第69話 実地の重さ①
左前方、三十メートル。
先生の言葉が耳に残ったまま、俺は息を殺した。
木々の間に何かがいる。見えない。でも、確かにいる。それだけはわかった。
じわりと汗が出た。手が少し震えている。気づいたとき、俺は意識して手を握り直した。
「ゴブリン二体だ」
先生が静かに言った。
「Sクラスなら問題ない格だ。ただし、初手から全力でいけ。なめてかかるな」
先生が顎で示す。前へ、という意味だ。
俺は魔力を全身に流した。身体強化を展開する。次いで硬化、纏い——同時発動を試みる。硬化が先に固まって、纏いを重ねた瞬間、わずかに揺れた。
まだ不安定だ。
でも、今は維持することに集中する。
茂みが動いた。
二体が飛び出てきた。人間の腰ほどの高さ。緑がかった肌に、黄色く濁った目。手に木の棍棒を持っている。声にならない唸りを上げながら、こちらに突っ込んでくる。
レオが前に出た。手のひらに火球を作り、一体に向けて放つ。直撃した。ゴブリンが吹き飛んで、地面に転がった。
もう一体が俺の方へ来た。
俺は踏み込んだ。
棍棒が振り下ろされる軌道を読んで、半歩横にずれる。そのまま懐に入り込んで、拳で胴を打つ。身体強化が乗った一撃はゴブリンの体を横に吹き飛ばした。倒れたゴブリンが動かなくなる。
終わった。
呼吸が荒くなっていた。
「よし」と先生が言った。「次へ行くぞ」
あまりにあっさりしていた。
俺は倒れたゴブリンを一瞬見た。動かない。それだけだ。でも何かが胸に引っかかった。上手く言語化できない感覚だった。
歩き続けながら、ノールが小声で言った。
「手、震えてなかったか?」
「……わかったか」
「少しだけ」
ノールが前を向いたまま続ける。
「俺も足が固まりかけた。本物って、違うな」
「ああ」
それだけでわかり合えた。
昼過ぎまでに、班全体でさらに三回遭遇した。ゴブリンが二体、スライムが一体、小型のウルフ系が一体。どれも外縁部に出る格の低い個体だ。それでも毎回、遭遇の瞬間は体に緊張が走った。
模擬戦と何が違うのか。
歩きながら考えた。
相手が本物の意志を持っている。こちらを食うために動いている。その目が、訓練の人形や魔道具とはまるで違う。
父さんが言っていた「本物の殺気」というのは、そのことだったのかもしれない。
午後、班が休憩をとった。木の根元に座って水を飲みながら、レオが言った。
「思ったよりいけるじゃないか。余裕だろ」
「まだ外縁部だ」とライルが言った。「油断するな」
「わかってるって——でも実際どうだよ、ジン」
俺は少し考えた。
「手応えはある。でも、まだ浅いと思ってる」
「浅い?」
「本物の怖さはもっと上にある気がする。外縁部の魔物じゃ、まだ触れてない」
レオが黙った。珍しいことだった。
セレインが静かに言う。
「中に入れば変わるわね」
「そうだな」
セレインとはあまり話さないが、言葉の重さは感じた。彼女もちゃんと理解している。
再び歩き始めたとき、風が変わった。
前を歩いていたガルセン先生が、また右手を上げた。
全員が止まる。今度は先ほどより緊張感がある。先生の肩が、わずかに固まって見えた。
「……ランクB相当の魔力反応だ」
静かな声だったが、内容は重かった。
「この場は俺が対処する。全員、後方に下がれ。観察しろ」
俺たちは指示どおり後退した。でも足が少し固まる感覚があった。
先生が前に出た瞬間、茂みが割れた。
現れたのは、大型のベアウルフだった。四つ足の体は馬ほどの大きさがある。鋭い爪が地面を掘り、低い唸り声が腹に響いた。
俺の全身が、一瞬固まった。
これだ。
これが、父さんの言っていた感覚だ。
体が動かなくなるような重さ。ただそこにいるだけで、空気ごと押し潰されるような圧力。模擬戦で感じたことのある緊張とは、まるで別物だった。
先生が動いた。魔力を凝縮した打撃をベアウルフに叩き込んで、数合のやり取りの末に制圧した。俺たちが動く間もなかった。
静かになった森の中で、先生が振り返った。
「今のを忘れるな」
俺は頷いた。
今のが、本物の重さだった。
自分がまだその領域に届いていないことを、はっきりと理解した。でも、ここまで来なければわからなかったことでもある。
俺は指輪を右手で軽く触れた。
ヒビたちはここにいる。
今は使えないが、一緒にいる。その感覚だけで、折れそうになった足が、もう一度地面を踏んだ。
野営地に戻ったのは夕方だった。
火を起こして飯を食いながら、班全員でほとんど喋らなかった。それが自然だった。食い終わったあと、レオが珍しく静かな声で言った。
「……さっきのベアウルフ、でかかったな」
「ああ」
「俺、足が竦んだ。正直に言うと」
レオが足が竦む、というのは初めて聞いた。俺は正面を向いたまま答えた。
「俺もだ」
「ライルは?」
ライルが少し間を置いた。
「……少しな」
全員が静かに笑った。緊張が少しほぐれた。
ノールが手帳を取り出したが、今日は書かなかった。ただ膝の上に置いて、火を見ていた。
セレインが言った。
「明日も続くのよね」
「ああ」
「なら今日はしっかり寝ないとね」
そうだな、とレオが頷いた。ライルはすでに立ち上がってテントに向かっていた。
俺も立ち上がった。
テントに入って横になりながら、今日のことを思い返した。ゴブリンとの遭遇。手の震え。ベアウルフの圧力。自分の体が固まった感覚。
硬化と纏いの同時発動は、今日の戦闘では試せていない。でも、次にチャンスがあれば試したい。
実戦の中でしか測れないものがある。今日でそれがわかった。
指輪をもう一度、そっと握った。
明日も行く。




