第六話 切欠はどこにでも
それを切欠に何度か一緒に出掛けるようになり、
どちらが恋人宣言したわけでもないが、一緒にいる彼の気持ちも私と同じものだと思っていた。
しかしあの日”室井”という男性と会ったときに、それは私の自惚れでしかなかった事に気付かされた。出来るならば一生知らないままで良かったのだが。
彼女では無く、私を選んでくれたのなら一生をかけて貴方を愛すのに。
あれから彼の顔を見るのが怖くなり、暫く連絡を取っていなかった。
向こうからの連絡も以前より単調になったのを見ると、やはり私の自惚れであったことを改めて思い知らされる。
ため息を漏らすことしかできない私は目の前にある鏡を一瞥してから顔を洗う。
どうも朝は苦手である。寒い朝は布団から出たくないし、家から出るなんて言語道断。しかし社会人ともなればそうも言っていられないのが憎たらしい。
着ていたパジャマをエイヤッと脱ぎ、無地のYシャツにジーパンというラフな格好に着替える。軽くお化粧をして、玄関で全身鏡を覘いてふと髪の毛がかなり伸びていることに気付いた。帰りに美容室でも寄って整えなければ、パーマも取れかかりの伸ばしっ放し髪の毛で人に会うのは少し気が引けた。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く挨拶を交わし、店の準備を手伝う。
地下鉄駅に面しているこの店は、早朝でもそれなりの賑わいを見せる。
入り口のガラス扉にかかっている「closed」の札をひっくり返して「open」にする。それから5分もしないうちにサラリーマン風の男性が店内へと入ってくるのを見て、レジカウンターへ向かった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか」
お決まりの言葉に営業スマイルを乗せて応える。
「コーヒーとカフェオレ、ミルクと砂糖もお願いね」
「かしこまりました、お会計840円になります。出来次第お席までお持ちいたします」
お会計を済まして注文されたものが出来上がるのを待つ。
それから少しして先程の客の連れ人であろう若い女性が店に入ってきた。
歳はまだ20代後半というところだろうか。
出来上がったコーヒーとカフェオレに砂糖とミルクを添えてテーブルまで運ぶ。
しかしそこで女性の方が少し声を大きくして「あの人はもう関係ないって言ってるでしょう!もう連絡すら取ってないわ。言いがかりはやめて」とだけ相手に告げると席を立って店から出ていってしまった。男性の方は申し訳なさそうに私を一瞥すると、女性の後を追うようにして店から出て行った。
残ったのは私の手元にあるコーヒーとカフェオレである。さて、どうしたものか。おそらくカップルのちょっとした痴話喧嘩であろう。最近は店内で声を荒げて喧嘩を始めるカップルが増えてきているような気がする。もう少しマナーとかそういったものを気にかけてほしいが、客に面と向かって言えるでもない言葉を飲み込み、変わりに短いため息を吐いた。来た道を辿り、店の奥へとひっこみ淹れたてのそれを片付ける作業へ取りかかった。
仕事を早めに終え、それでも上がる時間にはもう外は少し暗くになっている。
これから出かけるのは少々面倒だが、いつどこで誰と会ってもいいようにと美容室へ足を運ぶ。
いつものようにゆるいパーマをかけてもらい、腰の少し上辺りまで伸びていた髪を肩下ほどまで切ってもらった。切られて地面に落ちる自分の髪の毛を見て、もう少し早く来るべきだったなと視線を手元へ戻した。
美容室を出て時計に視線をやると、それなりの時間になっていたので、寄り道をせずに帰宅することにした。
自宅に着き、鍵を開けようと鞄のポッケに手を入れたところで、
玄関の隅に見覚えのない箱が置かれていることに気付いた。
さて、近頃ネットショッピングをした覚えは無いのだが。
しかしここに置いてあるからには私宛てなのであろうそれをしゃがんで手にとってみるも、送り主差出人共に不明である。しかし「白石様」と書いてあるのを見て私宛てなんだと改めて認識した。
最近はこういう事件も増えていることから少し疑い眉を顰める。
乗せてあるだけの蓋をおそるおそる開けてみると、中には一通の手紙と小さな箱のみ入っているのを見て、どうやら爆弾とかそういう類のものでは無いことを確認すると、それを持ち上げ一旦家の中へと引っ込んだ。
靴を少々乱雑に脱ぎ捨てるとリビングへと小走りで向かった。
食卓テーブルの上に箱を下し、鞄を地面へ落とすと中に入っている紙を手に取り広げてみた。
「必要としている人の元へ、力になりますようと願いを込めてこれを貴方に送ります」
と良く分からない走り書きの字から視線を落とし、添えてある小さな箱へ目をやる。よくブランド物の腕時計等が入れられるような小さい箱がパカッと気味の良い音を立てて開いた。
中に入っていたのは自分の予想と反し、手の親指サイズの小さな瓶一本だった。
よく見てみると、中には僅かに液体が揺らいでいた。
益々わけが分からなくなり、もう一度手紙を読み直してみるも状況は何も変わらなかった。
悪質な悪戯であろうかとも考えたが、いたずらにしては意味不明すぎる。
よく見てみると、瓶が入っていた箱の底に和紙のような紙切れに筆で書いたような字が綴られていた。
それを50回程読み返してから、キッチンへ向かい冷蔵庫の扉を開けて緑茶を取り出す。ガラスのコップにそれを半分程注ぎ飲み干した。
しばらく他の何も考えることができなかった私は、リビングのソファに座りあれから2時間程経っていることを時計を見て気付いた。
私は小さな瓶を握りしめたまま、その場を動くことができなかった。