第七話 自分の手で
あの日突然私に起こった出来事から既に1年は経ったであろうか。
私の元へ届いたそれを半信半疑で彼のグラスへ忍ばせたのは今日で何度目だろう。
確かに嘘では無かった。とても信じ難い話を少しだけ信じてみようと思ったのは私の心の弱さを物語るには十分な事だった。
叶わない恋に静かに打ち拉がれる彼の姿を想像するのは容易で、彼を思う度に胸が刺されるように痛み、意識の外へやれるでもないそれはあまりにも哀れで。
というのは他人が聞いたって都合の良い私の言い訳にしか聞こえないことぐらいは百も承知だ。
あの日私の元へ届いたのは俄かにも信じ難いもので、無論私とて例外でない。
「最も愛した者の記憶のみを綺麗さっぱりと分け隔てたかのように忘れさせてしまう」という恐ろしいそれを私は手にかけてしまった。
冗談にも笑えない話であり、人生最大の過ちになってしまった。
散々悩んだ戦いの挙句に、勝ったのは自制心では無く私の心に潜む醜い欲望だった。
初めて使ったのは、あの夜から2ヶ月程経った日の事で、彼が私の家へ旅行先のお土産を届けに来てくれた日の事であった。
玄関先で立ち話もなんですからとリビングへ通し、コーヒーでいいかと確認を取ってから彼に出したカップの中にそれは静かに佇んでいた。
自分が出したコーヒーカップをちらりと一瞥してから、それを口へ運んだ彼を暫し観察してみるも、主立った変化は見られず。
有り得無いことを少しでも鵜呑みにした自分が馬鹿馬鹿しくて情けないと自嘲したものの、それからしばらく経ち、お誘いあって彼と例の喫茶店でお茶をしていた時に、彼の様子が以前と違う事に気が付いた。
以前のように感傷に浸る様子も憂鬱そうな表情も見られなくなった。
一瞬不思議に思ったものの、少し前に大きな心当たりがあるのを思い出し、驚きとショックのあまり言葉も出なかった。
人様の人生を身勝手に変えてしまった罪悪感と自分の欲望が満たされつつある安堵の繰り返しの日々だった。
しかし、そんな非現実的な事が長く続く訳も無く、おそらく知り合いか誰かから耳にしたであろう忘れていたその名を思い出し、また以前の彼の表情に逆戻りしてしまった。
そうして私は差し入れと称して彼に渡す先程自販機で買ったばかりの温かいコーヒーが入った紙コップへ液体を滴らせた。
それを幾度となく繰り返し、いけない事だと分かっていながらも、「今更止められるか」と続けてきた行為に私もそろそろ限界を感じ始めた。
何度繰り返そうと選ぶのはいつも決まって彼女であり、私を選んでくれることは一度たりとも無かった。
それを堂々とこれでもかという程見せつけられれば、たとえこの世から彼女が消えたとて私など絶対に選ばないと言われているような気がした。
さてどうしたものかと悩んでいる私の元へ一本の電話が入った。
鞄の中で振動しているそれを手にとり、耳へ押し当てた。
「もしもし」
「もしもし明梨?私よ、佑香」
「佑香…?久しぶりじゃない」
「久しぶり!元気してた?」
「えぇ、お陰様で。そちらは?」
「元気が有り余ってるよ。それより、今から少し時間ある?」
そう聞かれて腕にはめている時計に目をやると、まだ1時を指していた。
「随分突然ね。大丈夫だけど、どうかしたの?」
「少し相談があってね、いいかな」
「勿論、構わないわよ」
「良かった有難う。それじゃあ30分後に駅前の喫茶店でどう?」
「わかったわ、それじゃあ」
相手の「また後で」という返事を聞いてから通話を切った。
休日でお昼までゆっくり寝ていたため、まだパジャマ姿だ。
クローゼットを開けて適当に明るい色のワンピースを掴み、エイヤッとベッドへ投げた。
「ごめん!遅れた」
と、息を切らせながら走ってくる懐かしい友人の姿を見て、相変わらずなのを確認すると少し安堵した。
「久しぶりね」
「わざわざごめんね」
「いいのよ、気にしないで」
「ありがとう。急ぎで悪いんだけど本題に入るね」
彼女は椅子に腰を下しながら話を切り出した。
「…え?」
「突然だしこんな話持ちかけるのもどうかと思ったけど…、明梨にしか頼めないの。駄目?」
「そんな事いきなり言われても…」
「そうだよね…、喫茶店でするような話じゃないよね。でもこの機会を逃したらもう二度とこんなチャンスは無いよ」
「私にとっても有り難い話だけれど…」
「流石に今すぐとは言えないよ、一週間なら待てるからその間に返事を聞かせてほしいの」
少し悩んでから、
「考えて…みるわ…」と答えた。否、そう答える事しかできなかった。
この後急ぎの用事があるらしい彼女と喫茶店で別れ、休日とあり沢山の人ごみの中をかき分けるようにして私は歩いていた。
彼女から持ちかけられた話は耳を疑うような内容で、彼女がここ数年滞在していたイギリスに住んでいる彼女の友人が美術関係の仕事を行っていて、私の写真を見たその友人が私をかなり気に入って是非絵のモデルにしたいとの事だった。
その絵が出来上がるにはかなりの時間を要するようで、この際「私と一緒に海外で暮らさないか」というぶっ飛んだ話であった。
いきなり日本に戻ってきて、久々に顔を合わせた友人にするような話では無いだろう。
勿論そんな話を二つ返事で返せる訳も無く、彼女から一週間の猶予を与えられた。彼女の友人とてお仕事な訳でありあまり長くは待てないという。
暑苦しい人ごみの中を進んでいると、私の鞄が小さく振動した。
振動の源である白いスマホを鞄の中から取り出し画面を確認すると、恭介からであった。少々複雑な気持ちになりながらもそれを耳に押し当てる。
「もしもし」
「俺だ、今お前の家の近くまで来てるんだが今家にいるか?」
「いいえ、少し外出してたのよ。どうかした?」
「いや、近くにいるならお茶でもと思ったんだが…遠いのか?」
「病院の最寄の駅の近くよ、急いで帰るわ」
「いや、俺が迎えに行くよ。5分で行くからそこにいて」
「ごめんなさい」
佑香といい恭介といい、今日は唐突なお誘いが多いなと軽く息を吐いた。
それから5分後ぴったりに見慣れた彼の車が私の前に止まった。
助手席のウィンドウが下がり、「乗って」と微笑みながら言われた。
扉を開けて、少し身を屈めて車に乗り込んだ。
「急に誘って悪かったな」
「構わないわよ」
さっきも友人からの唐突な誘いでここまで来たんだから、という小言は飲み込み彼を見ると心なしか少し嬉しそうだった。
「どうかしたの?」
と聞くと、フッと小さく笑みを浮かべ、
「後で話すよ」
と、口端を僅かに釣り上げながら言った。
何がそんなに楽しいのか訳の分からない私は小首を傾げた。
いつも彼と行く喫茶店の小さめの駐車場に彼が車を止めたので、シートベルトを外して車から降りた。
彼もそれに続き、バタンとドアを閉めてロックすると店に向かって歩きだしたので、今度は私がそれに続いた。
景色の映える、とは言ってもまだ昼間だが窓際の二人席に腰を下ろした。
適当に飲み物をオーダーすると、恭介が少し楽しそうに浮かれている理由を話し始めた。
「実は今日、長らく病気を患って入院していた患者が退院したんだ」
「へぇ、それはおめでたい事ね」
「まだ6歳の男の子なんだが、入院してきた頃は治る見込みが薄くて本当奇跡みたいだろ?」
「本当にそんな事ってあるのね」
「俺自身もあまり期待はしていなかったからな。嬉しい限りだ」
「6歳にして重い病なんて…可哀想に」
「あぁ、学校もずっと行けなかったから、友達が出来るか心配だな」
「まるで我が子のように嬉しそうに話すのね」
「こう見えても子供は好きなんだよ」
「あら意外」
「意外」という言葉に少しムッとしたのか、普段の仕事ぶりからは見られない拗ねるような口調で「なんだよ」と呟く彼が愛しくてたまらない。
あぁ、早く忘れて私のものになってくれればいいのに、なんて言葉にこそ出せないけれど。
彼の存在が私の中で大きく膨らみ、隅へ追いやることのできない思いを抱えたまま終われるのかと、自分に問いかけてみる。
しかし、ここで誘いを断ればまた私は終わりの見えない輪廻の中に引きこもってしまうだろう。
幕を上げたのは私に他ならないのだから、幕を下ろすのもまた私しか居ないのだ。
彼女の言うとおりこの機会を逃すのは私の結末を語ることになる。
1週間というこれからの人生の中ではあまりにも短い時間をどう生かすか、彼に別れを告げる決心がつくのかすらも分からないが、今踏み出さなければそれこそもう私に手を差し伸べてくれる人もここ抜け出す機会も、歩むべき道をもう一度辿るすら出来ないだろうと。
この先どう転がるのか分からない運命でも、これだけははっきりとしていた。
そろそろ後半にさしかかりました。
もう1話か2話くらいで終わるかもしれませんが、引き続きお楽しみいただければと思います。