Scene 2 : ギャップ萌えに関する考察
ニーニャの糾弾の声にグレンは動作をいったん止めて、いつも通りのとぼけた顔で振り返ってみせた。
「なにって」
「なんでグレンは、アレックス公爵令嬢のベッドに腰掛けて、彼女の顔に自分の顔を近づけようとしているのかな?」
ただでさえ白い肌に青い血管を浮かび上がらせてこめかみを震わせるニーニャの姿は、たとえ城の外から彼女の姿を望遠鏡で発見しただけだとしても怒っているとわかるくらいに、怒髪天を衝く勢いで苛立っていた。にもかかわらず、当のグレンはふっかふかの布団に腰掛けたまま、きょとんと首を傾げている。
「え、だってさ。このひと、寝てるんだろ? だったら起こさなくちゃだろ? それで、眠り姫はキスで起きるんだぞ、知らないのか。アメリアがよく言ってた」
「ま、待て待て待て。待て、グレン」
両手を突き出して、犬に待ての指示を出す格好で、ユリアはじりじりとグレンのもとへと近づいていく。グレンの手首にそろそろと手をかざすと、小声で呪文を唱える。
「<鎖>」
青く透明な光がグレンの手首を包んだかと思うと、すぐにそれは質量をもった実体へと変化する。自身の両手首をつなぐ鎖をしげしげと見つめてから、グレンはユリアを見上げた。
「すまんな、グレン。今お前に予測不能の行動を取られるわけにはいかないんだ」
「ほら、ここ。こっち座って」
ベッドの近くの出窓には、そこに腰掛けて読書できるように長椅子ようのものが設置されている。触らずとも高級品だとわかる絹を張られた長椅子からは、城の外がよく見えた。グレンたちが通ってきた道も、さきほど訪れていた城下町も、そしってテレンシア公爵がハンティングに使うという森も。
ニーニャに促されるまま長椅子に腰掛けたグレンは、いまだに状況を理解していないのか、昼寝から目を覚ましたばかりの老犬のような顔でどことも言えない方角をぼんやりと見ている。
「前々から気付いてたけどさ、グレンのあの予測不可能っぷりはやばくない?」
長椅子から外の景色を眺め、あの雲はアメリアが持っていたマグカップに似ている、あの雲はアメリアが持っているカバンに似ていると一人遊びに興じているグレンを指差しつつ、声を潜めてニーニャが言う。ユリアもニーニャに合わせて背を屈め、声のトーンを落とした。
「ちょっと制御が難しくなってきているな」
「ユリアー、どうしよう! だってさ、さっきの公爵令嬢に無理やりキス!は事前に防げたけど、すでにここに入るのにあの錠前を壊しちゃってるしさ」
「器物破損、不法侵入にわいせつ罪か……。なかなかにヘビーだな」
「もうさあ、この際グレンは捨てちゃう? あたしたちにまでとばっちりがくるようだったら、今のこの段階でグレンと縁を切っちゃった方が良くない?」
「しかしニーニャ、ここでグレンを捨てて、それでどうなる? あいつのことだ、私たちには理解できない農民の勘とかいう恐ろしいもので追いかけてくるに決まっているぞ」
「なんで? なんで追いかけてくるの?」
「グレンの最終目的はなんだ」
「アメリアちゃん」
「そのアメリアちゃんに会うためには、彼女はどうしろを言っていた?」
「は!」
両手を可愛らしく口元に添えてびっくりした顔をしてみせるニーニャは、その表情だけ見ればまるで外の世界を知らない箱入り娘のようだ。
「そうかあ。アメリアちゃんは、グレンに勇者になってほしいんだっけ」
「そうだ。そして、私たちも名声を手にいれるために、グレンが勇者になることを欲している。利害は一致しているんだ。グレンは勇者には興味はないが、アメリアちゃんに会うためには勇者にならなくてはいけないと思っている」
「そして、勇者になる方法をグレンは知らないから、あたしたちに教えてもらいたがっている」
「つまり、ここで私たちが逃げても、あいつに追いつかれて、ジ・エンドだ」
ハスキーな声を一段低くして、ユリアが人差し指で首を真一文字に切る仕草をした。ひいい、とニーニャが小さな悲鳴をあげる。
「じゃあ、どうすんの! あたし、アホで馬鹿で空気の読めないグレンはまだ許せるけど、婦女暴行罪に問われてるグレンと一緒にいるのは嫌なんだけど!」
「私だって嫌だ!」
「なあ」
「きゃああああ!」
「わあああああ!」
ついついヒートアップしていた二人は、椅子から降りて背後に立っていたグレンにまったく気付かないでいた。急に声をかけられて大きな声をあげ、頭を抱えてうずくまる。
「どうしたんだ? ニーニャ、ユリア。腹でも痛いのか?」
「う、ううん」
愛想笑いを浮かべて、ニーニャが首を振れば、ユリアも取り繕った笑顔で、
「なんでもない、なんでもないぞ、グレン」
とまったく根拠のない言葉を繰り返す。挙動不審な二人に、ふうんと気のない返事を返してから、グレンは鎖をじゃらりと鳴らして、ベッドを指差した。
「あのお姫様、あのままでいいのか? あのひと、もしかして死んでるのか?」
そうだった。アレックス公爵令嬢を兎にも角にも救出しなくては、グレンを勇者にまつりあげて、そのパーティーメンバーとして有名になるという完璧な計画が頓挫してしまう。
「きれいだなあ、このひと」
ベッドの上からしげしげとアレックスを見つめて、グレンが呟いた。心なしか、声に熱がこもっているような気がする。
「まあ、才色兼備で有名な方だからな。頭脳明晰、容姿端麗。今年社交界デビューされて、そこでも注目の的だったらしい」
「へえ。なんか良くわかんないけど、きれいだなあ。目を瞑っているのにこんなにきれいなんだから、目を覚ましたらもっときれいなんだろうなあ。おれ、アメリアよりもきれいなひとがいるなんて、知らなかったよ」
「え? え? ええええ? ちょ、ちょっと待って! グレン、今なんて言った??」
立っているグレンとは身長差がかなりある。両手をぴんと伸ばして、ニーニャはグレンの襟首を掴み、がくがくと前後に揺すった。正確には、揺すろうとした。いったい何を食べてどんな生活をすればここまで頑丈な体つきになるのか知らないが、とにかくグレンは硬くて重い。ニーニャごときの腕力では微動だにしなかったが、彼女の動揺っぷりは伝わったらしい。
「ニーニャ、どうしたんだ? 慌てて」
「グレン、さっき、このひとのことなんて言った?」
「きれいなひとだなって」
「誰かと比較しなかった?」
「ひかく……?」
「比較! えっと、比べること! 誰よりきれいだって?」
「アメリア」
「まじか!」
本当だったら、ここでグレンが片膝をつくくらい揺さぶってやりたいところだが、それは叶わない。ので、両手をグーにしてグレンの胸板を何度も叩いてやった。もちろん、ニーニャの拳が痛いだけで、グレンはにこにこしている。
「グレン、お前、それは本気で言っているのか?」
「うん。このひと、おれが見た中で一番きれいだ」
「たしかにアレックス様はお綺麗でいらっしゃるが……」
「だから、おれがキスする」
「待てぇーい!」
清々しいまでに言い切ったグレンの言葉に被さるようにニーニャの悲鳴が重なり、同時にベッドに片膝をついたグレンの背中にニーニャの蹴りが入る。
「グレン。グレン! それは本気でやばいって。何、今の。まず初めにさ、グレンってシスコンキャラじゃなかったの? なんでそれをそんな簡単に捨てちゃうの? ドブに捨てちゃうの? それから、なんだって? キス? なんで即決なの? どういう思考回路してるの? なんで、このひときれいだな、寝てるのかなってところから、おれがキスするって結論に達しちゃうの? 病気なの? 馬鹿ってこじらせるとそんなになっちゃうの? 重症だよ? もはや治療不可能だよ、グレン? アホのグレンはまだ可愛げがあるし、馬鹿のグレンもまだ使い道があるよ、でも、そんなムッツリスケベなグレンはどこにも需要はないよ!」
「なに言ってるんだ、ニーニャ? だって、このひとこんなにきれいで寝てるだろ? だったら、このひとは眠り姫じゃないか。眠り姫は、キスで目覚めるんだ」
「ぐ、グレン。グレンにしては論理的な思考であったことは認めよう。だがな、その最後の部分が問題なんだ。いいか。相手は公爵令嬢なんだぞ? しかも有名人だ。そんなひとを相手に、同意も得ずにキスなんてしてみろ。わいせつ罪で済んだら良い方だ。グレン、考え直せ」
「でも、おれはアメリアに勇者になって村に帰るって約束したし。眠り姫を助けたら、勇者になれるってニーニャとユリアも言ってたし」
「言ってた。言っていたが、グレン! 早まるな、グレーン!」
アレックスにどんどんと顔を近づけようとするグレンの背中を羽交い締めにして、ユリアとニーニャが渾身の力で引き止めようとするが、止められるどころかグレンの馬鹿力に引きずられてしまいそうになる。
「グレン! まじで! まじでやめとこう! ギャップ萌えっていうのは、マイナスからプラスになったとき、もしくは超絶プラスに微量のマイナスが入ったときにしか起こらないの! グレンのはアホで馬鹿、からのムッツリスケベでしょ? マイナスからのさらにマイナスだから。それはギャップ萌えじゃないから。もう、本当にやめとこう。やめるんだったら今がチャンスなんだから」
「そうだぞ、グレン。考え直せ。人生を棒に振るな。私たちだって、お前がそうやってひとの道を外れていくのを善とはしていないのだ」
グレンの背中の両脇をニーニャとユリアがしがみつくようにして引っ張っているが、徐々に、グレンの顔はアレックスの美しい寝顔に近づいていく。
「ん」
「!!!!!!!」
むにゅ、と音がしたような気がした。緊張感のまったく感じられない声で、グレンがアレックスの唇に触れる。へなへなとその場に崩れ落ちたニーニャとユリアは呆然と、元農民で勇者志望だった犯罪者の後頭部を見つめた。
閉じられたガラスドームのような瞼が、ゆっくりと開く。一見すると黒や紺にも見えるほど濃いグリーンの瞳が現れた。グレンの予想は正しく、眠ったままのアレックスは美しかったが、瞳を開けた彼女は、神話の中の女神のような圧倒的な美貌を誇っていた。目を覚ましたテレンシア公爵令嬢、アレックス・テレンシアは、熟れて蜜を滴らせる果実を思わせる唇を開いて、こう言った。
「オレを起こしたのは、どこのどいつだ」