Scene 3 : そして君は微笑み、言葉は溶ける
雨が、ヴェランデでは珍しい雨が、しとしとと降り続けている。 窓の下半分は蒸気で曇り、窓枠が時折、風に煽られて、かたかたと小さな音を立てる。
白い木で出来た窓枠に、小指の爪ほどの小さな引っ掻き傷を見つけた。
こんなもの、前からあっただろうか。
そう。 いつから出来たのか、いつからそこにあったのか。 そんなことにも気が付かない。 自分の周りにあるものはすべて、これからもきっとそこにあるのだろうと思っている。
愚かな。
自分を、大きな声で嘲り笑うことが出来たなら、少しは気が晴れるだろうか?
そんな考えを頭の隅に押しやって、ユリアは、涙で瞳を潤ませているニーニャに焦点を戻した。
「いつ、聞いたんだ」
「つい、さっき」
「その……、本当なのか?」
「だって、本人がそう言ってるんだもん」
「いや、もちろん、それはそうなんだが。 しかし、なんというか、急過ぎないか?」
「知らないよ、そんなこと!」
「ニーニャ……」
「あたしだって、シーニャ先輩がそんなこと考えてたなんて、まったく知らなかったんだから。 あたしは、ただの後輩で、シーニャ先輩の親友でも何でもないし、シーニャ先輩と一緒にお仕事したことだってないし。 そもそも、比べるのが悲しくなるくらいレベルの違うひとなんだから。 でも、あたし、シーニャ先輩には、可愛がってもらってるのかなって思ってたの。 だから、こんな形で、こんな風に……。 ごめん、ユリア。 ユリアに当たり散らしても仕様がないよね。 やっぱ、ちょっとショックなんだと思う」
「それは仕方のないことだろう。私のことは、気にするな」
そのニュースを、ニーニャが運んできたのは、ほんの数十分前。 ドアを破壊しかねない勢いで開けて入ってくるなり、床に崩れ落ちるように座り込むと、「あたしの人生、もう終わった!」と大声で泣き叫び始めたニーニャを、ユリアは目を丸くして見つめた。 それから、何度か瞬きを繰り返して、精神の落ち着きを無理矢理取り戻し、ニーニャの肩を抱いて、何事かを聞き出した。
「シーニャ先輩が、シーニャ先輩が!学校、辞めちゃうんだって!」
絞り出すように紡がれた言葉は、もちろん、ニーニャの口から出たものだったので、蚊の鳴くような声とはほど遠く、代わりに、ユリアの鼓膜をびりびりと揺らした。
「嘘だろう?」
それくらいしか、ユリアには返せず、そしてそれは、ある意味真実だったと言える。
シーニャ・エモリスという存在は、今や、学校の代名詞であり、彼女が『聖』の称号を得たその翌年には、入学志願者が五倍になったという。 彼女のカリスマ的な立ち居振る舞いは、各国の魔導士協会からも絶賛され、生きた伝説のように扱われている。
その彼女が、学校を辞めるというのはすなわち、炭酸飲料から炭酸を抜いてしまうということだ。 炭酸の抜けてしまった炭酸飲料に、果たして何の魅力があろう。 そして、彼女を師と崇め、尊敬し、彼女に追いつこうと必死に鍛錬を重ねてきたニーニャにとって、まさに「人生の終わり」に最も近いことであろうことは、容易に想像がついた。
ぐすっと大きな音を立てて鼻をすするニーニャを、ユリアは同情を込めて見つめた。
リオ・スシールがいなくなれば、自分もこんな思いに駆られてしまうのだろうか。
その時だ。 控えめなノックがあって、ニーニャとユリアの名前を呼ぶ声がする。
「ど、どうぞ」
その声の持ち主に、すでに落ち着きをなくしたまま、ユリアが返事をすれば、扉が開いて彼女が部屋へと足を踏み入れた。
「今、大丈夫かしら?」
彼女―リオ・スシール―は、ほんの一瞬だけ、泣き顔のニーニャを見やって目を瞠ったものの、何事もなかったのように微笑んでみせる。
「あ、はい」
答えてから、やにわに、彼女が座る場所を探しているのだと気づき、ユリアは慌てて部屋の備品である椅子を、学習机の下から引っ張り出してきた。 どうぞ、と差し出せば、ふわりと微笑して、優雅に腰をかける。
「あたし、あんまりまどろっこしいことは好きじゃないの。 だから、単刀直入に言うね」
いっそ溌剌とした顔つきで、リオ・スシールがゆっくりとニーニャとユリアの瞳を順番に見つめ、
「明朝、あたしも学校を出て行くわ」
「……え?」
「シーニャが出て行ってしまうのは、もう聞いたのよね?」
「あ、はい」
シーニャ・エモリスの名前に、ニーニャが顔を背けたのを見逃さず、リオ・スシールが苦笑する。
「ニーニャちゃんたら。 拗ねているの?」
「拗ねてません。 ショックなだけです」
上級生に、こういう口をきけるのは、そして許されてしまうのは、つくづくニーニャの特権だと感じる。
「そうねえ。ショック、と言えばショックだけれど。 でも、これで何もかもが終わったわけではないでしょう?」
「終わりですよ。 完全に、終わりですよ。 だって、あたし程度の魔力で、この先、シーニャ先輩と仕事とかで顔を合わすこともないだろうし、よしんば会えたとしても、何年先のことになるやら。 そんな先に、シーニャ先輩があたしごときを覚えているかどうかなんて、怪しすぎるし」
「あら。 随分と、自分のことを過小評価するのね。 どうして?」
「どうしてって……」
「たかだか、魔力の善し悪しで?馬鹿げてるわ」
きっぱりと言い切ったその言葉に、ニーニャは不満そうに眉を顰め、ユリアは眩しそうに目を細める。
「あのね。シーニャは、自分のことを多く語りたくないだろうから、代わりにあたしが言うんだけど。 シーニャは、とびきり才能のある魔導士であり賢者よ。 それは、認めます。 でも、生まれた時から、何の苦労もなしにああなったわけじゃないの。 彼女、今は呪文詠唱なしに魔法の発動が出来るだろうけど、そこに至るまでにものすごい量の鍛錬を積んでいるんだから。 賢者であるが故に、攻撃魔法に触れる機会が少ないからって、わざわざ魔導士のクラスにもアテンドしているし。 知識だけなら、一介の魔導士以上のレベルだと思う。 そういうね、それ相応の努力をしているひとを相手に、あたしごときとかあたし程度とか、そういう風に自分を蔑んで、自分を哀れむのは、ショックを受けたって言わないの。 そういうの、ただの子供っぽい拗ねた態度だと思う」
むっとした表情を隠そうともせずに、ニーニャが口を開きかけたとき、扉が開いた。 今度は、ノックもなしに。
「おいおい、リオ。 ひとのいいひんところで、勝手なことは言わんで欲しいなあ」
いつもの、世間を斜に見たような笑みを浮かべて、シーニャ・エモリスが靴音を立てて、近付いてくる。 突然の来客に、言葉を失ったニーニャにシニカルでいて優しい眼差しを向け、シーニャ・エモリスは、
「ニーニャ。 さっきは、あんたの話も聞かんで、こっちの都合ばっかり話してしもたな。 なんや? さっき、ニュースがある言うて、うちに話しかけてきたやろう? 気になってなあ。 良かったら、話してくれへんか?」
今度こそ拗ねて、そして多分は嬉しくて恥ずかしくて、ニーニャは俯いたまま何も答えないでいる。 シーニャ・エモリスとリオ・スシールは、お互いを見やってから、
「お前のせいやぞ、リオ」
「何言ってるの。 元はといえば、あんたのせいでしょ、シーニャ」
と、啀み合っている。
「ニーニャのニュースっていうのは」
多少、お節介な気もしたが、ニーニャがあれだけ嬉しそうにしていた事実を知る者としては、黙ったままではいられない。 おずおずとユリアが口を開き、先輩二人の視線をこそばゆく感じながらも、ニーニャに止められる前にとやや早口で言った。
「ニーニャ、呪文詠唱なしに魔法発動が出来るようになったんです」
「へえ!」
「すごいじゃない!」
「あほ。 お前は、呪文詠唱なしの難しさなんて、知らんやろが」
「失礼ね。 呪文を覚えてから呪文詠唱を省く方が、魔法の威力が増すから、あたしだって火の魔法呪文、全部暗記したんだから。 大変さは分かってるつもりですー」
「何や、退化してんのんかいな」
「うっるっさいなー、シーニャは。 とりあえず、今はあたしのことじゃないんだから!」
「それもそうやった。 退化し続けるお節介魔導士のことは、放っておこかな」
「一言多いのよ、いちいち!」
痴話喧嘩にしか見えない言い争いを繰り広げる、天才魔導士ふたりを目の前にして、ニーニャが堪えきれずに吹き出した。
「なんやねん、ニーニャ」
「え? え? 何かおかしかった?」
「お前の顔はいっつも、道化師ばりの面白さやで」
「もう! シーニャはちょっと黙っててよ、この性悪癒し系!」
「なんやと!」
「図星つかれて怒るなんて、なんて程度の低い『聖』なのかしら~?」
「お前な、言うて面白いことと面白ないことがあんねんぞ」
「だったら何よ、自分は、いつでも面白いことが言えるとでも思っているの? とんだ天然お笑い芸人ね。 学校辞めて家業継ぐ代わりに、そのまま芸人にでもなったら?」
「外面良いだけの金喰い公女!」
「言ったわね!」
ますますヒートアップする五十歩百歩な言い争いに、ユリアは信じられないと首を振り、ニーニャは笑い転げる。
「せやから、何がそんなにおもろいねん、ニーニャ」
「だって……! だって、シーニャ先輩でも、狼狽えたり、苛々したりすることあるんだなあと思ったら。 しかも、口喧嘩の相手が、公女様だなんて……。 面白くって!」
「あんなあ、ニーニャ。 何を勘違いしてるか知らんけどやな。 うちかて、普通の人間やねんで。 あんたが、ちゃんと練習して呪文詠唱なしに魔法を使えるようになったように、うちかて笑うし怒るし、トイレも行くしやな」
「シーニャ!」
顔を真っ赤にしたリオ・スシールが窘める。
「つまりや。 うちとあんたとの差なんてな、そんなにないねん。 同じように、うちという人間の上に、どんな称号が乗っかっていようと、うちという人格にはあんまり関係がないねん。 せやから、うちが学校辞めるから言うて、いきなりうちがあんたの人生から消えるわけちゃうねんで」
「シーニャ先輩」
「ああ、こういうのんは、ガラに合わんわ」
心なしか上気した頬を、乱雑に髪の毛を掻きむしることで誤魔化して、シーニャ・エモリスは歯を見せた。
「とりあえず、また後で、や。 な?」
「……はいっ」
「またいつか、会えるさかい。 な?」
「……ううっ、……は、はいっ!」
「ユリアちゃんも。 また、ね?」
先程まですごい剣幕で声を上げていたとは思えない、淑女の見本のような仕草で、リオ・スシールが手をユリアに差し出す。
「あなたも、出来るようになったんでしょ?」
「なにがですか?」
「呪文詠唱抜きの魔法発動」
「……」
「別に、嘘をつく必要も、謙遜する必要もないわ。 だってあたし、あなたが練習してるところを、偶然見てしまったんだもの」
「…………」
言いたいことが、言葉にならない。 頭の中を、言葉の欠片が漂っている。 それを掴んで、口から出すことが出来なくて、ユリアは困ったように眉根を下げた。
「大丈夫。全部、言葉にしなくても、良いの」
その言葉に、どれだけ感謝したかったか。 それすらも、言葉に出来ない自分を、どれだけもどかしく思ったか。