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「ま、参ったわ……」
送ってくれると申し出てくれたフェリクスから逃げ、ヴィオラは慌てて屋敷に帰ってきた。
不本意だ。不本意すぎる。
軍服から逃げなければならないとは、なんと厄介な体質を抱えてしまったのだろう。
本当ならもっとによによとしながら軍服を楽しめる筈だったのにとても残念な事をしたと、ヴィオラは重いため息を吐いた。
馬車から降り、屋敷を見上げる。
王宮に近い場所に屋敷を賜るのは国王の信頼の証だ。
当然大将軍である父が当主であるトゥルスリーヤ家の屋敷は、王宮の一番近くの区画に配されていた。
歴史ある古い屋敷は増改築を繰り返し、中はとても複雑な造りになっている。
初めて来た人はまず覚えられない構造だ。外から見た感じでは古めかしい昔ながらの威厳ある建物でしかないが、屋敷の中は最新の技術をこれでもかというくらいに採用している。
一人玄関の前に立つと、ピピッという音がしてゆっくりと扉が開いた。
これは魔法の最新技術。魔力の波動を読み取り、対象者を判断して扉を開けるシステムとなっている。……前世でいうところの網膜認証みたいなものだ。こちらでは代わりに魔力で判断していると思えば良い。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
中に入ると、扉の両脇で待機していた執事と侍女たちが一斉に頭を下げる。
左右それぞれに十人くらいずつ。手が空いている者は全員出てきたのだろう。
その中でヴィオラに近づいてきたのは中年くらいのがっしりとした男性だった。
ぱりっとした執事服に身を包み、髪を後ろで一つに束ねている。
ヴィオラの屋敷で十年以上家令を勤めているコトーという名前の男だ。
「ただいま、コトー。……お母様は?」
「……お加減があまりよろしくないとのことで、自室で伏せっていらっしゃいます。今日はずいぶんとお早いのですね」
最近では父の暴力もなりを潜めているが、いつまた再開されるかもわからない。
いつも不安を抱え、おびえていた母は、すっかり体調を崩しやすくなってしまった。
「……きちんと殿下の了承はいただいたわ。別に喧嘩別れしてきたわけじゃなくてよ」
「それならようございました。後で紅茶をお持ち致します」
「ええ、お願い」
フェリクスと喧嘩したわけではないと言うと、コトーはほっとしたように頷いた。
父がヴィオラとフェリクスの婚姻を確実なものにしたがっている事は屋敷にいる全員が知っている。当主の望みは使用人全員の共通した望みでもある。
同じように彼らも皆、ヴィオラとフェリクスの結婚を望んでいた。
侍女達を追い払って一人で玄関ホールを通り、広間へ。広間にはマホガニー製の主階段がある。それを登り二階へ上がった。いくつか覚えているとおりの角を曲がるとようやくヴィオラの部屋にたどり着く。
「ただいま……」
知らず、安堵の息が漏れた。
部屋に入り、主室の奥にある寝室へまっすぐ向かう。寝台の横にあるサイドテーブルの引き出しを開け、両手で薬箱を取り出した。確か、湿疹に効く塗り薬が入っていたはずだ。
「……ああ、これね。効いてくれると良いのだけれど」
小さな丸いケースを取り出し、中を開けてみる。透明の塗り薬は無臭で、使われた形跡もなかった。
試しに薬を塗ってみる。この世界の文明レベルはかなり高い。
魔法技術が発展しているからだ。今塗っている薬もたんなる塗り薬ではなく魔法薬。
かゆみを伴う湿疹などによく効くという触れ込みだったが、塗った途端すっとかゆみが引いた事にほっとした。
よかった。大事には至らなかったようだ。
「ふう……しかし軍パラに転生するとは思わなかったわ」
痒い場所全てに一応の治療を施してから、寝台に腰掛ける。
そのままのびをするように寝台に倒れ込んだ。
ああ、疲れた。非常に疲れた。
ごろごろとベッドの上を転がり、そしてぼんやりと軍服を着たフェリクスを思い出した。
うん、本物(三次元)の迫力はすさまじかった。ゲーム画面(二次元)で見た時の比ではなかった。
「フェリクス王子素敵だった……。ああもう、アレルギーさえ出なければもっと堪能できたのに」
つくづく惜しい事をしたものだ。あんな間近でフェリクス王子を見ることなどそうそうないと思うのに。
「あ、でもまた週一でお茶会があるのよね、確か」
思い出し、ヴィオラは身体を起こして頷いた。
よし、まだ彼の軍服を拝む機会はありそうだ。
それなら必要以上に近づかないよう気をつけつつ、じっくり鑑賞させて貰うのがよいだろう。
本当はすぐ近くで観察したいところなのだけれども、彼女にはアレルギーという厄介なものがある。とりあえずは、そうするくらいしか対策を思いつけなかった。
軍服を見ないという選択はなかったらしい。
「後は死亡フラグなんだけど……」
一番手っ取り早いのは、学園に入学しないことだ。
そうすればゲーム自体に関わらないのだから死ぬこともない。
入学時期は半年後。今から三ヶ月後には入学試験がある。それにわざと落ちればすむ話だ。
でも――――。
「うーん。できれば他の軍服も見たいのよね……」
折角軍パラの世界に転生したのに、フェリクスの軍服しか拝めないのはもったいなさ過ぎる。
それに、フェリクスはゲーム通り学園に入学するだろう。
彼が卒業するまでの二年の間(学校は二年制なのだ)誰の美麗軍服も拝めないだなんて、ちょっとヴィオラの方が耐えられそうもないと思った。
「駄目だ……。軍服成分が足りなくて、ゲームよりも先にひからびて死ぬわ」
基本ヴィオラは引きこもりだ。軍人の多いラインベルト王国。屋敷を出て数歩進めば軍人に当たりそうなこの国において、軍人嫌いのヴィオラが積極的に外に出るはずがなかった。
つまり――――友人と呼べるような存在もいない。
二年間、本当の意味で一人きり。……無理だ。
「どうしよう。他に良い方法はないかしら……あら?」
再度ため息を吐いたところで廊下から足音が聞こえてきた。
一瞬コトーがお茶を持ってきたのかと思ったが、足音で違うとすぐに気づく。
彼はどんなときでも驚くほど静かに歩くのだ。
誰かと思っている内に、がちゃりと扉が開いた。
「ヴィオラ!」
「……お父様」
自分の声が低くなったことにヴィオラは気づいた。
部屋に許可なく入ってきたのはヴィオラの父だった。
軍部から直接帰ってきたのか、軍装のままだ。
その姿を見ただけで、せっかく薬を塗って落ち着いた腕のかゆみがぶり返してきた。
「……ノックもせず何のご用ですか」
さっさと出て行って欲しいとの想いを込めてヴィオラは己の父に告げた。
以前までのヴィオラなら父に対し、萎縮した受け答えしかできなかっただろう。
それくらい彼女の軍人に対するトラウマは酷かったし、そもそもの原因が父なのだ。
そんな風になっても仕方ない。
だが、軍人嫌いを克服し(軍服アレルギーは健在)、前世の記憶を取り戻したヴィオラは強気の態度で父に対応した。
普段とは違うヴィオラの様子にヴィオラの父は少し目を瞠ったが、それどころではないと興奮気味に側に近づいてきた。
その様子を冷静に見つめながら思う。
……着ている人が変わると、いくら軍服でも萌えないものなのね。と。
フェリクスと同じ軍服なのに一体この違いはなんだろう。
彼とは違い当然着慣れた感じはあるが、全くその姿は彼女にときめきをもたらさなかった。
それどころか、一歩近づいてくる度に悪寒が走る。
フェリクスの時よりも激しい拒絶感。
父を苦手としていたヴィオラはよほどのことがない限りは自室に引きこもっていたし、父も不必要にヴィオラに関わろうとはしなかったので軍服アレルギーには気づかなかったのだ。
(いやでも、考えてみれば前から父が側に来ると体中が痒かった気がする)
気づいていなかっただけで、しっかり発症はしていたらしい。
父親が苦手過ぎて、そんなところにまで意識がむいていなかっただけだった。
しかし普段はヴィオラに興味のない筈の父がわざわざ声をかけてくるとは珍しい。
そう思っていると、父はヴィオラのすぐ近くまでやってきた。
……なんだか機嫌が良い。それは助かったが、頼むからもう少し離れてもらえないだろうか。
また発疹が始まった感覚がする。
「ヴィオラ! よくやった!」
喜色を浮かべた父が、突然ヴィオラの肩に手を乗せようとした。
それをヴィオラは己の危機とばかりに、さっとかわす。
「なに?」
空をつかんだ父は目を瞬かせた。
怪訝な顔をする父。そんな父を見つめながら、ヴィオラは冷たい声で告げた。
「……それ以上近づかないで下さいませ。お父様」
痒すぎて、我慢できなかった。




