第46話 炉の影
それは何気ない昼下がりのことだった。
魔力制御の授業が終わって、廊下を歩いていたとき。
胸の奥で、何かがざわりと動いた。
「……?」
足が止まった。
感覚としては、魔力の流れが乱れているような、空気が微かに歪んでいるような——うまく言葉にならない違和感だった。
魔力感知は一年生のときから鍛えてきた。
戦闘の中で相手の魔力の動きを先読みするために。気づけば、空間の魔力の揺らぎにも自然と敏感になっていた。
だから今のこれは、気のせいではないと思った。
気のせいかと思って歩き出す。
でも、またざわりと来た。
内ポケットのヒビも感じているのか、落ち着かない動きをしている。
「ジン」
後ろから声がかかった。
振り向くと、ノールが早足で近づいてきた。眼鏡の奥の目が真剣だった。
「今の、感じましたか?」
「ああ。何だあれ」
「魔力炉です」
短く言った。
「炉?」
「学院の地下にある魔力炉。学院全体に魔力を供給している施設です。一年のときにも一度、異変がありました」
俺は少し記憶を探った。
一年生のとき——授業中に廊下の灯りが一瞬揺れたことがあった。先生が何も言わなかったから気にしていなかったが、あれがそうだったのかもしれない。
「また異変が起きてるのか」
「今のは小さかった。でも前回より、少し質が違う気がしました」
「質?」
「前回は揺れ、という感じでした。今回は……滲み出てくる、という感じです」
ノールが言葉を選びながら話している。
こいつがこういう言い方をするときは、本当に正確な表現が見つかっていないときだ。
「先生に報告した方がいいんじゃないか」
「それも考えましたが、証拠がない。今の感知ができる生徒は少なですし、報告しても信じてもらえるかどうか」
「お前の家のつてで何か調べられないか」
「動いてます。実家に問い合わせを出しました。ただ返事が来るまで時間がかかります」
ノールは廊下の壁に目を向けた。
学院の石造りの壁——その向こう、地下に炉がある。
「様子を見ましょう。頻度が上がるようなら、改めて動きます」
「わかった」
その日の夜、部屋に戻ってからもじわりと考えが続いた。
机の上にはミズチが静かに丸まっていた。
ドロンは床の隅で眠っている。カゼマルはぴよぴよ鳴きながら本棚の上を歩き回っていた。パチは相変わらず本棚の影にいる。
ヒビは俺の肩に乗っていた。
昼間の違和感をまだ覚えているのか、翅をゆっくりと開閉させていた。
「お前も感じたか」
翅がぴくりと動いた。
何かを感知している、という感情が伝わってくる。
ヒビのリンクが鮮明になったのは進化してからだ。
もしかすると、俺よりも精度よく魔力の乱れを感じ取れるのかもしれない。
「次に何かあったら、教えてくれ」
翅がもう一度動いた。
わかった、とは言えないが、悪い感じはしなかった。
翌朝、ノールと朝飯を食いながら昨日の話の続きをした。
「魔力炉の異変は、過去にも記録があります」
「どんな内容だ」
「古い記録なので詳しくはわかりませんが、大きなものは三件。うち二件は自然収束。一件は人の手で対処した、とだけ書いてありました」
「人の手で対処、か。何をしたんだ」
「記録には残っていません。意図的に削除されている可能性がありますね」
「……それはまずい話だな」
「かもしれない。あるいは単純に、機密扱いだっただけかもしれない」
ノールはそう言ってお茶を飲んだ。
「とにかく今は様子を見よましょう。頻度が上がるようなら、改めて動く。また異変があったらすぐ教えてください。君の感知精度は高い。それと——」
「ヒビも使える」
「それは心強い」
ノールが少し目を細めた。研究者の顔ではなく、信頼している友人の顔だった。
「ただ、レオやライルには話すな。今の段階では不確定な情報が多すぎる。変に心配させても仕方ない」
「ああ」
「セレインには」
少し間があった。
「……様子を見ましょう」
「そうだな。彼女は感知力が高い。もしかすると自分でも気づいているかもしれない」
「それはありますね」
ノールはしばらく黙ってから、また口を開いた。
「ジン。一つ聞いていいですか」
「何だ」
「ヒビたちの感知能力は、進化するにつれて上がっている可能性があります。もし炉の異変が大きくなったとき、彼らに何か影響が出るかもしれない。その点は頭に入れておいたほうが良いかもしれません」
俺は少し黙った。
影響、というのが具体的にどういうことなのか、うまく想像できなかった。
「影響、というのは」
「わかりません。前例がないから。ただ、魔力の乱れに近い場所に創造体を置くのは、注意が必要だと思います」
「わかった」
内ポケットの中でヒビが動いた。
聞こえているのかどうかはわからない。でもリンク越しに、落ち着いた感情が伝わってきた。
心配するな、と言っているのか。それともただ眠いだけなのか。
どちらにしても、こいつがそこにいてくれることが、今は少し心強かった。
食堂の窓から、朝の光が差し込んでいた。
普通の朝だった。
でも地下には、何かが静かに息づいている気がした。
それが何であるかは、まだわからなかった。




