第1話「俺は赤ちゃんになった」
気がついたら、天井を見ていた。
いや、正確には違う。
視界いっぱいに広がっているのは、木の梁と、柔らかな光を落とす丸いランプ。
匂いは潮っぽくて、波の音が遠くから聞こえる。
体は重くて、思うように動かせない。
――ああ。転生したんだな、俺。
驚くほど冷静に、そう理解した。
前の世界では、確か交差点を渡っていた。
雨が降っていて、傘を差して、スマホで小説の続きを確認しながら歩いていた。
それがいけなかったのか、気づいた時には真っ暗な空間にいて、声も出せないまま意識だけが漂っていた。
そして今、俺はどう見ても赤ちゃんだ。
手を上げようとすると、ぷにぷにした小さな手がゆっくりと視界に入ってくる。
指が五本ある。
それだけ確認して、俺は少し安堵した。
人間の体で転生できたらしい。
どうやらベッドの中に寝かされているようで、布の感触が肌にやわらかい。
前世の記憶は――ある。
高校二年生、田村ジン。
ラノベとゲームに費やした十七年間の記憶が、この小さな頭の中にちゃんと詰まっている。
ラノベ読みとしての嗅覚が告げる。
これは異世界転生だ。
だとすれば、まず確認すべきことがある。
スキルはあるか。チートはあるか。親はどんな人間か。そして、この世界の常識はどうなっているか。
答えはすぐに来た。
最初の「来客」は、金色の髪の女性だった。
泣きそうな顔で俺を覗き込んで、それから柔らかく微笑んで、「ジン」と呼んだ。
声が綺麗だった。目元が涼しくて、でも眼差しはとても温かい。
――この人が、俺の母親か。
そう認識した瞬間、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなった。
前世の俺は、物心ついた頃には両親がいなかった。祖父母に育てられた。
だから「母親に呼ばれる」という体験が、どこか遠い国の話みたいに感じていた。
「ジン。元気に生まれてきてくれて、ありがとう」
言葉の意味は分かる。
この体は赤ちゃんでも、前世の記憶と知識がある。
でも俺には答える術がなかった。喉から出てきたのは、情けないくらい小さな声だった。
女性――母は笑って、俺を抱き上げた。
窓の外には海が見えた。
夕暮れに染まった港と、岸に並ぶ帆船の影。
風が穏やかで、白い鳥が一羽、水面すれすれを飛んでいる。
綺麗な世界だ、と思った。
しばらくして、もう一人が部屋に入ってきた。
背が高くて、黒い髪を後ろに束ねた男だ。
顔つきは鋭いが、母を見る目が驚くほど優しかった。
「ジン、か。……良い名だ」
低い声でそう言って、男は俺の頭をそっと撫でた。
大きな手だった。ごつごつしていて、でも不思議と安心する手だった。
この人が父親らしい。
後で分かったことだが、父の名前はアルセン・アルマーレ。
貴族で、元冒険者。
母の名前はミレア・アルマーレ。
魔法使いで、父に負けず劣らず強いらしい。
港町に屋敷を構える上位貴族の家系だ。
つまり俺は、ジン・アルマーレとして生まれた。
悪くない出発点だと思う。
ただ一つ、気になることがあった。
体の中心に、何かがある。
じんわりと温かくて、意識を向けるとそこに確かに「ある」と感じる。
霧みたいに掴みどころはないが、存在だけははっきりと分かった。
――これが魔力か。
ラノベで散々読んできた。
異世界転生といえば魔力だ。
体の内側に蓄積されていて、鍛えれば増え、使えば減る。
そういうものだと理解していた。
実際に感じてみると、思ったよりずっと地味な感覚だったが、ともかく「ある」と分かっただけで十分だった。
俺はぷにぷにの手をじっと見つめて、一つだけ決めた。
――この感覚の正体を、いつか必ず突き止めてやる。
赤ちゃんの分際で、随分と大きなことを考えているとは思う。
でもラノベ主人公の魂を持って転生したからには、最初から全力でいくのが筋というものだろう。
外では波の音がしていた。
港町の夜が、静かに始っていた




