04:涙とハンカチ
「特に、何も……風に当たっていただけです」
「そう。みんなが気合を入れて香水を振りかけているせいか、少し気分が悪くなってしまったのよね。ご一緒していいかしら?」
ずるい質問だ。下級貴族には断る選択肢などないのに。
「……構いませんが…… せっかくの機会です。いまのうちに、ユーリス王子とお話されなくても良いのですか?」
私は精いっぱいの抵抗を試みた。
「大丈夫よ。あなたと違って、私は辺境伯の娘だから。お話ししようと思えばいつでもお話しできるの。それに、ここだけの話。私がユーリス王子の婚約者候補になることは、もう決まっているのよ」
得意げに笑って、マチルダ様は遠慮なく私の隣に座った。
「え?」
「あら、まさか本当に、今日この場で王子が婚約者候補を選ぶとでも思っていたの? 馬鹿ねえ。初めから決まっているのよ。婚約者候補の三人として選ばれるのは私と、ロクサーヌ嬢と、キアラ嬢よ」
マチルダ様があげたのは、上級貴族の令嬢たちの名前だった。
「つまり、これは初めから勝ちが決まった出来レース。あなたが選ばれることは絶対にないの。おわかりかしら?」
紅を引いた唇の端を持ち上げ、マチルダ様は私に人差し指を向けた。
人を指さしてはいけない、という基本的なマナーは忘れてしまっているようだ。
あるいは、私には何をしても良いとでも思っているのかもしれない。
「……はい。わかりました」
元々、王子の婚約者に選ばれるなどとは夢にも思っていないし、望んでもいなかったから、ショックはない。
ただ、それなら、こんな地味な色のドレスではなく、可愛いドレスを着てくればよかったと思った。
そうしたら、少なくとも、エイモン様たちに馬鹿にされることはなかったはずだ。
「ふふ。私は二人を蹴落として、必ず王子妃の座をつかんでみせるわ。お父様にも期待されているの。まあ、当然のことよね。地味なあなたと違って私は美しいし――」
マチルダ様は胸に手を当てて何か言っているけれど、右から左へと聞き流した。
私を貶め、ひたすら自分を褒め称える言葉など、真面目に聞いていたくはない。
しばらく喋り倒した後、マチルダ様は話題を変えた。
「ところで、あなた。ここにいるってことは、まだ婚約者は決まっていないということよね? あれから半年が経つというのに、どうして適当なお相手を見つけないの? お兄様にフラれたのがそんなにショックだった? まさか、本気で男爵家の娘如きがお兄様と結婚できると思っていたわけではないのでしょう? だとしたら、ごめんなさい。笑えるのだけれど」
マチルダ様は口元に手をやり、プッと噴き出した。
――どうして笑われなければならないの。
頭の中が沸騰し、私は膝の上で拳を握った。
「……私は、本気でした。失礼ながら、どうしてマチルダ様が笑われるのか、わかりません。おかしいのは、あなたたちのほうではありませんか。そもそも結婚するつもりがないのなら、どうしてエイモン様は私と婚約したのですか」
私からしつこく頼み込んで婚約したならともかく、婚約を申し込んできたのはエイモン様のほうだ。
婚約したなら結婚するのは当然の流れのはず。馬鹿にされる筋合いなんてない。
「ああ、それはね。いい加減に身を固めろと、お母様たちがお兄様に口うるさく言われたからよ。でも、悪評が広がっているせいで、身近な相手では見つからなかった。そこで、身分的にも距離的にも遠く離れ、お兄様の悪評など知る由もないあなたに白羽の矢が立ったというわけ。要するに、都合が良かった。それだけよ」
目の前が真っ暗になった。
愛などなかったのはわかっている。
それでも、やっぱり面と向かって真実を突きつけられるのは辛かった。
エイモン様に捧げた一年は何だったのかと、心が悲鳴を上げている。
「結婚式当日に婚約を破棄したのは悪かったかもしれないなと、お兄様も言われていたわ。でも、早めに知らせてあげたのだから、優しいわよね?」
――悪かった『かもしれない』?
私は唇を噛み、さらに強く拳を握った。
力がこもりすぎて、拳が震えるほどに強く。
――結婚式当日に婚約破棄などという残酷な行為をしておいて、私が傷つかなかったとでも思っているの?
あの後、私が結婚式の参列者たちにどんな視線や言葉を浴びせられたか、想像することもできないの?
――ああ、違う。
この人たちは、全てわかっていて、ただただ、私を嗤っているんだわ……。
「だって、あのまま礼拝堂に行っていたら、あなたは間違いなく見世物になっていたもの。私たちはそれを防いであげたのよ?」
マチルダ様は小首を傾げた。
ほら、感謝の言葉は? と、緑色の目が訴えている。
「……ありがとう、ございます」
震える声で言う。もうたくさんだ。望む通りに振る舞うから、早くどこかへ行ってほしかった。
「ふふ、どういたしまして。じゃあ、私はこれで」
マチルダ様は立ち上がり、長いスカートを上品に摘まんで階段を上っていった。
やがて、その姿は会場の人ごみに混じって見えなくなる。
「…………」
彼女がいなくなってから、ようやく私は握っていた拳を開いた。
爪が皮膚を突き破り、血が滲んでしまっている。
「……大丈夫。ビッキーとも約束したもの。もう泣かないって」
言葉とは裏腹に、水滴が膝に落ちた。
私は指で目元を拭った。
――泣いてはダメだ。あんな最低な人たちのために流す涙のほうがもったいない。もう泣かないと、ビッキーと約束したのに。
そう思うのに、涙はあとからあとから溢れて止まらない。
――悔しい。なんでここまで馬鹿にされなければならないの。あの人たちは、何回私の心を殺せば気が済むの。
「……うぅ、……っ、」
必死で声を殺し、泣いていたときだった。
「大丈夫ですか? 良かったら、使ってください」
――と。
不意に、低く透き通った声が聞こえた。
「…………?」
涙で濡れた顔を上げれば、ユーリス王子が立っていた。
王子は心配そうな顔で屈み、私にハンカチを差し出している。
――え……え?
現実が信じられない。
何故、パーティーの主役がここにいるのだろう。
まさか、私が泣いていたから、心配してわざわざ会場を抜けて来てくださったのだろうか?
あまりの衝撃で、涙も引っ込んでしまった。




