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「…そう言えば、今夜は城で王太子殿下主催の夜会が開かれるが……やっぱり、父上は領地から出てこないのか?」
ミルクをふんだんに使って作られた ほんのりと甘いお茶請けのクッキーをつまみながらの兄の言葉に、リーゼロッテは窓の外に投げていた視線を戻して頷いた。
「例年通り、“愛想を振りまかれ顔色やお伺いを立てられるだけの社交場のために、何ヶ月も大事な領地を蔑ろになど出来ない”と仰せでしたわ」
「代理人に任せればいいだけの話だろうに…。確かに国王陛下より賜った重要な土地ではあるが、特に今は隣国との関係も悪くないし、何も付きっきりでいなくとも…」
「正義感が強いのは、父様の良いところでございますから」
「…声に感情が乗ってないぞ、リズ」
「あら、まぁ…」とワザとらしく おどけるリーゼロッテに、アイゼルンは小さく笑った。
同じデザインのカップに口を付ける長兄の今更な確認に疑問を覚えたリーゼロッテは、わずかに首を傾げ、兄の真意を問う。
「…けれど、お兄様? 何故、今更そんな分かりきったことを?」
今は首の後ろで軽く纏められ、右肩にゆるく流されているだけの艶やかな巻き毛をわずかに揺らし、大きな瞳に窺われるように見つめながらの質問に…アイゼルンは思わず、口を付けたままのカップで口元を隠しながら 笑みを苦笑に変えた。
…リーゼロッテに、そんな意思 (・・・・・)などあるはずもない。
完全に無意識の行動であり、アイゼルンにしてもリーゼロッテは“可愛い妹”でしかなく、彼女に対しどうこうする気など微塵も起こらないのだが……こうも無防備なのは如何なものかと、アイゼルンは兄として本気で心配せざるを得ない。
父も母も自分も弟も それなりに整っている容姿だとは思うが、リーゼロッテは格別であり、彼女の纏っている雰囲気には少々思うところが無いわけではない。
本当に誰に似たのか、妹には“男”を惑わす天性の才能でもあるのかと内心頭を抱えながら、アイゼルンは気を取り直し、カップを下げてリーゼロッテの質問に答えた。
「…ああ、実はな。今日の夜会は、若様の3歳のお披露目が主目的なんだ。常ならば、別にユイやリズに任せていても構わないんだが……今回はさすがに出て来いって、私は半年前から散々言ってなかったか…?」
思い出してイライラしてきたのだろうアイゼルンは、長年大切に使い込まれ、今朝も丁寧に磨きこまれて綺麗な飴色に輝くフローリングの一点を見るともなしに見つめて柳眉を顰めた。
23歳の王太子には、3歳になる王子と1歳になったばかりの王女がいる。
そしてこの国の習慣により、特別な理由がない限り王子は3歳と5歳、王女は5歳と7歳の年に、式典とは別に夜会にて社交界へお披露目がなされることになっているのである。
しかしこれには落とし穴があって、それぞれの年の夜会にお披露目されることは知らされてはいるが、それがいつ・どの夜会で行われるのかは、王族に近しい者以外には一切知らされずに突然執り行われる、貴族にしてみれば家の威信と沽券に関わる非常に性質の悪い“サプライズ”なのだ。
無事立ち会えれば安泰。さらに、王族へは忠心を、貴族たちへは、自分たちが王族の情報に敏く人脈も広いという事をアピール出来る。
逆に、その場に立ち会えないと言う事は王族への関心の薄さを示すことになり、結果的に、大した伝手も力も持っていないと大々的にアピールしてしまうことになるのである。
そう言ったわけもあり兄の焦燥と苛立ちももっともなのだが…、リーゼロッテは特に慌てた風もなく、ゆったりと花茶を一口。
「…まぁ…。…それは、困りましたわねぇ…」
「…全く困ってるようには聞こえないがなぁ…。…」
「リズお前、演技力落ちたか?」なんて軽口をたたく兄に「余計なお世話です」と返せば、少し力無く笑われる。
手慰みにクルクルとティースプーンで残り少ない紅茶をかき混ぜ始めた長兄を一つの溜め息とともに見つめていたリーゼロッテは、やはりそれほど困るような事になるとはどうしても思えず、少しの困惑を言葉に含ませた。
「…父様や母様が出席されないだけで、我が家への信用がそこまで揺らぎましょうか…? …そもそも、父様はある程度自由を許されるほどの陛下の腹心の忠臣ですし、アイゼルンお兄様は次期宰相として陛下や殿下方からのご信頼厚く、ユイシュエルお兄様も、王太子殿下とは王立学院でご入学からご卒業まで5年もの間ずっと同じ教室で学ばれた御学友。現在でも関係は大変に良好とお聞きしておりますし、…お兄様方が出席されるだけで充分なのでは…?」
「…貴族社会は情報と信頼が命なのは知っているだろう? そして、見えないところでは常に蹴落とす機会を窺っている。どんなに小さく、取るに足りないような事でも、何の意図も無く対策も取らずに隙を見せれば忽ち手遅れになってしまう事も貴族社会では決して珍しくはない。…取れる手はあるのに、立たせなくてもいい煙を自ら上げてやる必要はないだろうよ。 ……それを…、……全く、我が父ながら本当にどうしようもないな…」
はぁ…と、なかなかに重たい溜め息をついたアイゼルンに、リーゼロッテは静かに、花茶のおかわりを手ずから準備してあげたのだった。