5
「ヴィオラ……」
慌てたように去っていった少女を思い出す。
数年ぶりに己に向かって微笑みかけてくれた少女を想うと、胸の奥が甘美な痛みを訴えた。
◇◆◇
ラインベルト王国の王太子として生まれたフェリクスは、その義務として早くから婚約者を定めるよう求められていた。
大陸の南に位置するラインベルト王国。
小国ではあるが、騎士団と魔法師団は世界一と言われるほど強い。
領土内には金鉱脈のある鉱山を抱えており、それを狙って近隣諸国が戦を仕掛けてくる事も多いが、すべて返り討ちにしている。
特に魔法師団の力は強大で、その大将軍の座に納まっているトゥルスリーヤ侯爵の発言権は無視できないものがあった。
「殿下。私には殿下と同じ年の娘がおりましてな……」
ある時、大将軍はあからさまなまでにフェリクスに話を振ってきた。
まだ幼かったものの聡明であったフェリクスは、それだけで大将軍が何を言いたいのかを理解した。にこにこと笑っている大将軍だがその目には鋭い光がある。
(……なるほど。娘と婚約しないのなら敵に回るか)
フェリクスには弟がいる。もしフェリクスが断れば、彼は弟の方へ同じ話を持って行くだろう。そして……そちらへつくはずだ。
舌打ちしたくなった。大将軍を敵に回すわけにはいかない。
影響力が大きすぎる。下手をすれば己の王太子の座すら危うくなる可能性があった。
娘を正妃として娶れば、少なくとも敵に回る事はないだろう。
幼いながらにそう考えたフェリクスは大将軍の令嬢であるヴィオラとの婚約を承諾した。
実に齢8歳の時だった。
そうして初めて会った己の婚約者だったのが、そのあまりの可憐さにフェリクスは情けなくも一目惚れしてしまった。
期待などしていなかった。王族の結婚などそういうものだとすでにその年で彼は理解していたからだ。
なのに、彼の目の前に現れた小さな少女。
黒髪に青紫色の瞳という珍しい色彩を持つ少女を見た途端、彼はあっけなくも恋に落ちてしまったのだ。
緑の黒髪と呼ぶに相応しいロングヘア。たっぷりとした量感のあるまっすぐな艶めく髪は、飾りをつける方が無粋だと思った。
ぱっちりとした二重の瞳。まつげは長く、透明感のある双眸は眺めていると吸い込まれてしまいそうだ。あまり外へ出ることがないのか肌は透けるように白い。ぷっくりとした桜色の唇は紅を落とした訳でもないのに艶々で触れてみたいと手が伸びてしまいそうになった。
かわいらしい流行を意識したドレスを纏った少女は折れそうなほどに細く、幼いながらも守ってやらなければとフェリクスに思わせた。
まるで人形のような可憐な少女。
彼女が将来、自分と結婚するのだと思うと、フェリクスは胸が高鳴るのを押さえられなかった。
「初めまして、フェリクス殿下。ヴィオレッタ・トゥルスリーヤです」
「……フェリクスだ。ヴィオラと呼んでも構わないか」
「勿論ですわ」
鈴を転がしたような軽やかな音色。その声にすらときめいた。
大将軍の申し出に頷いて本当に良かったと思った。
もし短絡的に拒絶して、ヴィオラが弟の婚約者にでもなったら……後悔してもしきれない。
ヴィオラを手に入れ、尚且つ大将軍の後ろ盾を得る事ができる。
最高の選択をしたと思った。
少しでもヴィオラに好かれたくて、彼女の好みを必死に覚えた。
甘いお菓子が好きなこと。珈琲より紅茶が好き。砂糖は入れない。
そんな細々な事を覚えながら、ヴィオラに好意的に接していった。
ヴィオラの方もフェリクスに心を開いてくれた。側にいればよく笑い、楽しそうに話してくれた。幸せだった。こんなに早い段階で将来の伴侶を決める事になるとは思いもしなかったが、相手がヴィオラだと思うと、さっさと婚約しておいて良かったとすら思った。
だが、そんな日常はある時突然崩れ落ちた。
フェリクスが軍人になるとヴィオラに宣言した日。それが全ての始まりだった。
当初、フェリクスは軍人になど興味はなかった。ラインベルト王国の王族は軍人が多いが、彼は王太子として他にしなければならない事はいくらでもあったし、フェリクス自身、本を読んだりして静かに過ごす方が好きだったからだ。
だが、ヴィオラの父は軍属だし、彼女を守る為にも己が力を増す事は悪くないと考え直した。
軍人になり、力をつけてこの国を守る。
それがひいてはヴィオラを守ることに繋がると彼は考えたのだ。
己の道を決めたフェリクスは、早速ヴィオラに宣言した。
いずれ自分は軍人になると。
その言葉は彼にとっては「ヴィオラを守る」というのと同義であった。
それなのに――――喜んでくれる筈だったヴィオラはまるで何か汚いモノをみるかのような顔でフェリクスをみた。
今までの柔らかかった笑みと言葉は失われた。
いつも機嫌悪く、何かとフェリクスに突っかかってくるようになった。
フェリクスには分からなかった。
どうしてヴィオラが急にそんな態度を取るようになったのか。
そしてまた、フェリクスも子供だった。
愛している少女に冷たくされて、それでも傷つかないような少年ではなかった。理由が分からないながらも、彼もまたヴィオラと同じように、彼女を傷つける言葉と態度を取り、互いに引けぬところまできていた。
もがいても、もがいてもどうにもならなかった。
未だに、彼女の笑顔が忘れられないのに。
週に一度、強制的に取られるお茶会。その席で彼女の好む菓子を用意してしまうくらいにはまだ、ヴィオラの事を愛しているのに。
でも、もう終わりにしなければならないのだろうか。
彼女はフェリクスを忌み嫌っている。
いっそ婚約は解消して……自分もヴィオラを卒業しなければいけない時がきているのだろうか。
そんな風にさえ考え始めていた今日のお茶会。
昨日、無事希望通りようやく軍属となったフェリクスは着慣れぬ軍服を身に纏い、重い気分でヴィオラの元へと向かった。
今日もまた、ヴィオラと喧嘩してしまうのだろうか。
そんな事はしたくないと思っているのに、心にもないことを告げなければならないのだろうか。
鬱屈とした気持ちを抱えながら、中庭へと進む。
何かに頭をぶつけたのか、頭を押さえながら涙目になっているヴィオラが目に映った。
(やっぱり可愛い……)
本当なら駆け寄って大丈夫かと言ってやりたい。慰めて、滑らかな頬にキスの一つでも落としたい。
でも――――今までの二人の関係がフェリクスの行動を止めさせる。
結果としてフェリクスはいつもどおりあざけるような態度をとるしかなかった。
(ああ、またいつもどおりだ)
立ち上がったヴィオラはきっとフェリクスに罵詈雑言を吐くのだろう。そして自分は売り言葉に買い言葉で酷い言葉を投げつけるのだ。
うんざりしつつもヴィオラを見つめると、彼女はフェリクスを見つめ、一瞬身体を硬直させた。
その表情が驚愕に彩られている。
何か様子がおかしい。さすがにその状態で暴言を吐くわけにもいかず、大丈夫かと尋ねるとヴィオラは――――数年ぶりに自分に向かって微笑みかけてきた。
――――心臓が止まるかと思った。
昔はよく見せてくれた笑顔。それを久方ぶりに目の当たりにし、フェリクスは己の頬が熱くなっていくのを自覚した。
結局、彼女の笑顔一つで自らの恋心を再認識せざるを得ない己に気づき、泣きたくなった。
どうせこれは一瞬の偶然が見せた幻に違いないのに――――。
そう思ったのに、ヴィオラの態度は戻らなかった。 信じられない気持ちと信じたい気持ちから、思わず彼女の手に触れてしまう。久々にふれた小さな白い手は柔らかく、ドキドキした。手を握っただけで逃げられたのには驚いたが、彼女の表情は真っ赤だったし、照れただけなのだろう。そんな反応すら今までを思えば、涙が出るほど嬉しかった。
そして、驚きはそれだけでは終わらなかった。
なんと彼女は今までの自分の態度を謝罪し、処罰を受けるとまで言ってきたのだ。
そんなもの、フェリクスは望んでいなかった。
ヴィオラが、昔のように自分に接してくれるのなら、フェリクスにとってそれ以上の喜びはないのだ。
彼女にどのような心境の変化があったのかは分からない。フェリクスには理由なんてどうでもよかった。昔のようにヴィオラに接する事ができる。それが何より嬉しかった。心にもない彼女を傷つけるだけの言葉を吐く必要はもうないと思うと、それだけで幸せだと思った。
頬を染め、己を見上げるヴィオラに劣情がたまらなく刺激される。
数年ぶりにまともに相対した彼女は更に美しく成長していた。
それに気づき、心臓がうるさいくらいに高鳴った。
体調が悪いから帰りたいというヴィオラに送ろうと声をかけたのは、間違いなくフェリクスの意思だった。
昔のように戻ったヴィオラともっと話したい。
婚約者である彼女と、もっと……触れあいたい。そう思い、フェリクスはヴィオラに提案した。
拒否されるとは思わなかった。
彼女の態度は緩和されていたし、自分を見る目には好感らしきものが浮かんでいたから。
時間は掛かったが、自分たちはやり直す事ができるのだと、フェリクスはそう確信していた。
それなのに予想に反し、ヴィオラは逃げるように自らの元を去ってしまった。
(何故だ。ヴィオラ。俺達はやり直せるのではなかったのか)
ショックを受けながらもフェリクスは拳を握った。
――――いいや、やり直してみせる、と。
弱気な己を振り切り、フェリクスは決意した。
今度こそ失敗しない。
昔願ったとおり、必ずヴィオラと結婚してみせる。
今の彼女となら、可能性は決してゼロではないはずだ。
(まずは週に一回などというふざけたお茶会を撤廃させなければ)
もっとヴィオラに会う機会を作らなければ。
そしてヴィオラに婚約者である自分を意識させるのだ。
「ヴィオラ、今度こそ俺は諦めない。必ずお前を俺のものにする。覚悟しておけ」
――――フェリクスが固く誓いを立てていたことを、軍服に萌え、アレルギーと闘っていたヴィオラは全く気付くことができなかった。




