05:選ばれたのは、私でした
「あ、ありがとうございます……」
王子の親切を無下にはできない。
私は恐る恐る、両手でハンカチを受け取り、濡れた目元や頬を拭いた。
王子に泣き顔を見られてしまって、恥ずかしい。
きっといま、私の顔は真っ赤だ。
――ええと……使ってしまったこのハンカチは、どうしたらいいのかしら。
洗ってお返ししたいけれど、でも、どのタイミングでお返しすれば……私が王宮に足を踏み入れることは二度とないだろうし……手紙で送っても良いのかしら?
「そのハンカチは差し上げます。お気になさらず、お使いください。不必要になりましたら、遠慮なく捨ててくださって構いません」
私の心境を見抜いたように、ユーリス王子が言った。
ユーリス王子は、声まで麗しい。
ずっと聞いていたくなる魅力的な声の持ち主だった。
「ところで、何故貴女は泣いていたのですか? まさかとは思いますが、クルーエル嬢に何か酷いことでも言われたのですか?」
言いながら、ユーリス王子は私の隣に座った。
――お、王子が私の隣に……!!
あまりにも恐れ多くて、変な汗が出てきた。
「いえ、そんなことはございません。目に、ゴミが入っただけです。すみません、お見苦しいところを……」
目にゴミが入っただけで、嗚咽するほど泣く人間はいないだろう。
自分でも苦しい言い訳だと思いつつ、私は頭を下げた。
「いえ。それなら良いのですが……」
ユーリス王子が気遣わしげな顔をする一方、会場では、令嬢たちが殺気のこもった目で私を睨んでいる。
――こ、怖い。早くユーリス王子にお戻りいただかなければ……!
私は慌ててユーリス王子に視線を戻した。
そして、気づく。
「あの、殿下。勘違いでしたら申し訳ございません。ですが、体調が悪いのではありませんか? 顔色が優れないように見えます」
「ああ……人に酔ったようです。香水の匂いが少々きつくて……」
「それは大変です。どうかご無理なさらず、別室でお休みください。休んでも体調が回復しないようでしたら、パーティーは中止すべきです」
私はアメジストの瞳を見つめて言った。
「しかし、今日は皆、私のために集まってくれたわけですから――」
「いいえ。殿下のために集まったからこそ、皆様わかってくださるはずです。殿下の体調を最優先に考えられない方に、王子妃という重責は務まらない。私はそう思います」
ユーリス王子は驚いたような顔で私を見ている。
はっとして、私は身を縮めた。
「申し訳ございません。殿下の尊いお言葉を遮ってしまった上に、出過ぎた真似をしてしまいました」
「いえ。貴女の言う通りです。すみませんが、もう一度お名前を聞いても良いでしょうか? ご挨拶はしていただきましたが、さすがに全員の名前は覚えられなくて」
ユーリス王子は申し訳なさそうに言った。
「謝られるようなことではございません。何百人もいては、覚えられなくて当然です。私はシビラ男爵の娘、フィオレットと申します」
立ち上がり、カーテシーを行う。
「……シビラ男爵家の、フィオレット。では、貴女が……」
ユーリス王子は何かに気づいたような顔をした。
「? 私がどうかしましたか?」
「……いえ、なんでもありません。体調を気遣ってくれてありがとうございました。お話ししている間に少し回復したようです。私は会場に戻――」
「殿下、皆お待ちしておりますわ。どうしてその方とだけお話しになるのです? 一人を特別扱いするのはお止めください。さあ、こちらで私たちとお話ししましょう!」
ユーリス王子が微笑んだとき、焦れたようにマチルダ様が叫んだ。
他の令嬢たちも不満そうな顔をしているのを見て、ユーリス王子は苦笑した。
「では、私は戻りますね」
「はい。私も、もう少ししたら戻ります」
ユーリス王子と一緒に戻れば、他の令嬢たちに何を言われるのかわかったものではない。
「殿下。本当に、ありがとうございました!」
去っていくユーリス王子の背中に、私は声をかけた。
きっとこれで言葉を交わすのは最後だろうから、もう一度だけ、感謝の気持ちを伝えておきたかった。
「いいえ、どういたしまして。シビラ嬢の涙を止められたのなら、何よりです」
ユーリス王子は微笑み、令嬢たちを連れて会場に引き返していった。
私は再び一人になった。
でも、悲しい気持ちはすっかり消え去り、手元には王家の紋章が刺繍された絹のハンカチが残った。
約一時間後。
「それでは、三名の婚約者候補を発表します。名前を呼ばれた方はこちらへ来てください」
会場にずらりと並んだ令嬢たちの前で、ユーリス王子は凛とした声で言った。
私の周囲の令嬢たちは、緊張で震えている。
中には祈るように胸の前で手を組んでいたり、きつく目を閉じている令嬢もいた。
でも、私はもう結果を知っているから、ただ静かに立っていた。
スカートのポケットの中には、ユーリス王子にいただいたハンカチがある。
今日の思い出としては十分だ。
王子に優しくしていただけただけで、来た甲斐はあった。
家に帰ったら、お父様たちやビッキーに話そう。
ユーリス王子は見た目だけではなく、中身も本当に素晴らしいお方だったと――
知らないうちに、私の口元には微笑みが浮かんでいた。
「ロクサーヌ・ネージュ嬢。キアラ・ベルムーン嬢」
紺碧のドレスと赤色のドレスを着た令嬢が、次々と前に進み出る。
「それでは、最後に――フィオレット・シビラ嬢」
会場がざわめいた。
ほとんどの令嬢が、フィオレットって誰? という顔をしている。
令嬢たちも驚いただろうけれど、誰よりも驚いたのは私だ。
――え。フィオレット・シビラって、私の名前……よね?
まさか、同姓同名の方がおられるわけではないわよね?
それでは、私が選ばれたということ?
何故? 一体何が起きているの?
「フィオレット・シビラ嬢。こちらへ来てください」
呆然と突っ立っていると、ユーリス王子がもう一度私の名前を呼んで、会場内を見回した。
私は最後列にいるため、王子からは見えなかったようだ。
「は、はい――」
ごくりと唾を飲み込んで、震える足を踏み出そうとしたとき。
「――お待ちください!!」
悲鳴のような声を上げたのは、マチルダ様だった。
「何かの間違いですわ! どうして私ではなく、フィオレット嬢を選ばれるのです!? 私はクルーエル辺境伯の娘ですのよ!? 婚約者候補は私に内定していたはずです!!」
「内定とは、何の話ですか。私は今日、この目で婚約者候補を選んだのです。私の決定に異議があるとでも?」
ユーリス王子は冷ややかな目でマチルダ様を見つめた。
ユーリス王子の斜め後ろに立つ国王様と王妃様は何も言わない。
つまり、これは決定事項ということだ。
バタン、という音が会場に響いた。
見れば、マチルダ様が白目を剥いて卒倒していた。




