第43話 三年生の朝
春の朝は、まだ少し肌寒い。
訓練場に出ると、石畳に薄い霜が残っていた。
吐く息が白く広がって、すぐに消えた。
俺は静かにストレッチを始めながら、内ポケットの中のヒビに意識を向けた。
起きている。
温かくて、何かを待っているような感じが伝わってくる。
「今日も出るか」
ポケットから手を差し伸べると、ヒビがそっと這い出てきた。
赤い。
体に刻まれた炎の模様が、朝の薄い光の中でも鮮やかだった。
背中には小さな羽。透き通るような薄い膜に、細い炎の筋が走っている。
進化してから二週間以上経つが、まだ見るたびに少し驚く。
あの小さな芋虫みたいな姿から、ずいぶん変わったものだ。
「飛べるか、試してみるか」
ヒビは俺の手の平の上でしばらくじっとしていた。
それから、羽をゆっくりと広げた。
パタ、と一度動かす。
パタパタ、ともう少し速く。
ふわりと浮いた。
「……おお」
思わず声が出た。
ヒビは俺の手の平から離れて、訓練場の空中をゆっくりと漂うように動いた。
高さはそれほどでもない。俺の胸あたり。
速くはないが、安定していた。羽ばたくたびに、うっすらと赤い光の粒が散った。
嬉しい、という感情がリンク越しにはっきり伝わってきた。
以前より感情の解像度が上がっている。「なんとなく機嫌がいい」ではなく、はっきりと「嬉しい」とわかる。
「そうか、嬉しいか」
ヒビはくるりと一回転してから、俺の肩に降りてきた。
そこが気に入ったらしく、動こうとしなかった。
「肩は困る。学院内では隠してないといけない」
不満げな感情が返ってきた。
わかっているが、納得はしていないらしい。
しばらくヒビと過ごしてから、俺は走り始めた。
ヒビは内ポケットに戻した。
渋々、という感じが伝わってきたが、大人しく収まってくれた。
走りながら考える。
進化してから、ヒビとのリンクが変わった。
感情だけじゃない。
なんとなく、向こうが何を見ているかが薄っすら伝わってくることがある。
気のせいかもしれないが、そうじゃない気もする。
ミズチやドロン、カゼマル、パチはまだ初めの頃の姿のままだ。
ヒビとのリンクと比べると、まだぼんやりしている。
でもそれぞれ、一年生の頃より確実に大きくなっている。
いつかヒビと同じように進化するのかもしれない。
その瞬間を、しっかり見届けたいと思っていた。
これがどこまで発展するのか、ノールに聞いてみようと思っていた。
外周を五周終えた頃、ノールが訓練場に現れた。
手に例の分厚い論文集を抱えている。
「ヒビの調子はどうだ」
開口一番それだった。こいつらしい。
「飛んだ。さっき初めてちゃんと飛ぶのを見た」
「ほう」
ノールの目が少し光った。研究者の顔だ。
「羽の構造は確認できたか。熱を持っているか」
「触ってみたら少し温かかった。熱くはない」
「飛行時に魔力を消費している可能性がある。長時間飛ばせるか確認したいな」
「そのうちな」
「リンクの変化は」
「感情がはっきりわかるようになった。あと、向こうが何を感知しているかが少し伝わる気がする」
ノールは少し黙ってから言った。
「それは興味深い。術者と創造体のリンクが双方向になってきている可能性がある」
「双方向」
「これまではお前がヒビを感じる一方通行だったとすれば、今はヒビもお前の感覚に近づいている。文献では——」
「続きは朝飯のあとで頼む」
「了解」
ノールはそれ以上言わずに本を開いた。
朝の授業前、クラス割りの紙が貼り出された。
三年生になると選択科目の比重が増える。
俺は魔力制御の上級クラスと、近接戦闘の実技クラスを選んだ。
「ジン、近接戦闘一緒だ」とレオが紙を見ながら言った。
「お前も近接か」
「体動かす方が好きだから。魔力制御は上級取る自信なかったし……そもそも俺、上級受けられるレベルじゃないしな」
「正直だな」
「自覚はある」
「魔力制御の上級、セレインもいるな」
紙を確認すると、魔力制御上級クラスにセレインの名前があった。
まあそうだろうと思った。セレインの実力なら当然だ。
「ジンと一緒か」
「ああ」
「ふーん」
レオが何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
こいつは察しがいいのか悪いのか、よくわからない。
ライルは遠距離と魔力制御を選んでいた。
ノールは魔力理論の研究クラス。こいつには一番合っている。
選択肢の中でも一番地味な科目だが、ノール本人は一番楽しそうにしていた。
窓の外、中庭に春の光が降りていた。
ヒビが内ポケットの中でもぞりと動いた。
今日の授業ではセレインと同じになる。
休日の練習場以外で顔を合わせるのは久しぶりだ。
特に何かが変わるわけではないが、なんとなく、悪くない気分だった。
レオがまた何か言いたそうな顔をこちらに向けていたが、俺は気づかないふりをした。
こいつは顔に出すぎる。
ヒビが内ポケットの中でもぞりと動いた。
起きているらしい。温かくて、落ち着いた感情が伝わってくる。
三年生の時間が、静かに、確かに動き始めていた。




