第58話 帰省
アルマーレの屋敷に着いたのは、昼をやや過ぎた頃だった。
門をくぐると、使用人が出てきて荷物を受け取ろうとした。軽く断って、自分で持っていく。荷物は少ないし、こういうのは慣れない。
玄関を開けると、廊下の奥から足音がした。
「ジン!」
母だった。
いつも通りの、少し心配そうな顔をしている。近づいてきて、俺の顔をじっと見た。
「痩せてないかしら。ちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「顔色はいいけど」
「問題ないので、大丈夫ですよ」
母が安堵したように息を吐いた。それから少し表情を緩めて、
「カイルとソフィに会いに来てあげて。起きてると思うから」
と言った。
案内されるまでもなく、奥の部屋へ向かった。
扉を開けると、ゆりかごが二つ並んでいた。
近づいて、覗き込む。
一つ目のゆりかごに、小さな男の子が寝ていた。丸い顔で、目を閉じている。拳を小さく握っていて、ときどきもぞりと動く。
隣のゆりかごには、女の子。こちらは目が開いていた。俺の顔を見て、きょとんとしている。
「……カイルとソフィか」
声に出してみた。
女の子——ソフィが、俺の声に反応して手を動かした。掴もうとしているのか、虚空に向かってぱたぱたと腕を振る。
俺は人差し指を差し出した。
ソフィの小さな手が、それを掴んだ。
思ったより力がある。でも柔らかい。手のひらの中で、指が包まれている感じがした。
「……なんか、不思議だな」
自分に弟妹ができた、という実感が、じわじわと来た。さっきまで文字の情報でしかなかったものが、今は目の前に確かに存在している。温かくて、柔らかくて、小さい。
しばらくそのまま、ソフィの手を握っていた。
「ジン」
後ろから父の声がした。
振り返ると、父が扉のところに立っていた。相変わらず大柄で、背筋がぴんと伸びている。こんな赤ん坊がいる部屋にいても、佇まいが変わらない人だ。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
「少し話せるか。食事の前に」
「はい」
父がソフィをちらりと見た。それから小さく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
珍しい、と思った。
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父の書斎に通された。
向かい合って椅子に座ると、父がまず口を開いた。
「お前は長男だ。本来なら家を継ぐ立場になる」
「……はい」
「継ぐ気はあるか」
単刀直入だ。父はいつもそうだ。
俺は少し間を置いてから、正直に答えた。
「冒険者になりたいと思っています。学院を出たら、王都か近くの街に登録するつもりで」
父がしばらく黙った。
「では双子の弟に継がせる。それでいいか」
「……カイルに、ですか」
「まだ赤ん坊だが、いずれそういうことになる。お前が家を出るならそうなる」
俺は頷いた。
「はい。それで構いません。むしろ、その方が——」
「俺もかつてはそうだった」
父が静かに続けた。
「存じています」
「SSランクまで行った。だから分かる——冒険者は甘くない」
「覚悟はあります」
「覚悟じゃ足りない場面が来る」
「それも含めて、やってみたいと思っています」
父がまた黙った。今度は少し長かった。
それからゆっくりと頷いた。
「分かった。許可する」
あっさりとした言葉だった。でも、その重さは十分に伝わった。
「ありがとうございます」
「ただし——」
父が少し間を置いた。
「卒業まであと一年あるな」
「はい」
「その間に、少し鍛えてやる。剣の扱い、基礎だけでもやっておけ」
思わず父の顔を見た。
「……稽古をつけていただけるんですか」
「素手だけで冒険者はやれない。基礎くらい知っておけ」
それだけ言って、父は立ち上がった。話は終わりらしい。
「死ぬな」
「死にません」
「その言葉だけ聞いておく」
書斎を出ると、廊下が静かだった。
剣の稽古をつけてもらえる——そうは思っていなかった。父が引退してからそういう話をしたことは一度もなかったし、こちらから頼む気も特になかった。
でも、父から言い出した。
「卒業まであと一年」という言葉が、頭に残っている。冒険者になることを許可した上で、それでもできる限りのことをしてやろう、という気持ちが父にあるんだろう、と思った。
口には出さない人だ。でも行動で示す。
そういう人だ、と改めて感じた。
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夕食の席で、母が俺の茶碗に勝手にご飯を盛り足した。
「学院でも、ちゃんと食べてるの?」
「食べてると言いましたよ」
「でも足りてないでしょ。男の子なんだから」
反論する気になれなかった。
食事が終わった後、もう一度カイルとソフィの部屋に行った。
二人とも今度は眠っていた。静かに寝息を立てている。小さな体が、ゆりかごの中でちゃんと収まっている。
しばらく二人を眺めた。
昼に会ったときより、ずっと小さく見える。眠っているせいかもしれない。動かないと、こんなに小さいのか、と改めて思う。
「俺が帰ってきたとき、お前たちはどのくらい大きくなってるかな」
冒険者になれば、しばらく家には帰れないかもしれない。その間に、この二人は歩くようになって、しゃべるようになって——また会うときには随分変わっているだろう。
今日初めて会ったばかりなのに、もう次に会う日のことを考えている自分が、少し可笑しかった。
「元気でいろよ」
ソフィが寝たまま、少し口を動かした。
それで十分だ、と思った。
ポケットの中で、ヒビが温かかった。




