第42話「ヒビが変わる」
フィーナ先輩が卒業して一週間が経った。
春の訓練場は静かだった。以前は朝稽古でフィーナ先輩と向き合っていたが、今は一人だ。ただ、静かなのは悪くない。自分のペースで動ける。課題は山積みだし、やることはまだたくさんある。
ジンは今日もいつも通り、魔力を全身に流しながら体を動かしていた。壁を走り、着地し、魔力先読みの感覚を一人で確かめる。フィーナ先輩がいなくなっても、課題だけは残っている。
ただ、今日は途中から集中が乱れた。
ヒビのせいだ。
内ポケットの中でヒビがずっと動いている。落ち着きがない。最初は眠たいのかと思ったが、そうじゃない。何かが違う。気配が違う。
ジンは動きを止めた。
「ヒビ、どうした」
内ポケットから取り出すと、ヒビは手の平の上でじっとした。
いつもと違う。体が少し熱い。魔力の密度が上がっている気がする。昨日より、明らかに。ヒビから伝わってくる何かが、いつもより強く、濃い。
じっと見ていると、ヒビの体がわずかに光った。
赤い光だ。炎の色に近い。
その日の放課後、ジンはノールを呼んだ。
「ちょっと来てくれ」
「なに、どうしたの。そんな真剣な顔して」
「ヒビのことだ」
ノールの表情が変わった。いつもの軽い様子が消えて、研究者の顔になった。
二人で人気のない中庭の隅に移動した。ジンは内ポケットからヒビを出した。
ヒビは手の平の上で、昨日より明らかに輝いていた。赤い光が体の中から漏れている。
「……これは」
ノールが息を呑んだ。
「進化の前兆だと思う。去年、魔物の進化について話してたろ。あのとき言ってたやつに似てる」
「似てるどころか、ほぼ一致してる。魔力の内部蓄積が限界に近づいてる。これは……近いぞ」
「どのくらい近い」
「数日から一週間以内、じゃないかな。でも断言はできない。これだけ珍しいケースだから」
ジンはヒビを見た。
ヒビは静かに手の平の上にいた。さっきの落ち着きなさがなくなった。まるで覚悟が決まったような、そういう静けさだ。
「……わかった」
ジンは一度深く息を吸った。
「そのとき、俺は何かするべきことがあるか」
「わからない。でも、そばにいてあげた方がいいと思う」
ノールがそう言った。いつもの軽い口調じゃなかった。
ジンは頷いて、ヒビを内ポケットに戻した。ヒビは静かに収まった。
その夜から、ジンは授業が終わると早めに部屋に戻るようにした。レオに「今日も一緒に飯行かないの」と聞かれたが、「用事がある」とだけ答えた。嘘じゃない。ただ、説明はできない。
カゼマルは棚の上でいつも通りうろうろしていたが、途中から動きを止めてヒビを見ていた。ドロンも、ミズチも、パチも、それぞれの場所でじっとしている。全員が感じているのかもしれない。五体が同じ方向を向いている夜は、今まであまりなかった。
ヒビの体の光が、少しずつ強くなっていく。
ジンはただそばにいた。何もしない。何かできることもない。ただ、ヒビが手の平の上にいるのを感じていた。
深夜になったころ、変化が始まった。
光が一気に強くなった。ジンは目を細めた。手の平が熱い。でも痛みじゃない。温かさだ。炎のような、でも燃やすわけじゃない温かさだ。
ヒビの形が変わり始めた。毛虫のような体が、輪郭を失っていく。光の中に溶けていくような、消えていくような。
ジンは息を止めた。
消えているわけじゃない。変わっているんだ。そう思っても、光が強すぎて何も見えない間は、少しだけ怖かった。
そして光が収まった。
手の平の上に、ヒビがいた。
前とは違う形だ。羽がある。小さいが、確かに羽だ。赤い模様が体に浮かんでいる。炎を思わせる、鮮やかな色だ。体全体が以前より一回り大きくなっている。毛虫だった頃の面影は、もうほとんどない。
ヒビが、ジンを見た。
目が合った。
何かが伝わってきた。言葉じゃない。でも確かに何かが。前より、ずっと鮮明に。うれしいのか、やり遂げたのか、それとももっと別の何かなのか。ジンには正確には分からなかった。ただ、温かかった。
「……おめでとう、ヒビ」
声が少しかすれた。ジン自身、こんな声が出るとは思っていなかった。
ヒビが羽をわずかに広げた。小さな羽だ。それでも、確かにそこにある。炎の模様が揺れて、部屋の中に赤い光がふわりと広がった。
カゼマルがぴよ、と鳴いた。
その声でジンは少し我に返った。ミズチが机の端からヒビをじっと見ている。ドロンは床からのそのそと顔を上げた。パチは本棚の影から、目だけ出してこちらを見ていた。
全員が、ヒビの変化を見ていた。
ジンはヒビを目の高さまで持ち上げた。ヒビが小さく羽を動かした。飛べるかどうかはまだわからない。ただ、羽がある。それだけで十分だ。形が変わっても、伝わってくる温かさはヒビのものだ。変わらない、確かなものがある。
他の四体が、それぞれの場所でじっとヒビを見ていた。静かな夜だった。この夜のことを、ジンは長い間覚えていると思った。




