ACT I ; Scene 1: 拝啓、妹君
ノルマントン大陸において、絶対的な力を持つオード帝国。その東には南北に伸びる魔法国家ヴェランデ。 北方には魔法騎士団で有名な、小さな独立国家を築くロクサンヌ公国。互いの力の源は違えど、軍事力に秀でたオードは、魔力に秀でたヴェランデ、ロクサンヌ両国と友好的な関係を結んできた。
オード帝国東部、ヴェランデとの国境にほど近いディグオス村。
その称号にふさわしく、こじんまりとした大きさのその集落は、しかし、争いのない平和な農村だった。そこでは、都会では古風と揶揄されるような慣習も未だ残っており、人々は毎日の営みを一所懸命にこなしている。
「アメリア……」
そう切なげに呟くのは、グレン・トライブ。ここのところ、テレンシア公国領、ダラム市において街の人々の注目を浴び続けている青年である。
年の頃は十八歳といったところか。秋の収穫で農民なら顔をほころばせそうな麦穂のようなブロンドは、毛先が少し褪せてぴょんぴょんと立っている。うっそりと細められる瞳は、芳ばしそうなヘーゼル色。体躯はかなり立派な方で、だからこそ、彼が背中を丸めて、その体と比較すると小さく見えるテーブルに頬杖をつく姿は少しばかり滑稽だ。
「アメリア……、兄ちゃん、本当にこれで良かったのかな……」
手にした陶器のグラスの中身はアルコールではなくて、ただの山羊のミルク。酔っているわけではないらしい。
「兄ちゃんは、心配だ。アメリアは元気でやってるのか。じいちゃんとふたりで、おれがいなくて、誰が畑の世話をしている? アメリア、間違っても、村の若い衆には頼むんじゃねーぞ? 何てったってアメリアくらいかわいいこだからな。みんな、アメリアを嫁にしようと企んでいるに決まってる。そうだ。そういう輩からアメリアを守るのも、兄ちゃんの役目だったよな。なのに……。はあ……。兄ちゃんは、何をやってるんだろうな……」
昼間っから宿の一階にある食堂で、酒もなしに女もなしに独り言をぶつぶつと呟くグレンの姿は、食堂連中から奇異の目に晒されていた。だが、そんなことに気付く素振りも見せない純朴そうな青年は、日が昇ってから何度目かというため息をつく。
そう。すべては、あの日から始まったのだった。
グレン青年は焦点の定まりきらない瞳を、腰にぶらさげた帯剣に向けた。
この、名剣「金穂の炎」が、そもそもの始まりだったのかもしれない。
ディグオス村において、男女の役割は明白だった。即ち、男は畑仕事に精を出し、収穫された作物を周辺の街で売り歩く。女は家を守り、子どもを育てる。村内での人間関係は、大きくなった家族とでも言うべき親密さ。男女は、それなりの年齢に到達すると、村長と村役員と呼ばれる数人の老人たちの取り決めによって、結婚をし、場合によっては家を建て新たな畑を作り、子孫を作る。
ただ、そういった環境にあって、グレンのものは多少変わっていたのかもしれない。まず、グレンは母親の顔を知らない。グレンを産んですぐに他界した。母なし子と苛められることもあったグレン少年を心配した父親ハリーは、グレンが六つのときに、グレンの祖母の死もあって隣村の女性と再婚。その二年後、彼女の腹が大きくなったときに、父親に言われた言葉を、グレンは今でも鮮明に覚えている。
「グレン。もうすぐ、グレンはお兄ちゃんになるんだ。そしたら、お前は命がけでそのこを守ってやんなきゃなんねえ。お兄ちゃんってのは、そういうもんだ」
祖父、父親と共に、台所のあるテーブルを囲んで待つこと数時間。新しい母親から生まれた新しい生命は、グレンの心を喜びでいっぱいにした。
自分と同じブロンドの髪に、自分のものよりもずっときれいなブルーの瞳。アメリアと名付けられたそのいたいけな存在は、生まれ出た瞬間から、グレン少年の生き甲斐となった。それは、アメリアが三歳のときに、両親が事故死したことによって、更に思いを強めることとなる。
「お兄ちゃん。グレンお兄ちゃん」
そう呼ばれるたびに、こころが踊った。笑顔を向けられるたびに、どんな困難なことも乗り越えられると感じた。 その背丈が年々伸びていくのを、奇跡のように感謝した。自分が愛する存在が、自分を必要としてくれていることに。消えていってしまわないことに。
だから、アメリアの行くところには、どこへだってついていった。エミリーとの花摘みにだって、アンナとのかくれんぼにだって。キャロルとのお泊まり会について行こうとしたら、遠慮して欲しいと言われたので、仕方なくこっそり後をつけて、アメリアの姿が確認出来る家のすぐそばでその日は野宿した 秋も深まる頃だったから、ちょっとばかし寒い気もしたけれど、それもすべてアメリアのためだと思えば我慢出来た。村の小さな塾で読み書きだけは習いたいとアメリアが言ったとき、グレンは焦った。塾なんかに行ったら、アメリアの可愛さでもってして、今までお近づきになれなかった村内のはな垂れ小僧やませた色ガキ共が、こぞってアメリアの隣の席を奪い合うだろうと予測されたからだ。グレンは、自分もその塾に通うことを決め、クラスの中で一番体格の良い、年齢も上の生徒としてアメリアが暴徒に襲われないように通い続けた。もちろん、その間畑作業をおろそかにするわけにもいかないので、これまでに培った筋肉を存分に発揮させて、塾が始まるまでの朝と塾が終わってからの午後で、大人なら丸一日かかる量をやってのけた。
つまり、グレン少年の妹への愛は、明らかに行き過ぎで過保護なのだが、本人にそのような自覚は毛頭なく、尚かつ、村一番の力持ちであるグレンにそのような忠告をする者もおらず。かくしてグレンは自分の過剰な愛が、至極まっとうなものであると認識したまま、これまで生きてきた。
そのアメリアが「勇者」と呼ばれる存在に憧れを抱くようになったのは、いつのころからなのだろう。
ある日、畑作業を終えて帰ってきたグレンに、頬を上気させて興奮したていでアメリアが話しかけてきた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん。あのね、すっごい話を聞いちゃったの、あたし!」
大きくなったといっても、まだ十歳の妹である。グレンはたちまち相好を崩した。
「何だい、僕の可愛いアメリア」
「んもう! その言い方、やめてってば。あたしはもう、十歳なんですからね」
「そうだったね、兄ちゃんが悪かった。それで、すっごい話って、何かな?」
首にかけた布で、額の汗を拭き取りつつ、グレンは椅子に腰掛ける。鍋を掻き回していたらしいお玉を持って、アメリアはグレンのそばに立つと、目をきらきらとさせた。
「あのね! あるんだって、勇者さまの剣!」
「勇者さまの、剣?」
「そう! あのね、えっと、この村から、ちょっと外れたところらしいんだけど」
「まさかアメリア、おれが畑に出ているときに、村から出たんじゃないだろうな? いつも言ってるだろう、外には可愛い可愛いアメリアを狙う、変態がたくさんいるからって」
自分がまさか、俗にシスコンと呼ばれる変態カテゴリーに属するとは、夢にも思わないグレン青年である。
兄の絡みづらい言動にも慣れっこのアメリアは、何事もなかったのかのように会話を軌道に戻した。
「そうじゃなくて あのね、ロジャーおじさんに聞いたの。山羊のミルクをもらいに行ったときにね。ロジャーおじさん、昨日、巡行から帰ってきたところなんだって。それで、立ち寄った街でね、勇者さまの剣を見たんだって! すごいと思わない?」
「そうだねえ。アメリアは、勇者さまが大好きだもんなあ。よく、そういう本も読んでるし」
「お兄ちゃんたら。あたしが好きなのは、実在する勇者さまよ。本を読むのは、この村には勇者さまにふさわしいひとがいないからだわ」
なかなか、シビアでシニカルな意見なのだが、グレンは違った解釈をしたらしい。そしてそれは、アメリアの思った通りの反応だった。
「そうか……。兄ちゃんがアメリアの勇者になるには、何か足りないんだな」
「そう! そうなの!! お兄ちゃんは、絶対に資質があるの! だって、背も高いし、がっしりしてるし、力持ちだし、強いし、優しいし、ブロンドだし、剣とか鎧とか冒険が似合いそうな顔をしてるし。だからね、お兄ちゃん。勇者さまの剣を見に行きましょうよ」
「ええ?」
「ロジャーおじさんが言うには、勇者さまの剣は、その持ち主を待っているんですって。何でも、誰にも抜けない剣らしいの。でも、きっと、お兄ちゃんなら抜けるわ。だって、お兄ちゃんは、あたしのお兄ちゃんなんだもの! ね?」
熱っぽく語って、最後には首を可憐に傾げることも忘れない。自分の魅力を最大限に利用したアメリアのスピーチは、ただでさえバイアスのかかっているグレンの目には、どこぞの女神様のように映った。
ぐっとガッツポーズを決めて、グレンはアメリアを見つめる。何て可愛いんだ、妹よ、などと思いながら。
「そうだな、アメリア。それを抜ければ、兄ちゃんは、正真正銘の勇者さまだもんな。よし、行こう! 兄ちゃんがすごいってことを、アメリアに見せてやるぞう」
「さっすが、お兄ちゃん!」
手をぱちぱちと叩いて、アメリアが喜ぶと、グレンは目尻をだらしなく下がらせて破顔した。
「ところで、それはどこなんだ?」
「ええとね、ペサーロって街ですって」
「どこだ、それ」
「さあ」
兄妹は、めいめいに首を傾げて、聞いたことのない地名を口にした。ペサーロ? ペサーロ。ペサーロかあ。ペサーロねえ。
「わからんな」
「あたしも」
「どうしようか」
十歳の少女に丸投げしてしまうと、グレンはアメリアの後方でぐつぐつと音を立てている鍋の方を気にかける。そういえば、おなかがすいてきたな。
「おじいちゃんに、聞いてくる!」
手にしていたお玉を兄に渡して、アメリアは機敏に、二階で休んでいるはずの祖父のもとへと駆けていった。
「金穂の炎」は正式名称をLa fiamma della pagliaと言います。
これの名称は、国によって変化するのですが、そのへんはストーリーが先に進んでから説明することにいたしましょう。