Act IV ; Scene 1 : 深窓の令嬢のお目覚めのとき
「ふえーーーええええーーーー」
腰に下げた剣が「金穂の炎」でなければ、たとえそれが通行人には伝説の名剣だとわからなくても、ただそれが傍目にもわかるくらいの高価な品だとわからなければ、グレンの今の表情は好意的に解釈してマイペースな感激屋さん、もう少し現実的に解釈すればお上りさん丸出しのただの阿呆にしか見えなかった。だらしなく開いた口からは、やる気というものを忘れて生まれてきた強者だけが出せる覇気のない声が出る。無論、意味をなす言葉を出すわけではなく、感嘆ともため息ともつかない音が、ただ漏れ出しているだけだ。音がだらしなく消えていった後も、グレンは口を半開きにしたまましばらく突っ立っていた。
「すごいなあ。あれが城か?」
目の前に立ちそびえる建物をずびしと指差してグレンが尋ねた。ニーニャとユリアは残念ながら、グレンの阿呆丸出しの顔に慣れきってしまい、もはや顔をしかめようともしない。ただ、客観的に彼の頭の悪さは嫌というほど理解していたので、彼を勇者にしたてあげて名声を得ようとしている二人は、周囲に人がいないことを心底喜んでいた。
「そうだ。ここテレンシア公国領を統べるテレンシア公爵の居住地。テレンシア城。地元民には<縦の庭>と呼ばれているらしい」
「<縦の庭>? なんで?」
「城の中庭に面している壁がすべて、緑で覆われているから、らしい。中庭に立つと、まるで森の中にでも入ったような気分になるそうだ。といっても、中庭に入ることを許されている者は限られているらしいが。ただ、その景観が美しいらしく、ゲストたちには評判らしい」
「へえ」
ユリアの丁寧な説明を聞きつつも、そこまで興味はないと言わんばかりにニーニャは気のない返事を返す。欲しいのは名声であって、招待客を喜ばす緑ではない。
「とりあえず、行こっ」
軽く言って、ニーニャが先に歩き出す。それを追いかけるようしてユリアが動いた。グレンはいまだに口を開けたまま、ぼんやりと立っている。涎が垂れないのが不思議なくらいだ。
「グレン! 置いてっちゃうよ!」
口元に手をやって拡声器のようにして使う。ニーニャの声にやっと我に返ったグレンは、負けじと大きな声で、
「城って、大きいな!」
しごく普通のことを言った。反応に困る。常人ならツッコミ待ちかと思い、気の利いた返答を渡すところだが、相手はグレンなのでその可能性は天地に誓ってない。目を泳がせているニーニャの代わりに、ユリアが、彼女にしては珍しく声を張り上げた。
「城だからな!」
しごく普通のことである。もしくは、オウム返しなだけだ。ここがもし芸人養成所なのだとしたら、今のやりとりだけで落第確実だろう。しかしグレンはユリアの返答に満足した笑みを浮かべると、農業で鍛えた頑強な足腰で力強く一歩を踏み出した。
「あんな大きな建物、見たことない」
「村にはなかったのか、あの大きさは」
「ないなあ。何人家族で住んでるんだ?」
「家族? 公爵には、妻と一人娘のアレックスしかいなかったはずだ」
「じゃあ、一人?」
「どこをどう計算したら今ので一人暮らしってことになるのよ! 公爵、公爵夫人、公爵嬢の三人でしょうが!」
「えええええ??!! あそこに三人だけで暮らしているのか? よっぽど麦の蓄えをしているんだな」
「あのな、グレン。公爵は畑は耕さないんだ」
「じゃあどうやって麦を育てるんだ?」
「麦も、育てない」
「????? 麦も育てない、畑も耕さない、じゃあそのて、なんとかってひとは何をして暮らしているんだ?」
「えっと……」
こめかみに手をやって頭痛を凌ぐユリアを庇うように、ニーニャが後を引き継ぐ。
「あそこに住んでるひとは、すんごい大きな畑を持ってるの。それで、いろんなひとに、お前は畑を耕せ、お前は牛を育てろって命令するの」
「へえ。えらいひとなんだな」
「そう! えらいひとなの! そこさえ分かってたら、もうあとはどうでもいいわ!」
つい本音を漏らしたニーニャだが、グレンは気にする素振りどころか気づく気配もない。だんだんと近づいてくる城をきょきょろと見回しながら、うんうんと頷いた。城としては小振りな分類に入るのだが、城という建物自体を初めて目にしたグレンにとっては、それはとてつもなく大きく、そして威厳に満ちたものに見えた。その中に名前は忘れてしまったがえらいひとがいて、そのひとを助ければ最愛のアメリアに会えるとなれば、なおのこと、城はあたかもグレンを天国へと導く天使の住まう場所のように思える。
「え、嘘! なにこれ! こんなの聞いてないよ〜」
ニーニャが彼女の背丈の倍ほどもある木製の扉の前で唇を尖らせている。
「どうしたんだ?」
「グレン! ここ見てよ! ここに公爵令嬢がいるから助けに来いって話だったのに、扉に鍵がかかってるんだよー。ひどくない? これじゃあ入れないじゃんね」
「え? でも、鍵だったらこうやって」
なんの迷いもなく腰にさした剣を抜くと、グレンは緊張感が圧倒的に不足している顔で銅製の大きな錠前に切りつけた。鈴が割れるような音がして、錠前が真っ二つに割れる。地面に落ちた物言わぬ番犬を、ニーニャとユリアはこれまた無言で見つめた。
彼女たちの脳裏をよぎったのは、グレンのこの行いは犯罪行為になるのではないか。その場合、グレンと関係のある自分たちもとばっちりを食うのではないだろうか、という点だけだった。しかし、それもすぐに、グレンが公爵令嬢に謝罪をされている場面を思い浮かべることで上書きされる。終わり良ければすべて良し。ノープロブレムだ。
「グレン。お前から入ったらどうだ?」
万が一、不法侵入で訴えられた場合、田舎者で常識を知らないグレンを追いかけて止めようと入ったと言い訳ができる。ユリアはせいぜい友好的な笑みを張り付かせて、グレンを城の中へと誘導した。そんな小狡い算段に気づくはずもなく、グレンは礼をのべてずんずんと城の中へと入ってしまう。
「まったく人気がないな」
薄暗い城の中で呟くと、小さな声は石の壁で反響されて妙な響きをみせた。外は日向ぼっこ日和だというのに、城内はどこか寒々しい。両腕で自分の体を抱きしめながら、ユリアとニーニャは連れ立って進む。グレンの姿は見えないものの、足音だけはする。どうやら、城内を散歩よろしく散策しているようだった。
「なあ」
ひょこっと顔だけを螺旋階段の上から覗かして、グレンが手招きをする。
「なにー? なんか見つけた?」
「なんか、寝てる。すごい高そうな服着たおっさんとおばちゃんが寝てる」
「高そうな服着た?」
慌てて階段を駆け上がり、グレンがいうおっさんとおばちゃんの姿を確かめれば、それは予想どおりテレンシア公爵と公爵夫人そのひとたちだった。寝室に置かれた大きなベッドの上で朝食を摂ろうとしていたところだったらしい。寝巻きにローブを羽織っただけの姿で、二人はベッドに半身を起こした状態で眠っていた。顔色は悪くない。呼吸もしている。だけれど、これがただの昼寝ではないことが、その寝息が恐ろしく静かなことからわかった。
「時間を止める魔法……?」
「もしくは、時間の進みを恐ろしく遅くする魔法、だな」
時間を操る魔法が存在しているというのは聞いたことがあるが、それを実際に操れる魔導師に会ったことなどない。都市伝説のような存在だ。その眉唾ものの魔法をこれほどの威力で、しかも城内すべての人間にかけているとなると、魔導師の魔力はとてつもないに違いない。
「まさかとは思うけど、この魔法を解くためには、この魔導師と対決しなくちゃいけない。なんてこと、ないよね……?」
あえて起こって欲しくない未来を冗談交じりに口にすることで、その恐ろしさから目を逸らそうとしたニーニャだが、絶句したままのユリアを見て、それが叶わぬことを知った。
「想像していた以上に厄介な相手かもしれないな」
慎重にそう口にするユリアもまた、無理矢理笑ってみせようとするが上手くいかず、反対に一度、ぶるりと体を震わせた。
さもありなん。こんな魔法を発動できる魔導師など、ニーニャとユリアのレベルで太刀打ちできるはずがない。しかし、逆に言えば、そこまでスケールの大きな魔導師だからこそ、もし倒せれば、ニーニャたちの名声は不動のものとなる。
野心と臆病風に挟まれている二人のもとに、グレンがやってきた。
「なあ! あれ、なんとかってひと。見つけたぞ!」
「アレックス公爵令嬢のことか?」
「そう。ベッドで寝てる」
「どの部屋? グレン、案内して」
「こっちだ」
足早に進むグレンの背中を、駆け足でニーニャとユリアは追う。
公爵たちがいた寝室がある階よりもひとつ上の階、城の最上階の一角だった。
天蓋つきの豪奢なベッドの真ん中に、黒髪の少女が横たわっていた。布団を首元までかけて、ふわふわの枕に頭を包まれているその姿は、さながら等身大に作られた精巧なビスクドールのようだ。
閉じられた瞼はふっくらとカーブを描き、ツンと上を向いた鼻はなんとも愛らしい。やや薄めの唇は時間を止められてなお赤く色づき、布団の白と黒髪のせいで、雪景色の中の一輪の花のように艶かしい。眠ったままの顔でさえ、公爵令嬢は美少女だった。
「噂には聞いていたが、ここまでとは……」
「すごいね、目を閉じていてこの美しさでしょ? 起きたらどうなっちゃうのかな」
容姿を褒められることの多いニーニャやユリアでさえ度肝を抜くくらい、公爵令嬢は完全無欠の美貌を備えた少女だった。
「……ちょっと、なにしてるの、グレン?」
ふとグレンに目をやってユリアは目を丸くし、ニーニャは眦を釣り上げて声を上げた。