依頼1、笑顔の地縛霊
「さっきの女の子、幽霊よ。もう随分前に死んでるわ」
「え……?」
突然、告げられた馬鹿みたいな話をしかし、俺は馬鹿な話だと笑い飛ばすことはできなかった。
代わりに、俺の口からは声にならないような振動がわずかに漏れた。
「幽……霊……?」
「そう、幽霊」
黒髪の少女はスッと一歩近寄って
「続きは、歩きながら話しましょう?」
と、俺の耳元で囁いた。
舗装もされていない田舎道を、俺は黒髪の少女と歩いていた。彼女は少し前を歩いている。
陽はすっかり傾いて、春の雑草の若葉と土の地面を赤く染めていた。春先の夕暮れはすこし肌寒くて、話をしている少し前の彼女の声も心なしか淡泊なものに聞こえた。
「つまり、俺は霊能力者で、さっきの女の子は霊。そして、あんたも霊能力者だと」
「そうよ」
振り返らずに彼女は答えた。彼女の長い黒髪が、風になびく。
「人間は精神を手に入れた。そして、肉体はその器になった。幽霊とは人間の精神の残り火よ」
「燃えカスってことか?」
「身も蓋もない言い方をすればそうよ。肉体と精神は深く結びついていて、普通は肉体の消滅と共に精神も滅びてしまうの。でも精神の力が大きかったり、なにか後悔や未練があったりすると、精神だけ残ってしまう。それが幽霊の正体」
そこで、彼女はクルリと体をこちらに向けてきた。
「ちなみに、精神の力が大きい人間っていうのは私やあなたのことよ。私たちくらいの霊能力者はそうそういないけどね」
「……そんなにすごいのか?」
「ええ。滅多にいないのよ? 霊に触れる人間は」
「……」
到底、信じられない話だった。
しかし、正月でもないのに着物姿で泣いていたあの女の子はどう考えても異常だし、見えていないなら通行人たちの態度にも説明がつく。通行人たちは無視していたのではなく、見えていなかったのだ。そうだとしたら辻褄が合う、合ってしまう。
「それで、あんたが俺に声かけた本当の目的はなんだ?」
「あら、面白そうだったからって言ったじゃない」
「それだけじゃないだろ?」
これは完全に俺の勘だが、目の前の少女は面白そうなんて理由で人に接触するような人間には見えなかった。なにか他に目的がある。そう思えてならなかったのだ。
数秒の沈黙が流れる。身や心が痛くなるようなものではなく、単純に会話の間だ。
ふわっとした春風に頬を撫でられ、彼女は口を開いた。
「ええ、そうよ。それだけじゃない。私は捜していたの、あなたみたいな人をね」
「どうして?」
「私の助手をしてもらうためよ」
「助手?」
首を傾げた俺は相当マヌケ面だったのか、彼女はクスリと可笑しそうに笑った。
「そう助手よ、除霊のね」
「はあ、除霊!?」
またとんでもないこと言い出しやがって……という思いを込めて俺は少女を睨み付けてやった。
ただ、非現実的な話に長時間付き合わされていたおかげで肩がさがり、落ち込んでいるような姿勢になっていた俺の眼光は、元々の緩さも相まって全然鋭くなかったようだ。
彼女はまたしても、クスリと可笑しそうに笑うだけだった。
「この町はね、霊気が濃いの。だから霊が生まれやすいし、寄ってきやすい、幽霊の多い土地なのよ。放っておけば生きている人間にも被害が出てしまう。それで、私は物心ついた時から一人で除霊をしているの。あなたには、それを手伝ってほしいのよ」
「……もしかして、一人で寂しいのか?」
スッ――と彼女の頬にかすかな赤みが差したのを俺は見逃さなかった。
「人手が足りないの。それだけよ」
ふい、とそっぽを向くその仕草に、今まで少女に感じていた妖しさや気味の悪さや大人っぽさではなく、年相応の女の子らしさを垣間見て。
俺は思わず吹き出してしまった。
それを見た彼女は、さらに感情をあらわにして詰め寄ってきた。
「本当に、人手が足りないの! 最近、幽霊の数も増えてきて、霊気の濃度も上がってるの。だから、霊能力者を捜していた。本当よ!」
「わ、わかった。わかったから。その、ち、近いって……!」
目の前、僅か数センチに少女の端正な顔が近づいてきて、俺はドギマギして咄嗟に後ろに飛びのいた。
しかし、それがいけなかった。
羞恥に頬染めていた彼女の顔に、妖しい笑みが戻る。あれは、新しい玩具を見つけた小悪魔の目だ。
「ふふ、あなたって、意外と純情なのね……」
マズイ……。そう思った時にはもう遅かった。
少女の柔らかい手が、そっと俺の頬に触れる。それだけで、心臓は情けないくらい鼓動を速めた。ごくりと喉が鳴る。同年代の綺麗な女の子の顔が目と鼻の先にある。
形勢逆転。俺は完全に彼女の掌の上だった。
「……」
しかし、追撃はいつまでたってもこなかった。間近に迫った彼女の顔も俺の頬に触れている手も、それきり動かない。……どうやら彼女にもそういった経験はなかったらしい、次に何をすればいいのか思いつかないようだ。
ちょっと困ったような顔をして、それからちょっと悔しそうな顔になって、結局俺の頬から手を放した。コホンと咳払いを一つして何事もなかったかのように話しだす。
「それで、助手の件。引き受けてもらえるかしら?」
「お断りします」
「……理由は?」
「まだ、あんたとあんたの話を信用できない」
正直、幽霊云々の話はほとんど信じていた。今までもよく考えればおかしなことはあったし、なにより目の前の少女が嘘を言っているようには見えなかったからだ。
ただ、それと徐霊の助手は話が別だ。視えるからといって幽霊云々に積極的に関わりたいとは思えなかった。
俺の返答を聞いた彼女は、少し目を伏せた。
「そう……残念だわ」
ポンと俺から取り上げた地図を投げ返す。急に投げられたもんだから、危うく落とすところだった。
なんとか、キャッチに成功する。
「あっぶねー。急に投げんなよ」
彼女の顔には、もうあの妖しい笑みが戻っていた。
「でも、覚えておいてあなたほどの霊力があれば、この町で霊と関わらずに生きるのは不可能よ。私の助手になる件、また誘うから考えておいてね」
「お、おう、わかった」
「ふふ……また、会いましょう」
ふわり、長い髪をなびかせて。
彼女はわずかに残っていた夕陽と共に、闇のなかに消えていった。
「……」
俺はしばらく少女の去って行った先を眺めて放心していたが、急に周囲が明るくなったのを合図に我にかえった。どうやら右斜め前の民家に明かりが灯ったらしい。完全に陽が落ちて、空は真っ暗だった。
「マズイ! 案内は……って、もういないよな」
あまり遅くなってはお世話になる親戚の家の方々に迷惑だろう。急がなくては……。
慌てて地図を開くと、はらりとメモ用紙が一枚落ちた。
『右を見なさい』
メモ用紙には、流麗な字でそう記されていた。
言われた通りに右を見てみると、『東雲』と書かれた表札があった。お世話になる親戚の家の苗字だ。見上げると、こじんまりした二階建ての木造住宅が堂々と居座っている。
「まわりくどいことを……」
俺は精神的な疲れを感じて、肩を落とす。ポンプみたいに口から空気が漏れた。
脳裏に、悪戯顔でメモ用紙に文字を書く少女の姿が浮かぶ。
「そういや、名前……訊きそびれた」
同じ学校だし、明日捜してみるか。
唖然としていた。
俺は生まれてこのかた16年になるが、ここまで唖然としたことはない。さっきの少女との会話を除けばだが。
俺は今、居間にいる。シャレではない。お世話になる親戚の家の居間にいるのだ。ただ、居間には……いやこの家には、俺しかいない。そして、居間の中央のちゃぶ台には置手紙が一枚。
『新太君へ、おじさんはサンパウロに行ってきます。家は自由に使ってください。 ――東雲誠治』
置手紙には、そう書かれていた。
想像して見てほしい。
今日からお世話になるはずだった親戚の家のチャイムを何回鳴らしても誰も出てこず、何回ノックをしても物音ひとつせず、鍵がかかっていないことに気づいて恐る恐る家のなかに入ってみれば、親戚のおじさんは地球の反対側。
こんな意味不明な状況を目の当たりにして、思考が停止しない人間がいるだろうか。
パサ――
呆然とする俺の足元に、二つ折りにした地図の間に挟んでおいた、少女のメモが落ちた。
さっきは見なかったメモの裏面に文字を見つけ、それを拾い上げる。
『言い忘れましたが、東雲さんはこの町では有名な旅行好きです。多分あなたはこれから実質一人暮らしでしょうね。頑張ってください。』
嘘だろ……。
俺は左手で顔を覆って、天井を仰いだ。そうか、だからあの女、東雲って言っただけでろくに地図も見ずに案内できたのか。
「もういいや……ラッキーと思っとこう。ポジティブシンキング、ポジティブシンキング」
こうして家事スキルゼロの俺は、悪夢の一人暮らしを手に入れた。
母さんの手伝い、もっとしとけば良かったなあ……。
16歳の高校生には広すぎる新居で、俺は自分の親不孝を呪った。
俺は深呼吸を繰り返していた。
今、教室では担任の藤林先生が教壇に立って、今日は皆に新しい仲間を紹介しまーす。とかやっている最中である。つまり、これから転校生の登場というわけだ。クラスはなかなか盛り上がっている。
問題は、その転校生が自分だということだが。
「意外と緊張するもんなんだな」
軽口をたたいたつもりだったが、声はわずかに震えていて逆に恥ずかしくなってしまった。
俺は壁にもたれて、教室のドアの上にあるプレートを見た。そこには『2ーB』とある。今日から自分のクラスになる教室の番号だ。
市立御門南高等学校というのが今日から俺が通うこの学校の名前だった。駅の近くにあるせいか、校舎は結構綺麗だが、校舎は小さい。全校生徒は約350人、クラスは学年に3つずつで生徒数も少なめだ。ちなみに『南』なんてついてるが、御門北高校なんてのはない。
「そう言えば、あの女の子……この高校だったな」
まさか、同じクラスだったなんてオチはないよな?
そう思いつつも、9分の1の確率だしありえなくも無いなどと考えてしまった。馬鹿だな俺。パーセント表記なら約11%だぞ? ありえないだろ。
「おーい、高斗ー! 入っていいぞー」
不意に藤林先生の声が耳に入って、俺は思考をストップさせた。
妙にNの発音にこだわる英語教師の音読くらいどうでもいい思案だったが、おかげで緊張は幾分かやわらいでいた。
ガララとドアを開ける。未知の人間たちが一斉に俺を見た。
そこかしこから、なかなかイケてない? とか、ええー地味じゃない? とか、運動できそうじゃんうちの部入ってくれーじゃないと潰れる。とか、ひそひそ話が聞こえた。うん、とりあえず君の部は救ってあげられそうにないな、ごめん。
しかし、滅多なことはあるもので。他人だらけの教室のなか、ある一人とばっちり目があった。
「あ……」
固まった。そいつは見事に固まった。
あ、あ、あ、と「あ」しか言えなくなってしまっている。ちょっと面白い。
そしてあろうことか教室の一番前の席で、そいつはいきなり立ち上がった。
「新太っ!?」
突然の大声に、教室が一気に静まり返る。
「……おう。久しぶり、歩」
俺は5年ぶりに再会した親友に、軽く手をあげ再会の挨拶をしたのだった。