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羊の短編集。

生贄の夜が明けるまで。

作者: シュレディンガーの羊

あらすじやタイトルからもお分かりのように、あまり救いのある話ではありません。


世界が僕に死ねと言った。

でも、僕は君の世界のためなら喜んでこの身を差し出せたんだ。







「あなたは生贄に選ばれました」


黒スーツ姿の役人から玄関先で渡された書類を見て、場違いにもひどく事務的な手続きをとるのだと思った。

でも、それはそうだ。

生贄なんて時代錯誤でおおよそ実社会では使われないようなことを言ったところで、これは世界レベルの話なのだ。

むしろ、生贄になることがこんな紙っぺら一枚で通知されることの方がよほど可笑しい。

続けて渡された承諾書も紙っぺら一枚で、本当にあともう少しで笑ってしまうところだった。


「以上で説明を終わりますが、他に質問はございますか」


以上と言われても話なんてちっとも聞いていなくて、その言葉にやっと我に返る。


「えっと、これ、断ることってできないんですよね」


意識する間もなく零れていたのは、それはそれは間抜けな質問。

案の定、対峙している彼の瞳がすっと細められる。


「……それは生命保護権利の剥奪を甘んじて受けるということになりますが、よろしいですか」


まるで機械のように温度のない声が俺に釘を刺すように、尋ねる。

今度こそ僕はたまらず笑ってしまった。

そんな僕を見返す瞳は恐ろしいほどに、感情がない。

色も温度も感情もないその視線にさらされて、僕はくすくすと笑い声を零す。

あぁ、なんておかしいんだろう。


「聞いてみただけですよ、役人さん。生命保護権利を剥奪されたらこの社会ではもう死んだも同然じゃないですか」

「そうです。ですから、」

「あ、この承諾のサインって拇印でいいんですよね」


彼が頷くより早く、親指の腹に玄関先に置いてあった園芸用の鋏の刃を押し当てて横に引く。

そして、血が滴り落ちる前に承諾書に押し付ける。

白い事務的な書面に、禍々しいほどの赤はひどく目立って、僕はそれに満足した。

でも、その印はたちまち酸化して黒くなると僕は知っている。

ただ知ってはいるけれど、それを見たくはなかった。


「はい、これでおしまい。提出しに行くの面倒なのでこのまま持って帰っていただけると嬉しいです」


だめ押しににっこりと笑って親指を立ててみる。伝う赤が玄関先にシミを作る。

ひとつ、ふたつ、みっつ、赤い雫が3粒ほど落ちてから、彼ははい、と頷いた。


「それでは、3日後、こちらのアパートの前に車を出させていただきます」

「あ、持ち物とかありませんよね」


ふざけてそんなことを言えば、彼は少し黙ってから、


「その身一つで生贄は十分ですから」


そう、言った。




この社会はいまに崩壊するらしい。

増えすぎた人口に対して、場所も食物もエネルギーも何もかもが足りない。

それでも、人の生命は生命保護権利に護られているから、実際の生活はそこまで苦しくない。

そもそも、いつか均衡が崩れると言われ続けて、何十年と続いたのだから危機感も薄れ、国民は安穏と生きている。

生命保護権利。簡単に言えば、それは人として最低限の暮らしを国が保証してくれる権利。

国民をナンバリングし資源を分配する。そんな徹底管理の下、世界は無駄なく成り立っている。

国民は計算されつくされた資源の分配によって飢えることも、野垂れ死ぬ心配もしなくいい。

一定の義務と責任のもと、こうして国民は自由と生きる権利を与えられている。

それを飼い慣らされていると反発する者もいたが、皆、こんな社会で生命保護権利を剥奪されれば生きてなどいけない。

医療施設の利用許可や通貨の使用許可が共に剥奪され、人権という概念が消滅するのだから当然だ。

管理されることはそれほど苦しいことじゃない。

だから、ほとんどの国民は反旗を翻すなんて馬鹿なことはしないのだ。


そして、そんな世界はいまや超発達した科学と宗教によって成り立っている。

国民を管理し、統制する科学。

けれど、科学を極めて行けばわかることがある。

それは、科学の限界だ。

科学の限界を見た時、人は絶望し何かに救いを見出そうとする。

それが教会のうたう宗教だった。

宗教の力は科学を行使する決定権をも持つほど、この社会で絶対的なものだった。




「うっわー、なにこれ」


ドアの開く音と共に玄関の方から声が聞こえる。

起き上がるのも億劫で、目線だけを玄関の方に向ければ、勢いよくドアが開かれた。

部屋に入ってきた君は、リビングの床に仰向けになっている僕を見てあからさまに眉をひそめた。


「……死んでるのかと思ったわよ」

「幼馴染を見ての第一声がそれなの?」

「玄関、汚れてたんだけど」


荷物をソファに放り投げて、君はすたすたと僕を通り過ぎてソファに腰掛ける。

そのあまりにも我が物然としたいつも通りの振る舞いに苦笑しつつ、体を起こす。


「判子が見つからなくてね」

「なによ、それ」

「そういえば判子のある場所、知らない?」


何気なく尋ねれば、呆れたような目。


「あんた、私をなんだと思ってるのよ」

「んー、幼馴染さま?」

「なんで、そこで疑問系?」

「いや、自分でもよくわからない、なんか偉そうだったから?」

「……呆れた」


彼女は手元の端末を操作して、目の前に半透明のウインドウを立ち上げる。

どうやら、僕との会話がお気に召さなかったようで、ニュースでも見るつもりらしい。

彼女は僕が実家で暮らしていた頃、隣の家に住んでいた幼馴染。

こうして一人暮らしをし始めても、通う学校が同じだったからずっとつかず離れずの関係だ。

向こう側の壁を微かに透かすその立体型ウインドウをぼんやりと見ていれば、耳に入った言葉は最近になってよく聞くもの。

そして、今朝も聞いた言葉。


「生贄、ね」


彼女が表情のない声で繰り返す。


「ねぇ」


それはほとんど無意識だった。


「明後日、僕と出掛けない?」


こちらを見て、瞳を瞬いた彼女に僕は少しだけ後悔して、でも笑ってしまった。




世界は何度も滅びかけたらしい。

けれど、人類がいまこうして生きている。

それはなぜか。

教会は言った。

それは正統なる生贄を差し出したからである、と。

滅びの日に生贄を差し出すことで、神が我ら人類を哀れに思い、救ってくださる。

それは、教会が提唱する旧世界の崩壊論といまの世界の創世論。

小さい頃から幾度となく繰り返し聞かされてきた僕らの世界の始まり。

そして、教会は、彼らは言った。

また生け贄を捧げるべき日が来たのだと。

今まで幾度となく繰り返されてきたという、その日が運悪く僕らの生きる時代に回ってくるなんて誰が思っただろうか。

少なくとも、僕は、思っていなかった。




「明後日、一緒に出掛けない?」


言葉を重ねれば、彼女は変なものでも食べたようなそんなぽかんとした顔で呟く。


「どうしたの……インドア派推進委員会のあんたが珍しい」

「天気がいいらしいから」

「そんならしくないこと言われると、なんか雨降りそうな気もするけど」

「そんな非科学的なこと言うのいまどき、君くらいだよ」

「そう?」

「そうだよ。それよりさっきの委員会ってなに」

「いや、なんかそれっぽいかなって」

「なんだ、それっぽいかなって」


君はよくわからない。


「それで、明後日どう?」

「……言うならもっと早く言ってほしかった、明後日は予定ある、から」


やや硬く零された言葉は、距離を測るようなものだった。

それを聞いて、失敗したと苦笑する。


「あぁ、彼氏とデート?」

「……そうよ。なんで濁したのにわざわざ言うのよ」


一拍黙ってから、唇を尖らせて不服そうな表情で彼女は僕を一瞥した。


「そっか、それならいいんだ。楽しんできて」


へらりと笑えば、彼女は顔を背けて、それでもわかった、と頷いた。




その夜は、馬鹿みたいによく眠れた。

よく彼女に繊細さの欠片もないと罵られてきたが、今回はそれがよくわかった。

自分の人生がもうすぐ終わるというのに、のんきなものだ。

我ながら、呆れた。




僕らが子どもの頃、世界が明日終わるなら何をするか、という質問が流行った。

あの時、僕がなんて答えたか覚えていないけど、彼女がなんて答えたのかはよく覚えてる。

彼女は言ったんだ。


「きっと、いつも通り。なにも変わらないわ」


そのときは子供ながらに、意外と冷めたことを言うんだな、なんて思っていた。

ただ、今ならなんとなくわかる。

何もする気が起きないほど無気力ではないにしても、特別に何かをするには今から足掻いたって遅い。

たとえば、想いを告げるなんてなおさらだ。

そもそも告げるつもりもなかった言葉を、だなんて虫がよすぎるだろう。

世界が僕と一緒に滅びるならまだしも、僕以外の大多数の人の世界はこれからも続くのだ。

そんなこと、ただのわがままでしかない。

床に転がって、そんなことを考えていたら一日が終わってしまった。

明日で全てが終わりなのかと、そんなことを考えると堪らなく可笑しかった。




だから、夜中に君から電話があったとき、どうしてって思ったんだ。




『起きてる?』


電話での君の声を聴くたびに、実はこの声はよく似た別の人のものなんじゃないかと思ってしまう。


「電話に出てるってことはイコール起きてるってことだと思うよ」

『思うよって言って、明言しないあんたも大概どうかと思うけど』


受話器の向こう側であきれたように鼻を鳴らす音を聞いて、あぁやっぱりこれは君の声かと誤差は修正される。


「珍しいね」

『は?』

「君が電話をかけてくるなんてめったにないから」


なんとなく夜風に当たりたくなって、窓を開けた。

ベランダに出れば、宝石をばら撒いたような夜空が頭上に広がる。

想像以上に綺麗で、少し驚いた。


『明日のことで、』

「明日?」


星座なんてひとつも知らないから、見つけた星を自由に繋いでいく。


『何時にどこよ』

「んー……、なんの形かな、これ」


結んだ線はいつの間にか絡まって、よくわからない僕だけの星座がひとつ出来上がる。

数えきれないあの星々を、死んだ人だと誰かが言った。

その理論がなんとなくわかるような気がするのは、きっといろんな終わりを見てきたから。

だって、そこで全てが終わるなんて悲しくってたまらない。


『……』


君が受話器の向こうで黙ったことにようやく気がついて、僕は星座を結ぶのを止めた。

しばらく次の言葉を待てば、ややあって君は拗ねたように呟く。


『ちゃんと聞いててよ』

「あ、うん、ごめん。ちょっと星見てた」

『あっそ。それで……明日、何時にどこ』

「明日?」

「言ってたでしょ」

『誰が、何を?』

『~~っ』


本当にわからず聞き返せば、君が声にならない声を零した。

どうしたの、と聞く前に声がはじける。


『だ、から! 明日、出掛けるって言ったでしょ!』

「予定あるって言ってなかった?」

『彼氏にドタキャンされたの』

「どたきゃん?」

『急にキャンセルされたの!』

「本当に?」

『なんで疑うのよ! 嘘だって言いたいわけ!』

「急にキャンセルなら急キャンじゃないの?」


一拍、君が黙った。

それから君は噛みながら、僕を罵った。


『ば、ばっかじゃないのっ! 今の流れで普通そこ聞く!?』

「だって他になに聞くの? 疑うところも謎なところも特にないし」

『~~もう、いいっ』


そこまで言って君が黙るから僕も黙った。

今度は、星座を作らず、君の次の言葉を待つ。

夜風はここちよく髪を揺らす。夜の澄んだ風に目を閉じてみる。

それでも、瞼の裏にも星の光は焼き付いていた。

さっきの星座はもう思い出せない。

しばらくして君が再び口を開いた。


『明日……一緒にどっか行こ』


小さくぶっきら棒に聞こえるその声に、目を開ける。

表情なんて見えないのに、受話器の向こうで君がバツの悪い顔をしている気がする。

たったそれだけの思い込みで、君を知っているような気になる僕はきっとおかしい。


「うん」

『あんたの行きたいところでいいからさ』

「うん、わかった」


星は変わらず、瞬いている。

月もとても綺麗だ。

もし、そう告げたら、君も夜空を見上げてくれるだろうか。

そうしたら、この一時だけは夜空を僕たち2人だけのものにできるような気がした。

なんて、そんなことを思う僕はやっぱりおかしい。


『黙ってどうしたの?』

「ううん、何でもない。ねぇ、それにしても今更だけど、君って本当に古い言葉とか言い回しとか好きだよね」

『……うるさい』

「じゃあ、明日、駅前のバス停に10時でどう?」

『……あんたって本当に脈絡なくて困る』

「そう?」

『そうよ。でも、まぁそれがあんたよね』


しょうがないなぁ、という風にくすりと笑った声が耳に押し当てた受話器から聞こえた。

それから、じゃあね、となんでもない言葉で電話は切れる。

もったいないなぁと、ぼんやりと思った。

君がいま目の前にいたなら、その笑顔を見られたのに。




「水族館?」


目的地に着いて、バスから降りた君は目を瞬いた。


「うん、あれ言ってなかった?」

「聞いてないわよ。だいたい室内なら天気の良し悪しあんまり関係ないじゃない」


ひどく呆れたようなその様子に、苦笑しつつ、まぁいいじゃないかと君を促した。




床に揺らめく水の影に視線を落として、ふいにぽつりと彼女が言った。


「水族館ってなんだか、海の底にいるみたいな気持ちになるのよね」

「君らしくもないポエマーな台詞だね」

「あんたは知らなかったと思うけど、私だってポエマーなことぐらい言う可愛い乙女よ」

「ふぅん。納得」

「納得してないくせに言うな、ばか」


悠々と泳ぐ魚たちを君の後ろから眺める。

水槽に手をついて、彼らを見る君の目はきらきらとしていた。


「楽しい?」

「うんっ!」


僕を振り返った君はとびきりの笑顔で、少し驚く。

君もそれがわかったのか、すぐにぱっと顔を背ける。


「別に、はしゃいでる、とかじゃないから」




ショーも見終わって、僕らは休憩と昼食を兼ねて館内のカフェにいた。

それにしても、と食事を終えた彼女が飲み物に手を伸ばす。


「なんで水族館だったのよ? あんた、魚とか別に好きじゃないでしょ」

「まぁ、食べるのは嫌いじゃないけど、確かに魚を眺めるのが何よりも好きってほどではないね」

「……なら、なんでよ」


呆れたような目から少し目を逸らして、僕も飲み物に手を伸ばした。


「君が行きたいって言ってたから」

「は? いつよ、それ」

「そうだな、遠足に行き損ねて拗ねてた時だったから小学1生のころ、かな」

「……すごく昔のことすぎて普通に覚えてないわよ」

「半世紀も前の事じゃあるまいし、なにより君、こういうこと忘れると怒るじゃないか」


ややあって、零されるはため息がひとつ。


「じゃあ、さっきの『言ってなかった?』は私が水族館に行きたいって前に言ってたよね、ってことだったわけね」

「え? それ以外に何かあった?」

「……あんたはただでさえほけほけしてるんだから、コミュニケーションの齟齬を引き起こす可能性を考えて一から十までしっかりはっきりくっきり話なさい」

「ええと、つまり?」

「悟ってもらえると思わないこと」

「え、それむしろ君の方が、」

「なによ」

「いいえー何でもー」


へらりと誤魔化せば、足を蹴られた。

うん、地味に痛いから失言には気をつけよう。

カフェ内に設置された立体ウインドウでは、ニュースが流れている。

笑い声や、楽しげな会話にも掻き消されずにそのニュースは耳に入ってくるのだから不思議だ。

ふいに会話が途切れて、何気なく僕は口を開く。


「ねぇ、深海でもよかった?」

「え?」

「もし深海に一緒に行こうって言っても、ついてきてくれた?」


おどけて尋ねる。

こんな試すような真似をしてどうすると言うのだろう。

それでも、君ならこんなバカみたいな感傷を、バカだと言って笑い飛ばしてくれると思った。

君はストローに口をつけて、少しうつむく。

それから、こちらを見ずに呟いた。


「あんた、本当にばかね」




お土産売り場の棚に並んでいる人形たちはどこか間の抜けた顔をしている。

前にそんなことを言ったときには、こういうのを癒される顔って言うのよ、なんて怒られた気がする。

僕の記憶のなかの君はいつだって怒っている。

怒らせたいわけではなくて、でも、僕はきっと君のくるくるとせわしなく変わる表情がよく似合うと思ってた。


「買って」


声に振り返れば、君は棚の一角を指差していた。


「この年になってキーホルダーなんている?」

「記念になにか買って」

「記念って」


思わず笑う。

けれど、その手は下げられることはなくて、笑いは気づけば苦笑に変わる。


「やめとこうよ、そもそもなんの記念?」

「嫌よ。買って」


子供のような短い駄々。

それでもこちらをまっすぐと見るその瞳は、もう幼い少女のそれではなかった。

手を繋いで、意味も知らすに誓い合った、もう戻らない遠い日のことを思い出す。

やわらかい夕暮れの世界で、鐘の音が響く中、2人でいつまでも一緒にいようと願った。

もう、僕も君もあの頃の約束をきっと信じていないんだ。

僕は静かに微笑む。


「きっと彼氏が捨てるよ」

「捨てないわよ」

「そうでなくても、嫌がるだろう?」

「いいから、買って」

「ねぇ」

「買って」

「よくないよ」


咎めるように言っても、その目が逸らされることはなくて、しばらくして小さくため息をつく。

僕が君に勝てる日なんてついに来なかった。


「……どれがほしいの」

「なんかよさそうなの選んで」


買ってもらえると、わかった途端にニコニコしだす君にこっそりもう一度ため息。


「む、ため息とは失敬な」

「はいはい、申し訳ございません、お姫さま」


おどけて見せれば、やっぱり足蹴りを頂戴することになった。




「君が楽しんでくれたみたいで良かったよ」

「……あっそ」


閉館のアナウンスが流れ始めて、人の波が出口へと向かっていく。


「こうやって2人で出掛けたのいつぶりだろうね」

「覚えてないわけ? 小学校の3年の秋祭り以来よ」

「へー、よく覚えてるね」


何気なく褒めたのに、彼女ははっとしたように口元を押さえた。

それから言い訳のように、早口にまくしたてる。


「別に、覚えてたとかそういうのじゃなくて、ただ思い出したってだけで、とくに意味とかないから変に勘ぐるの止めてよね!」

「? うん、別に何も思ってないけど」


何をそんなに慌てたのかわからなくて、首を傾げる。

君はぐっと言葉に詰まらせた。

気づけば、出口に向かっていた僕の隣に君はいなくて、振り返る。

立ち止った君は、俯いたまま絞り出すように言う。


「あんたっていつもそう」


震える声は、何かが溢れるのを耐えるようだった。


「いつも?」

「どうして、こんな風になっちゃったのかわかんない。近いって思っても、手を繋ぐことなんて考えもしないんでしょ。だってずっと距離計ってるもんね」

「それどういう、」


震える肩に伸ばしかけた手は振り払われる。


「覚えてないかもしれないけど、あたし、あの秋祭りの日に、あんたにずっと一緒にいたいって言った……! それで伝わると思ったし、伝わったと思った。あんたがわかった、って笑ってくれたから」


顔を上げた君は、今にも泣きそうな顔をしていた。


「でも、あんたはわかってなかったんだ……ずっとそばにいるってことを、幼馴染として一緒にいたいってことだって思ったんでしょ? いつか壊れるかもしれない近い関係より、近づきすぎないことで壊れない関係を選ぼうとしたんだ……っ」


何も言えなかった。


「最近になって、やっとそれがわかった。ずっと、振られたんだって思ってた。でも、違ったんでしょう? この関係はあんたなりの約束の守り方だったんだ。あたしとの約束を守るための、距離の取り方だったんでしょ……? でも!」 


君の顔が歪む。

泣きそうに、震える声。


「信じて欲しかった! 壊れないものもあるって、もし例え壊れてしまっても、あたしがあんたから離れるはずないって、信じて欲しかった……っ」

「……信じてたよ」

「嘘よっ」

「ほんとだよ」


君の手をとる。

一瞬驚いた君が、嫌だと振り払おうとするのを押しとどめて、その小さな震える手を強く握った。

開きかけた口は情けないくらい正直に思いを告げようとして、苦笑が零れた。

小さく息を吸う。

告げるべき言葉を間違えてしまうところだった。


「――――ごめんね」


その言葉に、君の瞳から涙が零れ落ちる。

さっき、カフェで流れていたニュースは、明日生贄になる人の名を確かに読み上げていた。

そんな発表がされているなんて知らなかった。

説明はやっぱりちゃんと聞くべきだった、なんて後悔はもう遅い。


君はきっと、

もう、電話をくれたあの時から僕が明日どうなるかを知っていたんだ。




2人で手を繋いで、黙ったまま僕らは帰路を辿る。

こんな風に手を繋いで帰るのは、小学生の頃以来だろうか。

と言っても、あの頃はこんな風に黙って帰ることなんてなかったけれど。

当時の子どもだった自分たちを思い返せば、笑いが堪え切れなくなって、くすくすと笑ってしまう。

そんな僕に気づいて、さっきまで泣きそうな顔をしていた君は信じられないものを見るように僕を見て目を見開く。

そして、泣きそうな顔は瞬く間に怒った顔に変わる。


「なんで笑えんの! あんた、馬鹿なの!? どれだけ馬鹿なのよ! ふざけないでよ!」

「そんなバカバカ言ってひっどいなぁ……そりゃあ、僕だって怖いですよ」


それでも顔が緩んでしまうのは、君の泣きそうな顔がいつもみたいな怒った顔になったから。

君はやっぱりそういう顔の方がいきいきしていて、良く似合う。


「なら、なんでよ!?」

「……ん。しいて言うなら、世界は綺麗なものだって信じたいんじゃないかな」

「きれ、い……?」

「そ。こんな世界って唾を吐いて死ぬのってきっと簡単なんだよ。諦めて見限って。でも、それって辛いよな。しんどい生き方、というかしんどい死に方だと思う。でも、結局、死の意味ってどうしたって綺麗なものじゃない。理不尽だし、皆のために死んでくとかなにそれ偽善だし、そんなことなんか違うって思うしさ。でも、なら、どうせなら、何かをひとつでも祈って死にたい」

「わけわかんない。なによ、なにが言いたいのよ……?」


また、泣きそうになるその顔に微笑む。


「僕さ、有希のいる世界が好きだよ。有希の笑顔がある世界なら、それがいい」

「……っ」

「って言っても、僕一人の犠牲じゃないからこんな偉そうにしてもねー」


言うつもりはなかったなんてきっと言えない。

僕はきっと弱いし、かっこよくなんてなれない。

それにかっこよく去ってしまったら、僕という存在は君の中で綺麗に完結してしまうんだろう。

なら、未完成のままの僕を君の中に残したかった。

卑怯だけれど、君には時間があるんだ。

だから、きっと大丈夫。

そう信じたかった。

僕のことを忘れるだけの膨大な時間も、大切な人を作る時間も、君にはあるんだ。




君の家の前に着いた。

でも、君は家の中には入らず、僕と向かい合って少し黙る。

君はそっと、波紋ひとつない湖のような静かな瞳で僕を見上げた。


「……あたしさ、本当は彼氏なんていないって言ったら、どうする?」

「知ってた、って言うかな」

「……むかつく」


本当にむっとしたように言われて微笑ましくなる。

それから、君はなんてことないような温度で告げた。


「私ね、深海でだったら“死んでもいいわ”」

『もし深海に一緒に行こうって言っても、ついてきてくれた?』


先の言葉を引用するように彼女がそんなことを言うから、本当に僕は驚いて。

胸が苦しくなって、泣きそうになって、だから笑った。


「僕は嫌だよ。深海でなんか死にたくないもの。魚を食べるのは好きだけどね」

「うん。あんたはそう言うと思ってた」


君は眩しそうに目を細めて、手を伸ばしてきた。

僕を抱きしめてくるその腕は震えていた。


「私も意気地なしだなぁ……あんたが知ってるわけないのに」


知ってるよ、なんて心の中で呟く。

死んでもいいわ、なんて君らしくもないから。

本当に君は古い言葉が好きだね。




その夜、夢を見た。

夢だと分かり切った夢だった。

君がいて、僕の隣で僕を怒る、そんな夢。

夢なのだから、どうせならもっと混沌無形で幸せな夢ならいいのに。

それは、なんてことない普通の、本当に普通のいつも通りの日常。

いつまでも続くようなそんな、他愛もない日常。

目が覚めて、馬鹿だなぁと、顔を覆った。

どうせなら、叶わない、そんな夢で終わらせてほしかった。

それは、最後にするにはそんなに贅沢な願いだっただろうか。




「お迎えに上がりました」


家を出た僕の前にまるで見計らったかのように、黒塗りの車は音もなく止まった。

運転席から降りてきたのは、3日前に玄関先に来たスーツの男だった。


「お久しぶりです」


無意識に口にしてから、3日前に会ったのにお久しぶりなんて皮肉のようだろうかと苦笑が零れる。

どうにも自分はこの男に対して、無意識に攻撃的になってしまう。


「どうぞ」


男は僕の言葉に何も言わず、ただ車の中へと促した。

乗り込むと同時に滑るように走り出した車は、四角い景色を瞬く間に後ろへと流していく。

もう戻れず、2度と見ることさえできないのに、惜しむ時間もなくそれらはどんどんと過ぎていった。

四角い景色はまるで写真のようで、そこに思い出が重なった。

アルバムのページは決して戻らない。追憶は手を伸ばす暇もなく後ろへと零れて消えていく。

彼女と歩いた通学路も、幼いころよく彼女と遊んだ公園も、昨日2人で出掛けた水族館も、みんな戻れない日々として過去へ過去へと流れていく。

思い出す彼女はいつだって笑っている。

怒られていることの方が多かったはずなのに、なんだか、ずるい。

そんなことを考えただけでふっと力が抜けて、体がシートに重く沈み込んだ。頭が窓へと力なく傾いた。ガラスに触れた耳が冷たい。そんな些細なことさえも感傷を煽る。

楽しく、それなりに愉快に生きてきたつもりだった。

思い出せば笑えるほど楽しいことも、思い出したくもない悲しいことも人並みにたくさんあったはずだった。

それなのに、

それなのに、僕がこうやって馬鹿のように思い出すのは彼女の事ばかりだった。

開きかけた口は、それでも正しい言葉を選べない。

吐息さえも零せない自分の自嘲に歪んだ顔が窓に映る。

ミラー越しに向けられた男の視線を視界の隅に感じて、そっと目を閉じた。


「運転……、お上手ですね」


ほら、やっぱり僕はこの男に対してどこか攻撃的だ。




車が止まったのは人気のない郊外だった。

促されるままに車を降りれば、そこにあったのは雪のように真っ白な建物。

思えば、説明を一切聞いていなかった僕は何も知らない。

自分がこれからどうやって生贄として、死んでいくかも知らないなんて、どれほど滑稽か。


「自分がご一緒できるのはここまでです」


背後で零された言葉に振り返る。

スーツの男はあいかわらずの無表情で車の横に立っていた。


「そう、ですか」


せめて、最後にお礼くらい言おうと口を開きかける。今度は皮肉にならないように、とそんなことを思っていれば先に男が口を開いた。


「自分は」


遮るように紡がれた言葉と共にすっと持ち上がった瞳の奥に、何かが見えた気がした。


「俺は――――正直、あなたのことをひどく憐れだと思っています」


一瞬、何を言われたのか、わからなかった。

手足が強張って、周囲の音が遠くなる。

視界が狭くなって、ぐらりと足元が揺らいだ気がした。

聞こえるのは無機質な、けれどそれでいて凍えるような、その、声だけ。


「あなたは憐れだ。心の底から同情する」


何を言われているかわからないはずなのに、指先から徐々に力が抜けていく。

考えることを放棄した頭がそれでも、彼の瞳から何かを読み取ろうとする。

あぁ、氷のように冷たい瞳の奥で、何かが、燃えている。


「なぜなら、あなたは、」


男の言葉を掻き消すように、僕の背後で門が耳障りな音で開いていく。

目を離せないほどの、

何か、が、

その瞳に、燃えて、

痛みを耐えるように歪んで、


「何も、知らない」




音がやんだ時、男は何事もなかったかのように、それこそ始めた会った日のように無表情で頭を下げた。

「いってらっしゃいませ」




施設の中で僕を待っていたのはスーツの女だった。


「教会の者です。お待ちしておりました」


無表情のその女は誰かに似ているような気がした。

奥へどうぞと促された先は下へ下へと降りていく階段だった。

行きついた先は真っ白な扉の前。

そこまで行き着くと、目の前の女がくるりと振り返った。


「あまり、持ち込みはしていただきたくないのですが、それは私がお引き取りしてもよろしいものですか?」

「え?」

「そのポケットに入っているものですよ」


コートのポケットを示されて、首を傾げつつ手を入れる。

指先に触れたものを取り出せば、それはロケット型のペンダント――――秋祭りのときに、僕が彼女プレゼントしたものだった。

いつの間にポケットに忍ばされたのだろう、全く気付かなかった。

指先がロケットの蓋を開けた途端に、声が、溢れた。


『驚いた? たぶん、お土産買ってもらっただろうから、そのお返し』

『音声再生のチップ、ロケットの中に仕込めるもんなんだね。大きさ的に無理かと思ってた』


それは紛れもない君の声。

なんてことのない明るい声が笑う。


『あんた、あたしに言うつもりなかったでしょ。いきなり誘われて変だと思ったんだよね。でも、ニュース見て合点がいった』

『ばーか』

『ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ。もしこのまま何も知らずにあんたを失ってたらと思うと、ほんとにふざけんなって言いたい』


少しの沈黙。


『ねぇ……本当は死んじゃうなんていやだよ、一緒にいたいよ。こんなこと言ったってどうにもならないことはわかってる、わかってるよ? でも、あたしはあんたと一緒に生きていきたかったの……っ』

『言わない約束なんてしてなかったから、言わせて』

『あたしはあんたが――――』


顔を覆う。

ロケットの蓋を閉めて、それを握りしめた手で目を強く抑える。

そうしなければ、叫び出してしまいそうだった。

死んでも、いいと思った。

なんて短絡的で愚かで、まったくもって合理的じゃない。

でも、これがきっと人なんだろうと思った。

まだ、この言葉は続くのかもしれない。

でも、これ以上はきっと未練が募るだけだ。

それに残された時間はもうきっとそれを全部聞き切るほどない。


「俺も――」


頬を伝う涙は知らない。溢れたのは笑みだった。

笑って死んでいけるなんて思わなかった。

いい人生だったなんて、心から思えるなんて思わなかった。

やっぱり、君には、どうしたって僕は敵わない。

だから、どうか。

彼女のこれから生きていく世界が、どうか幸せなものでありますように。

零した言葉は、自分の耳でも聞き取れなかった。


「それがあなたの大切な人の言葉、ですか……」


顔を上げれば、女が僕を見ていた。

こちらへ、と示されたドア目の前の白いものではなく、その右手奥にある別の扉だった。


「こちらであれば、それは持ち込んでいただいて構いません――――覚悟は、もう宜しいですか」


頷いて、その部屋に足を踏み入れた。


「そこに立ってください」


示された広い部屋の中心、後ろで機械を操作する女にそう指示される。


「いま、何か言いたいことはありませんか」

「……ない、ですね」

「そうですか」


背後から鳴り響く小さな電子音が、だんだんとその間隔を短くしていく。


「時間、ですか」


女の言葉に、深く息を吸い込む。

胸を優しく締め付けるこの感情を、抱えたまま死ねるなら、きっと自分は望み通りこの世界を呪わずに死ねる。


「有希……」


そっと目を閉じれば、瞼の裏で君が笑った気がした。















けれど、途切れたと思った意識は、どうしてか次の瞬間を迎えていた。

目の前に表われた巨大なウインドウ。

背景を透かすその画面にはありきたりな風景が映っていた。


「え……?」


そこは、僕が好きだった公園だった。風に揺れる木々、笑い合う家族。

そして、そのウインドウの右上に少し重なるように、またひとつ小さなウインドウが表れる。

一面の暗闇かと思われたその映像は、微かな光を映した。


「地球、とひかり……?」


暗闇の中の青い星に、まっすぐと光が、落ちていく。

光の尾を引きながら、美しいそれは音もなく大気圏に――――

喉の奥から、不自然に空気が零れた。




一瞬だった。

一瞬ですべてが消し飛んだ。

好きだった公園も、笑顔の家族も、木も、花も、何もかもが。

訳がわからなかった。

なんだ、これ、は。

呆然と、ウインドウを見つめる僕の後ろから、女の淡々とした声が聞こえる。


「これが、真実です。あなたは何億人の為に死ぬわけではありません。あなたは何億人の屍の上に立つ人間の一人として選ばれたのです」




生贄は殺される人の名称ではないのです。

本当はその少人数だけが生かされ、他は殺されるのです。

わかりやすくいうのなら、口減らし、ですよ。

昨日までの世界は本当にぎりぎりの均衡で保たれていたのです。

このまま進めば、人類は確実に滅びていました。

何億年に一回、人類のほとんどを殺して、世界をリセットする。それが何度も繰り返されているのです。

クローン技術と、記憶の埋め込み技術があれば、地上世界を再度構築することなんて簡単ですから。

ただ地上に再生期間を与える間、人類は地下で生き延びねばなりません。

しかし、地上が生命力を取り戻すための膨大な時間、人口をそのまま地下に移行できるほどのエネルギーはありません。

…………

生贄である自分を受け入れた人間は、人の為に死ねる人間です。

なら、人の為に生きられる人間でもあるでしょう?




思い出すのは、柔らかい夕焼けに溶けてしまいそうな小さな背中。


「ねぇ」


背中越しの声は、ひどく優しかった。


「約束、しよ」


お祭りの始まる時間にはやや早い時間帯。

幼い彼女は振り返らないまま、そう僕に言った。


「約束?」

「そう」

「どんな?」

「……ずっと、」

「ずっと?」

「ずーっと一緒にいよ、」


気づいたのはスカートの裾を握りしめる君の肩が震えていること。

僕は静かに彼女に近づいて、後ろからそっと顔を覗き込んだ。

顔を真っ赤にして、俯いて目を硬くつむっている彼女は僕に気づかない。

ぎゅーっと閉じられた目元を見ているだけで、心がふんわりと温かくなった。

伸ばした手が彼女に触れれば、弾かれたようにこちらを見るまん丸な瞳。

ふふっと笑って、僕は彼女の手を握った。


「うん、いるよ。ずっと一緒にいる」


そう答えれば、目を見開いて固まっていた彼女は、ほっとしたようにほころぶような笑みを浮かべてくれた。

遠いあの日、もう戻らない、そんな、優しい世界。




流れ込む言葉に理解は追いつかなかった。

それでも、わかることはあって、

君が、死ぬの?

僕が、救えるんじゃなかったの?




うるさい。

この耳障りな音は何だろう。

うるさくて堪らない。

でも、気づいた。

あぁ、なんだ。

これ、僕の声か。

まさか自分がこんな風に外聞なく、喚き散らせるとは思わなかった。

床を叩きつけて、叫んで、意味もなく、そう、こんなことをしたってなにも変わらないのに。


「大丈夫ですか」


水のように澄んだ声が降ってきて、僕は緩慢に顔を上げた。

見下ろしてくる瞳はなんの温度もない。


「大丈夫ですか」

「なんで」


ゆらりと立ち上がる。


「どうして、あんたは大丈夫なわけ? あんたも、生贄、なんだろ?」




女は口を開いた。


「兄は不器用な人だったのです」


それは唐突な言葉。


「不器用で愚かな優しさしか持ってなかったのです。自分が優しいってことも知らないくらいの鈍感な人だったのです。そんな兄が私に可哀想って言ったのですよ」


それは聞き覚えのある言葉だった。

そうか、なんて空虚な理解をする。

似ていると思ったのはその無表情だけが理由だったわけではなかったようだ。

女は無表情のまま、僕の前まで歩いてくる。


「生き残るお前たちは可哀想で、不憫で、憐れで、救いがないって。死んでいく俺たちの方がよほど楽で幸せだって言ったのです」


わかりますか、首を傾けた彼女は僕をまっすぐと見る。


「これ、なんて言えばいいんですか?」


表情のないその顔の上を、滑り落ちていくその雫をただ見ていた。


「だから、罪悪感なんて持つなって、ただそれだけを言いたいのにこんなに遠回りして、悪者になるような言葉を選んで、ばか、でしょう? 確かに、1億人の為に死ねと言うより、1億人の分まで生きろと言われる方が精神的に辛いですね。生贄なんて言葉はむしろ、そのことの皮肉のようかもしれません。でも、兄は誰より辛いのはお前だってわかっているって、そう言ったのですよ。こんな言葉を最後に貰って、どう選べばいいのですか」


頬を伝った涙は一粒だけだった。

凛とした声が、空気を震わせる。


「私は生きますよ。全部任せて死ねて幸せだって言った兄に、ざまあみろ、と言うためだけに生きてやるのです」




何も、言えなかった。

でも、無理だとそれだけを思った。

自分には無理だ。

こんな世界でもう、生きてなんていられない。




意識を戻したのは耳に届いた澄んだ音。


「……あなたが命を絶ちたいと望むなら、それでも構いません」


足元に放られたのはナイフだった。

その煌めく刀身が目に入って、

真っ黒になった心にもう余裕なんてなくて、指先から最後の力が抜けた。

乾いた音に、視線だけをやれば、それは彼女がくれたロケットが床に落ちた音。

落ちた衝撃で蓋が開いて、ノイズ交じりの再生が始まる。


『一緒に生きていたいよ……っ』


希望なんてどこにもなかった。


『死なないで……!』


さっき、救われたと、満たされてと思った心は、もう一足先に死んでしまった。

彼女の言葉は、僕の言葉に変わる。

生きて欲しかった。自分なんて死んでいいから、君には生きていて欲しかった。死なないで、欲しかった。

違う、一緒に生きて、笑って、生きて、そして、一緒に死んでしまいたかった。

君とずっと一緒に、いたかった。

彼女の叫びに心は軋むほど重なって、だからこそ、もう救いなどどこにもなかった。

もう、なにも聞きたくないのに、体は動かない。


『あんたが、好き……っ』


うん、僕もだ。

再生が、終わる。

訪れた静寂は、穏やかで、それだけで人を殺せそうなほど残酷だった。

そうか、この先には何の言葉もなかったんだ。

それなら、あの時、本当にすべてが終わっていたらよかったのに。

投げられたナイフにゆっくりと手を伸ばす。


『…………でも、ね』


けれど、再び、聞こえた声に手が止まった。


『あたし、生きるよ』


振り返れば、ロケットから彼女の泣き声交じりの声。


『生きて、幸せになるよ。しわくっちゃになるまで生きて、いっぱい笑って、いっぱい怒って、いっぱいいっぱい生きるよ。呆れられるくらい長生きするよ』


どうして、と尋ねる声なんか届かない。届かないはずだ。だって、それは、もう死んでしまった彼女の過去からの言葉。

でも、君が笑った顔が見えた気がした。

きっと少しだけ涙を滲ませて、きっとあの時みたいに、とびきりの笑顔で。


『だって、きっとあんたが同じ立場ならこう言うからさ……!』


零れ落ちた涙を、どうしたら堪えられたかなんてわからない。

喉から溢れた叫びを、受け止めてくれるものなんてもうきっとない。

それでも、






「記憶を消すはずでした」


子どものように泣く僕に淡々と女は言った。


「精神的負荷がかかりすぎてしまうから、例外なくどの方の記憶も消す。それが教会の方針でした」


過去形で語られるそれは、何を指すのか。


「でも、あなた、忘れたくないでしょう」

「当たり前だ……っ」


女は少し黙った。


「それが、どれほど辛いことでもですか。きっと、あなたは何度も苦しむ。忘れた方がどれほどいいか。そこにきっと幸せはありませんよ」

「この記憶をなくして得られる幸せなんていらないっ」


握りしめたロケットは落とした時に壊れてしまって、先の再生を最後に二度とあの声は聴けない。

それでも、覚えている。

忘れない。

忘れてたまるものか。

女はまた、少し黙って、それからしゃがみこんでいる俺と視線を合わせるように膝をついた。


「なら、教会に属してください。生贄になった方のこれまでの記憶はすべて消す。けれど、世界を繋ぐためにはこのことを忘れない人間が必要です。前回も、前々回も、この歴史は教会によって繰り返されてきた。それは人類を救う方法がそれ以外になかったからです」


でも――――女の言葉に顔を上げる。


「こんな世界をあなたは認めないでしょう。あなたが変えればいい」




僕は笑った。

頬を伝い落ちていく雫を拭うこともせず、ただ笑った。

それが――――彼女との約束を破った僕にできる唯一のことなら

僕は、喜んで世界の生贄になろう。

生きて生きて生き抜いて、どうか死ぬ時まで――――――




「ね! これロマンチックじゃない?」

「んー?」

「アイラブユーの訳し方よ!」

「“月が綺麗ですね”?」

「この奥ゆかしさ……っ! 堪らない!」

「こっちはこれまたすごい訳し方……」

「あんた解ってないわねー! こっちもすっごく素敵じゃないっ」



  「愛してますが“死んでもいいわ”なんて」











FIN




どう足掻いても救いのない話、というコンセプトでした。

最期まで読んでくださった方、ありがとうございます。

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