリアは狼狽した。また、それを知ったときのアレックスを思って、下唇を噛む。
「ありがとう。そういう顔をしてくれたのは、お前が二人目だ」
アレックスが微笑む。ゆっくりと瞬きをすると、睫毛が蝶のようにはためいた。
「それを知ったときに、父親も母親も、オレにこう言った。こんなはずじゃなかった、と。オレが生まれたときはこの世の宝だと喜び、豪奢な衣服を着せては世界で一番の美人だと誉めたたえて、オレが呼吸するように外国語を話すと天才だと騒ぎ立てた両親だ。初潮がこないのはオレが精神的に不安定だから、胸が膨らまないのは女のくせに勉学ばかりしているから、社交界で声をかけてくる男どもがオレよりも馬鹿ばっかりで、勝手に卑屈になって去っていくのはオレが男をたてる術を学ぶよりも魔法や政治の勉強をしていたから、オレに繁殖能力がないのは、テレンシアの次期領主が両親とはまったくの血の繋がりがない者になってしまうのはオレがきちんと女として生きようとしていないからだ、と騒ぎ立てた両親だ」
「そんな。アレックス様のせいではないではないですか。魔法の勉強も、その他の勉学も、アレックス様のお体とは無関係です」
「その通りだ。でもな、そうやって、こんなはずではなかった、これはお前のせいだと無実の人間に罪をなすりつけて、責任を背負わせることでしか生き続けられない人間もいるんだ。ちょうど、オレの両親のように」
「でも」
「別にかまわない。オレは、あの人たちが俺に指をつきつけているすべての事柄が、オレの責任ではないことを知っているから。それで、あの人たちが心地よく暮らせるのなら、それで構わない。こんなはずじゃなかった? だったら、与えられたものを最大限に使って、しぶとく生きるだけだ」
そう言ってから、苦しそうに、満足げに口の端を上げるアレックスの姿は、ユリアが心底敬愛しているあの偉大なる賢者の先輩を思い起こさせた。
そうか。アレックスは、闘士なのだ。理不尽な目に遭っても、決して膝をつかず敗北しない、不屈の魂に火を燃やすファイター。
その麗しい見た目とは裏腹の、男気溢れる精神は、ただの公爵令嬢よりも余程魅力的だと思えた。
「その気持ちは、分かります」
「へえ?」
「内容は違いますが、私も、そしてあそこでへたり込んでいるニーニャも、こんなはずじゃなかったと一度は自分に絶望し、今はそれを覆そうと生きているところです」
「覆す、か。面白い。……うん。決めた。お前ら、オレと一緒に来るか?」
「は……。どこへ、でしょう?」
「オレは、この城にも両親にも何の未練もない。育ててくれた両親には感謝しているし、せっかくできた子供がオレのようなできそこないだったことは大いに同情する。でも、オレの人生はオレのものだからな。執着していないものはすべて、捨てていこうと思っていたところなんだ」
「城を出る、ということですか」
「テレンシアの名を捨てる、ということだ」
ゆっくりと発音し、ユリアの理解がその顔を驚愕に変えるまで待つと、アレックスは組んでいた脚をほどいて立ち上がる。すっと伸びた背筋と、長く細い首で頭を支え、婉然とユリアを見つめた。
「どうだ? 面白い話だろう? お前ら、見たところパーティーを組んで日が浅い。しかも、あの勇者とやら、まったくの素人だ。おおかた、あいつを使って、名を世に響かせようとの魂胆なんだろう? だったら、オレを利用すればいい。オレはテレンシアの名を捨てるが、テレンシアの名を隠すだけではない。元テレンシア公爵令嬢が、冒険者として歩き回っていて、その仲間であるとなれば、お前たちにも利はあると思うが?」
「し、しかし。アレックス様には、私たちをパーティーメンバーに加える理由が」
「あるよ。面白そうだからだ。それに、もしオレと一緒に来てくれるのなら、まず訪ねたい場所があるんだ」
話の展開が急で、頭が追いつかない。ただ、アレックスの提案には、ユリアやニーニャ、それにグレンにとってメリットが多いことは確かだ。
「訪ねたい、場所?」
アレックスの言葉をおうむ返しにするしか、そのときのユリアにはできなかった。アレックスは、一度目を伏せ、愛おしげに窓の外眺めると、
「何にも執着しないオレが、唯一執着しているものを手に入れる」