第31話「新しい季節の始まり」
新学期の朝は、去年よりも少しだけ静かだった。
寮の廊下を歩くジンの耳に届くのは、遠くから聞こえる荷物を運ぶ音と、扉の開閉だけだ。在校生が戻ってくる今日は、明日の入学式とはちがう、落ち着いた空気が漂っている。
窓の外では、中庭の木が風に揺れていた。春のはじめとは思えないくらい穏やかな朝だ。
内ポケットの中で、小さな動きがあった。
「起きたか、ヒビ」
ぽそ、と返るのはかすかな熱だ。言葉ではない。でも眠気が抜けきっていないのは伝わってくる。
ジンは少しだけ口の端を上げた。こいつも朝は弱い。
去年の春と同じようで、でも確実にちがう。ヒビたちの存在感がそれだけ大きくなっている。体の大きさもそうだが、伝わってくる感情の輪郭がはっきりしてきた。怠さとか、眠気とか、そういう細かいものまで感じ取れるようになっている。
食堂に着くと、レオがすでに席を取っていた。
「ジン!こっちこっち!」
でかい声だ。朝からまったく変わらない。
ジンは苦笑しながら隣に座った。向かいにはライルが黙ってパンをかじっている。いつも通りだ。
「ノールはまだか」
「あいつ荷物多いから時間かかってんじゃないか。また変な研究器具でも持ち込んでると思う」
レオが言うと、ライルが小さく頷いた。
三人で食事を始めて少しして、ノールが息を切らしながら食堂に入ってきた。案の定、大きめの鞄を二つ抱えている。
「遅い」
「しょうがないでしょ、今年は新しい魔力測定の器具を持ってきたんだから。去年の炉の異変があったし、いろいろ計測しておきたくて」
「お前、絶対それ持ち込み禁止のやつあるだろ」
「……一個だけ」
レオが「やっぱり」と言いながら笑う。ライルはため息をついた。
ジンはそっと内ポケットに手を当てた。ヒビがもぞ、と動く。食堂の匂いに反応しているのかもしれない。
「今年もよろしく」
ジンが言うと、レオが大げさに両手を広げた。
「おう!今年こそ俺が模擬戦でジンに勝つからな!」
「去年も同じこと言ってたな」
「今年はちがう!冬の間ずっと特訓してたんだ!」
「どうせまた三日で挫折しただろ」
「……一週間は続いた」
ライルが静かに紅茶を一口飲んだ。その表情には「また言ってる」と書いてあるようだった。
ノールが鞄の中を漁りながら言う。
「ジンは冬の間も訓練してたんでしょ。なんか変わった?」
「魔力先読みが少し安定してきた。フィーナ先輩に課題もらってたやつ」
「あー、去年言ってたやつか。どんな感じ?」
「相手の魔力の動きを一テンポ先に読む。まだ完璧じゃないけど、精度は上がった」
ノールが目を光らせた。
「それ、うちの器具で測定できるかもしれない。放課後時間ある?」
「まあ、いいけど」
「やった。今年の研究テーマ、魔力先読みの機序にしようかと思ってたんだよね」
レオが「俺たちの青春どこ行った」と呟いた。
午後、ジンは一人で訓練場に向かった。
朝稽古はフィーナ先輩との習慣だったが、今日はまだ顔を合わせていない。戻っているかどうかもわからなかった。
とりあえず一人でやるか。
魔力を足の裏に集中させ、壁に踏み込む。体が垂直に走り出す感覚。一年前よりも確実に馴染んでいた。壁を蹴り、宙を一回転して着地する。
衝撃を全身で受け流す。それができるようになったのは去年の秋ごろだ。ただ受けるのではなく、流れを作る。魔力の循環と同じ感覚だ。
内ポケットの中でヒビが動いた。
見てるのか。
そう思うと、なんとなく気が引き締まる。
もう一度、今度は角度を変えて壁を走る。魔力の流れを均等に保ちながら、体重移動のタイミングをずらしてみる。着地。バランスが少し崩れた。
まだだな。
ジンは息を整えながら、もう一度構えた。
「去年より速くなってる」
背後から声がした。
振り返ると、フィーナ先輩が訓練場の入り口に寄りかかって立っていた。いつもの飄々とした表情だ。いつ来たのかまったくわからなかった。
「先輩。戻ってたんですか」
「さっき。ちょうど通りかかったら壁走りしてる奴がいたから」
フィーナはゆっくりと近づいてきた。
「着地の左足、まだ少し逃げてる」
「わかってます。流し方がまだ甘い」
「自覚があるなら早い」
先輩はそう言って、軽く腕を組んだ。夕陽が差し込む訓練場に、しばらく静けさが続く。
「明日から新入生が来る。今年も朝稽古、続けるか」
「もちろんです」
即答すると、フィーナは少し目を細めた。
「じゃあ明後日の朝、いつもの場所で」
それだけ言って、先輩はまた歩き出した。音もなく訓練場を出ていく。
ジンはその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
今年もここから始まる。
内ポケットの中で、ヒビがそっと体を丸めた。その温かさが、指先にじんわりと伝わってきた。
夜、寮の自室に戻ったジンは机の前に座った。
部屋の隅ではカゼマルが棚の上をうろうろしている。ぴよ、と鳴いて、端っこまで行ってはまた戻ってくる。相変わらず落ち着きがない。
ドロンは床の上で丸くなっていた。のんびりしているのか眠っているのか、区別がつかない。ミズチはジンの机の隅に静かに巻きついている。パチは本棚の影に消えていた。そしてヒビは、ジンの肩の上にちょこんと座っていた。
全員、去年より一回り大きくなっている。
それでも内ポケットに収まるサイズだ。ただ、重さと存在感がちがう。最初に生まれたときの、あの頼りない感触はもうない。
「今年も頼むぞ」
誰に言うともなく呟くと、ヒビが肩の上で小さく動いた。
熱が伝わってくる。言葉じゃない。でも「わかってる」というような感覚だった。
ジンは窓の外を見た。王都の夜は明るい。魔力灯の光が遠くまで続いている。
明日、新入生が来る。
それだけで今夜は十分だと思った。ジンは静かに目を閉じ、明日に備えることにした。




