閑話 ―― 兄の懸念
「ユイシュエル!」
「! 兄上!」
「これは一体どういう事だ!何故リーゼロッテが若にエスコートされている!?」
「兄上、落ち着いてください。御説明致しますので、どうかこちらへ…!」
今にも掴み掛らん勢いで以てユイシュエルへと声を掛けたアイゼルンは、ここでは説明が出来ないと言う弟と共に廊下へ出て一番近くの休憩室へと入る。
大きな窓から斜陽が差し込むそこは中央に深緑色のベルベット地の六人掛けソファーと凝った白磁のローテーブル、そして窓際にもう一脚同じデザインの一人掛けソファーが置かれてあり、疲れた紳士や淑女が心地良く休めるよう控えめな花が飾られるなどの心遣いがそこかしこに散りばめられていた。
しかし、今はとても部屋を観賞する余裕の無いアイゼルンは部屋付きの侍女を下がらせて人払いをすると、ソファーに座る間もなく これまでの経緯を聞き出した。
「――…メアリス様が発熱されてのあの事態か…。…しかし、リーゼロッテがそんなにも子供の扱いに長けていたとは知らなかったな。あの魔性 (・・)は幼児にも有効なのか…?」
まったく笑えない冗談を言う長兄は、顎に指を添えながら腕を組み、苦りきった表情で嗤う。
平静さを失いつつある兄を、弟は困惑しきった表情で見つめる他ない。
やがて、何かを掃うように大きな溜め息をついたアイゼルンは、思案に落としていた目線を上げてユイシュエルを見据えた。
「完ッ全に想定外だ。…お前が付いていながら、何故回避出来なかった…っ?」
「…申し訳ございません。…しかし、殿下はリーゼロッテの噂を消す良い機会だと仰ったのです。…ユキアス(おさな子)に信頼されるのだから、“悪女”であるはずが無いと一度に知らしめることが出来るだろうと…」
「…見事に利用されたな…」
「兄上…?」
兄の考えが分からず、ユイシュエルは躊躇いがちに呼ぶ。
アイゼルンは一度外した視線を戻し、ひたと、困惑に揺れる弟のルビーと自らのそれを合わせた。
「ユイシュエル」
「は、はい」
「この先、殿下の動きに注意しろ。…もしかしたら、リーゼロッテを政治に利用しようとなさるかも知れない」
「…、…は…?」
兄の言葉に、ユイシュエルは目を見開かせる。
この部屋に彼ら以外に人はいないにもかかわらず声を落としたアイゼルンは、真剣な表情のまま、慎重に言葉を続けた。
「…お前も知っている通り、本来のリズは“悪女”とは正反対の優しくて素直な少女だ。そんな娘が、若のような子供に懐かれて邪険に出来ると思うか?…」
「それは……ですが、それとこれとは話が…」
「若をエサにリズを城へと誘い出しやすくしたんだよ。若が会いたがっていると言えばリズは断らないだろうし、我々も王太子殿下からの呼び出しとあっては応じないわけにはいかない。…そうなれば囲い込むなど容易だ。 いくら父上と言えども遠方にいては どうしても声は届きづらいだろうし、私も城で暮らしているとはいえ宰相補佐という地位では同じこと。実家から引き離されれば手出しは――…」
「っ…兄上、兄上ちょっと待ってください!」
だんだんと自分一人の中だけで会話を進めていってしまっている兄に、ユイシュエルは堪らずに声を上げて制止する。
ハッと言葉を切ったアイゼルンは いつの間にか落としていた視線を再び上げ、どこか咎めるようにきつく柳眉を寄せる弟を見遣った。
ユイシュエルは混乱しながらも、あまり声を荒げないように気を払いながら続けた。
「…何を仰っているのですか…? そんなことをして、殿下に一体何のメリットがあると言うんです。…確かに、リーゼロッテを側妃へと迎えれば、妃殿下のご実家だけではなくアルフォンドシュタインも殿下の後ろ盾となったことが明確に示せましょうが……」
「そうじゃない。殿下が欲しいのは、あくまで“リーゼロッテ”だ」
「…それは、どういう…?」
さらに困惑に眉根を寄せるユイシュエル。
知らず逸っていた気持ちを一度深く呼吸をすることで落ち着かせたアイゼルンは、意識してゆっくりと、自身の考えを腹心の弟へと告げた。
「…お前の言う通り、リーゼロッテを側妃へと迎えれば我がアルフォンドシュタイン家が確実に殿下の後ろ盾となったことが諸侯に知れ渡るだろう。…けどな、現状、リーゼロッテが後宮に入ったところで得られる利益と効果は薄い。そんなことをしなくても父上の名代を務めるほどのお前が王太子殿下に与しているのは周知なうえ、父上も、王族への忠義を示し続けているからな。アルフォンドシュタインを手に入れたと、わざわざ改めて知らしめる場面でもない。 仮に殿下がリズに恋情を抱いていたのだとしても、だ。あの子が後宮に輿入れすることによって、妃殿下とも妃殿下のご実家とも関係を歪ませることになりかねないのに、鋭い平衡感覚をお持ちのあの方がそんな下手を打つとは思えないだろう。 …かの前当主は今もなお、元老院の副議長を務める重臣中の重臣。様々なことを抜きにしても、殿下にとってもアルフォンドシュタインにとっても、敵に回していい相手じゃない」
「…それは…。…でしたら、何故…」
「…リズが社交界デビューを果たした時から流れている“悪女伝説”。あの子の性格とあれだけ かけ離れているのに これほど長い間その噂が絶えないのは……それどころか、年々酷くなるのは何故だと思う?」
「、は…」
思わぬ方向への話の飛び方に一瞬、ユイシュエルの理解が遅れる。
一拍の後、言葉は続けられた。
「“事実”だからだよ。リズにそんな意図など無くとも、あの子は普通に接しているだけなのだと思っていても、相手の男は確実に“惑わされている”。…最近、贈られた土地について殿下に相談されたそうだな。それで殿下はお気付きになったのだろう、“リーゼロッテは使える”と」
光の加減により、アイゼルンよりも幾分明度の高いルビーが徐々に見開かれる。
陽光を背に受けるアイゼルンの暗い紅が苦々しく眇められた。
「…年々、別邸に贈られてくる馬車の列が長くなっているだろう。贈られてくる品が“物品”と呼べなくなっているのを知っているだろう。…無意識でコレ(・・)なのだから、リーゼロッテがそういう意図 (・・・・・・)を持って男に近づいて行ったらどうなると思う。そしてその相手が、殿下にとっての政敵だったら?他国の要人だったら?……主導権を握るなど簡単だろうな…」
床へと逸らされる視線。
ユイシュエルはわずかな混乱と動揺に揺れる瞳で兄の様子を視界に収めながら、言われたことの意味を整理し、幾度となく黙考する。
…しかし、導き出される答えは同じだった。
落ちる沈黙の中。
一つ、呼吸を置いたユイシュエルは、しっかりと兄を見ながら口を開いた。
「…兄上、ですが、やはりそれは考え過ぎです。 僕はこの8年、恐れながらも殿下の友人として親しい付き合いをさせて頂いておりますが、あの方は姿形に囚われず、人の本質をよく見抜かれるお方です。リーゼロッテとは数度、目通りしただけとはいえ、殿下は充分にあの子の性格を理解なさっておいででした。為政のために誰かを傷付けるのを厭われる方でもありますので、仕える者の性格に合った使い道をしようと心掛けてもおられます。…それに、兄上の仰るようなことをしてはアルフォンドシュタインとそれに属する者たちの反感を買い、無駄に敵をつくってしまうことになるのではありませんか?…我が家を敵に回せば、いくら殿下と言えども立場は危うい。 現在は近隣諸国も含め情勢は安定しておりますし、そのように無用なリスクを冒してまであの子を手に入れようとなさるとは、僕にはどうしても思えません。 …もし、兄上の仰るようなことになったとしても、です。僕たちの妹は、ちゃんと自分でモノを考えられる子ではありませんか。たとえ殿下が相手でも……いえ、殿下が相手だからこそ、自分の意見はしっかり伝えるはずです。 …杞憂ですよ、兄上…」
「………だと、良いんだがな…。…」
向けられる目と目を合わせないまま、長兄は窓の外へと視線を移す。
木々に翳る太陽が、この日最後の煌きを放っていた。