Scene 2 : 腹が減ってはなんとやら
「ニーニャ。 仕事かもしれん。 グレン、よくやった」
「え、嘘。 それって、もしかして、当たりってこと?」
真剣な表情のユリアを見て、ニーニャが少し狼狽えたようにグレンとユリアを交互に見つめた。 一度、同意するように頷いてから、ユリアがポスターを壁から外す。 手紙用の上等の紙であるそれには、うっすらと押し印が透けて見えた。
「あれ? ちょっと待って? グレンさあ、文字読めないって言ってたよね?」
「うん。 読めないぞ」
「じゃあ、何でこれの言ってることが分かったの? おかしくない?」
手にしたポスターを調べていたユリアが顔を上げると、ニーニャがグレンに詰めかけるように顔を寄せているところだった。 しばしの間、グレンはきょとんとした顔つきで、それから、いとも自然に、
「なんとなく」
と言った。 思わず、ユリアとニーニャが、がくりと肩を落とす。
「ともかくだ。 この、アレックスという少女について、調べないとな」
「だね」
気を取り直して提案するユリアに、ニーニャが顔を綻ばせる。
「調べるって?」
「グレン〜。 アレックスなんて名前の女の子が、この世に何人いると思ってるの?」
「さあ」
「いっぱいいるの!」
「だから?」
「だからっ! ああ、あんたと話してると、ストレスが溜まるっ!」
「まあまあ、ニーニャ。 グレンは、人捜しもクエストもしたことないんだろうから。 な? グレン。 このアレックスという少女が、どこの誰なのかを判別するためにも、調査を始めないといけないんだ」
「なんで?」
「でなきゃ、見つけられないだろう」
「ふーん」
「ふーんって……。 グレン、お前、どうやって探すつもりだったんだ?」
「村長に話しに行く」
「ここは街だ。 村長はいない」
「じゃあ、街の偉いひと」
「それで、その偉いひとに会って、どうするつもりだ」
「アレックスってこが、迷子になってませんか?って」
「グレン……。 お前、このこが迷子になっていると思っているのか?」
「うん。 普通、女の子は夕暮れ前には、家に戻ってる筈だからなあ。 アメリアなんて、太陽が少しでも翳ったら、おれが飛んで迎えに行ってたぞ」
「うん……。 そうだな……」
自分たちの常識が全く通じないグレンとの会話に疲労感を覚えて、ユリアはあくまで優しく、それでもげっそりとした顔つきで、曖昧に相槌を打った。 ほら、ストレス溜まるでしょ?と、ニーニャが頭痛を訴えるユリアを介抱する。
「ともかくだ。 聞き込みを始める前に」
眉根を寄せてこめかみを押さえるユリアの姿は、憂える未亡人のようだったが、朴念仁のグレンには何の効果も与えられず、ニーニャにいたっては両手を挙げて、
「ごはん! とりあえず、ごはんにしようよぅ。 あたし、おなかぺっこぺこ」
と叫ぶ始末。
「お前らな……」
呟いたユリアの声には、はっきりとした苛立ちが込められていた。
「お、兄ちゃんのお帰りだ」
グレンが食堂に足を踏み入れるなり、活気溢れる中食事を楽しんでいた中年の男性たちが笑顔を向けた。三日間の独り言と一人芝居で、すっかり有名になったものらしい。 つられたように彼が笑いかけると、男性たちはこぞってグレンの傍に寄ってくる。
「三日泣いていたかと思ったら、急に叫んで走り出すんだもんなあ。 頭大丈夫かい、兄ちゃん?」
リーダー格の男が言ってから、己の発言に気を良くしてげらげらと笑い声を上げると、周りもそれに同調する。 皮肉の定義を知らないであろうグレンは、首を傾げて男を見つめて、
「そういうおっさんこそ、頭寒くないのか? これから、だんだんと冷え込んでくるから、その頭じゃ辛いだろう?」
邪気のない顔つきで、男の薄くなった頭頂部を指さした。 アルコールだけではない赤に頬を染めて、男が目つきを悪くする。男が口を開きかけた瞬間、ニーニャが高い声で割り込んできた。
「あああああ、もう、おなかぺっこぺこ〜。 グレン〜、早く注文しちゃおうよう。 あたしとユリアで席取りしてるから、グレンは何か適当に頼んできて。 はい、これ、お金ね。 全部渡しちゃ駄目だよ、ちゃんと、言われた金額分だけ渡してね。 これ以上の値段になることはないんだから、あんまり高い値段を言われたら、黙って睨み返すのよ? 分かった?」
過去に、足元を見られて、渡した現金すべてを持って行かれたことのあるニーニャは、くどくどとお金に関するうんちくを垂れながら、グレンをカウンターの方へと押しやった。 気を殺がれた形の男は、腹いせとばかりにジョッキに残っていたアルコールを喉へと流し込む。 ちらりとニーニャを斜めに見ながら、鎖骨の浮いた白い肌から続くけしからん胸と膨らんだスカートに口元を緩ませた。
「ねえ、おじさん」
「な、なんだよ」
急にこちらに目を向けたニーニャに、男は驚いたように肩をびくりとさせる。 そんなことはお構いなしに、ユリアが先程のポスターを広げて見せた。
「この少女に、見覚えはないか?」
「ああん?」
「アレックスっていう女の子みたいなんだけど、知らない?」
テレンシア領は、割と裕福なところなので、必然的に人口も増える。 それら全てをしらみつぶしに探したのでは埒があかないと、少女たちは聞き込みを開始した。 子供の落書きのような絵ではあるものの、その身なりが良いことと、書かれた紙そのものが上等なことから、アレックスという名の少女は、それなりの身分であることをふたりは想像していた。 相手が有名であれば、一般の市民にも、その名は知られているかもしれない。 この食堂で有力な情報が得られるなどと、虫の良い話だけを考えていたわけではないが、ものは試しにと、ふたりは外交用の笑顔を張り付けた。
「何だ、こりゃ」
「子供の落書きか?」
「しっかし、へたくそだなあ。 うちの息子の方が上手く描けらあ」
「けっ。 そういうのを、親ばかって言うんだよ」
「なんだと、お前こそ、何かっていやあ、娘の話ばかりじゃねえか」
片手にジョッキを持ったまま、男たちはポスターに目を向けるが、すぐに話が脱線してしまう。 こめかみをぴくぴくさせながら、ニーニャが猫なで声を出す。
「あのぉ〜、このこのことなんですけど〜」
「これ、何て書いてあるんだ? インクが滲んで良く見えねえが」
リーダー格の男が、文字の書いてある場所を指す。 たしかに、初めユリアが手にしたときよりもインクの滲みは激しくなっていて、文字はかろうじて読み取れる程度になってしまっていた。
「アレックスを助けて、と書いてあるように見受けられたのだが」
遠慮がちにユリアが口を出すと、一斉に男たちが彼女を見つめる。 その驚いたような視線にさらされて、ユリアが眉根を寄せた。 鼻の大きな男が言う。
「アレックスって言ったかい、お嬢ちゃん」
「あ、ああ」
「助けろって?」
「ああ、確かにそう書いてあった」
「その似顔絵……。 真っ直ぐの長い髪に、大きな瞳……」
やおら黙ってしまう男たちを不審げに見つめるユリアと、一向に進展しない状況と一向に運ばれてこない食事に苛立ちを隠せないニーニャ。 しびれを切らしたのは、空腹という一大事に直面しているニーニャだった。
「何なのよぅ! 知ってることがあるんだったら、さっさと言ってよね」
「嬢ちゃん」
労働階級特有の、がさがさとして節くれ立った指が、ニーニャの肩におかれる。 一瞬、たじろいだ彼女に、男がやや怪訝に口を開く。
「こりゃあ、アレックス・テレンシアだ」
「へ?」
「テレンシア公爵様んとこの、跡継ぎっこだよ」
「え、えええええええ?」
空腹による力不足のために、いまいちの声量でしか叫べなかったのが、ニーニャにとっては不服だったが、相棒の金切り声を聞かずに済んだユリアは、そっと安堵の息を漏らしたのであった。