第八話 永遠に終わりを告げる
友人、佑香から海外住在の話を受けたあの日から既に5日が経とうとしていた。
もらった1週間の期間も迫ってきている。早々に決断しなければいけないのだが、私の心はまだ少し迷いを残していた。
先程彼女からの連絡があって、内容は言うまでもないだろう。
ふと時計に目を遣ってからスマホを握りしめ、「よし」と一人で頷くとある番号へ電話をかけた。
3回程呼び出し音が鳴り、「もしもし」と聞きなれた友人、美智子の声にホッと胸を撫で下ろした。
「夜遅くにごめんなさい、少し話があるの」
時計の針は既に夜の11時を指していた。
「めずらしいじゃない、明梨から私に話なんて」
「貴方にしかお願いできないの、このとおりよ」
「…わかったわ、あんたの頼みともなれば断れないわね」
「ありがとう、今からお邪魔しても大丈夫かしら?長くは居座らないわ」
「いいよ、お茶淹れて待ってる」
「ありがとう」
彼女の返事は聞かずに通話を切断した。
ソファにかけてあるロングコートを掴むと、廊下を歩きながら羽織った。
外に出て少し歩き、大通りまで行ったところで丁度通りかかったタクシーを捕まえ、乗り込んだ。
行先を運転手に伝え、夜の外を歩いて少し冷えた手を組んで口元へ寄せ、ハーと小さく息を吐くと、冷たい手に温かい息が凍みた。
彼女の家の前に着き、料金を払ってタクシーから降りると電話してから丁度20分経っていた。
インターホンを押すと中から小走りでこちらへ向かってくる足音が聞こえる。
ガチャリと新築で小気味の好い音を立てて大きな扉が開いた。
「いらっしゃい、早かったわね」
「丁度タクシーを捕まえたのよ」
靴を脱ぎながらそう答える。
リビングへ案内されると、大きなソファと食卓テーブルが目に入った。
遊びに来るといつも居る筈の姿が見当たらず、少し視線を泳がせていると美智子がそれに気付き「旦那なら出張中よ」と言われ、あぁそうかと納得した。
私と同じ歳なのに、去年結婚して幸せな家庭を築いている美智子が少し羨ましく思う。
「それで、話って?」
「えぇ、実は私、海外へ移住しようかと思っているの」
「海外?それまた突然ね…」
「友人からの誘いを受けて、本当突然だったのよ」
「へぇ…、え?ということは」
彼女が何を言おうとしたのか一瞬分からず、頭に「?」を浮かべていると、
「例の彼よ!どうするの?」
「え、あぁ…」そこかよ、と突っ込みを入れたくなったが、あえてそこは黙っておくことにした。
「愛しの彼はどうするのよ?」
「やめてよ、別に付き合ってる訳じゃないんだから」
「へ?そうなの?てっきりお付き合いしているのかと…」
「違うわ、好きなのは私だけ」
「それって…」
「そう、所謂片思いってヤツよ」
「へぇ、明梨が片思いなんて…へぇ~」と最後に茶化すように語尾を伸ばしてきたのに少し腹が立ったが、別に今日は喧嘩をしに来た訳ではないのだ。
少し間を置いてから、
「そのことで、貴方に頼みがあるの」
「まさか監視しろとか言わないよね?」
「違うわよ」はぁ、と思わずため息を漏らしてしまったが、彼女は知ってか知らずかお構いなしだ。
「…彼には黙って発とうと思うの」
「は?何でよ」
「お別れするのに彼の顔を見たら、固めた決心も揺らぐような気がしてね」
「明梨らしくないわね。それで?私にどうしろと?」
「うん、私が発った後に、彼にもし私の事を聞かれた時は「私は外国へ行った、もうこっちへ戻るつもりはない。短い間だったけれど、ありがとう」と伝えてほしいの」
「嫌ね…そんなの自分で伝えるえきでしょうに、行先は?」
「イギリスよ、でも彼には言わないでね」
「全く…。明梨ってのは本当、肝心な時にそうなんだから」
「ごめんなさい、でもこんな事を頼めるのは貴方しかいないの」
「はぁ。…わかったわ。伝えておく」
「本当?有難う」
「あんたの最後の頼みになるのかもしれないからね、特別よ」
「貴方にはいつも感謝してばかりね」
「いいってこと、でも、発つ時に私には連絡よこしなさいよ?」
「勿論よ」
こんな素敵な友達に巡り合えた私はきっと幸せ者だ。
しかし、人間というのは欲が出るもので、健康に生まれて幸せな環境に育ち、素敵な家族と友人に囲まれて何不自由なく生活しているというのに「彼を手に入れたい」なんて、贅沢すぎる願いを持つ私は欲深い人間だろうか。
そして彼の人生を勝手に乱しておいて、黙って去ろうなんていう愚かな私をどうか許して、と願うしかなかった。
もらった一週間の最終日となった。
空港へ行く準備を整え、事情があり家を空けている家族にも連絡を入れてから家を出た。しっかりと戸締りをし、忘れ物が無いか確認してからゆっくりと歩き出した。
特にこれと言った趣味も無く、もともと殺風景な私の部屋からはほとんど荷物が無く、手荷物は最低限の生活に必要な物を詰め、大きめのキャリーバッグ一つにまとまった。
肩掛けの小さいバッグを肩に掛け、コロコロとキャリーを引きずりながら我が家を後にした。
待ち合わせの空港に着き、佑香に連絡を入れると、まだこちらに向かっている最中だそうだ。もうすぐ着くとのことなので、売店に行って朝食代わりのサンドウィッチとカフェオレを購入し、空いている席に座ろうと周囲をきょろきょろしていると、ふと見慣れた姿が目に留まった。
今一番会いたくなかったその人の姿を、遠くに見つけてしまった。
視線をそらすことが出来ず、その横顔をじっと見つめてしまう。
「恭介」と声が出そうになるのを堪え、彼を見つめた。
不幸か幸いか彼はこちらに気付く様子は無く、安堵したが、同時に少し残念だという気持ちも襲ってくる。
数人の男性と並んで歩く姿が、たまらなく愛しくなった。
何故彼が運悪くもここにいるのか、神様はとことん意地悪だと視線を下に遣りながら悪態をつく。
彼の背中を見ながら思い浮かんでくるのは、心の底から楽しそうに笑う彼の姿、少し意地悪に微笑む顔、拗ねたような口調で私を見つめる表情、私の頭をそっと撫でた大きな手、ときどき見せる少し幼稚な態度。色々なものが同時に浮かび上がり、涙さえも滲んできた。ここで泣くのは情けなく思い、下唇をぎゅっと噛みしめて涙を堪えた。
胸にこみ上げてくるのは、謝罪の言葉。貴方の中の大事な人を記憶から消そうとした事、彼の心を自分の愚かな意思で左右してしまった事、何よりも勝手に幕を上げ、勝手に幕を下ろす身勝手な自分を。
どうか許してほしいと、言葉には出せない思いを胸に留めた。
俯いている顔を上げようとした瞬間に後ろから大きな声で「明梨ー!!」と叫びながら走ってくる彼女の姿を、少し憎らしく思ってしまった。
ふと彼の方を振り返ると、小さく目線を動かして周囲をきょろきょろと見つめていた。
ハッとして荷物を乱雑に掴み、佑香のいる人ごみの中へと駆け出した。
「恭介、どうかしたか?」
「いや、今一瞬知り合いの名前が聞こえたような気がして…」
「よくあることだろ、気にすることじゃあない」
「…そうだよな、悪い。手洗いに行ってくるよ」
「おう」
それでもまだ少し周囲を見渡しながら、やはり気のせいかと正面に視線を戻し、今度こそ目的地へと向かって歩き出した。
佑香を少し怒鳴りつけたい気持ちになったが、佑香はこっちの事情なんか知ったこっちゃ無いので、流石にそれは可哀想だろうと思って言葉を飲み込んだ。
「待たせて悪いね」
「気にしないで」
そういって彼女の重たそうな荷物の一部を持つと、立ち上がり「行こう、飛行機送れちゃう」と少し微笑みながら言った。
数歩歩いてから、ゆっくりと後ろを振り返ると、正反対の方向へ歩いて行く彼の背中が目に留まった。ここまで固めてきた決心だというのに、後ろ髪を引かれるような思いでその背中を見えなくなるまで見つめた。
すごく会いたくて、なのに一番会いたくなかった人。そして心から愛した人の背中へ囁くように「元気でね」と小さく呟いてから、進行方向へ視線を戻した。
やがて私たちは人ごみの波に飲まれ、この場所から姿を消した。