17:書庫でのデート
王宮の東翼にある書庫は静寂に満ちていた。
高い天井、本の日焼けを防ぐために閉められたカーテン、足音を吸う厚い絨毯。
木製書架がずらりと並ぶ空間には、古紙とインクの匂いが漂っている。
いまから夕方六時の鐘が鳴るまで、この書庫は私とユーリス王子二人だけのもの。
贅沢にも、ユーリス王子はデートのために貸し切ってくれた。
「ここにはフィオレット嬢が好きそうな刺繍の参考資料もたくさんありますよ。ごゆっくりお過ごしください」
ユーリス王子は大きなシャンデリアの下で微笑んだ。
「ありがとうございます。殿下も、どうぞ私のことはお気になさらず、心ゆくまで読書をお楽しみください」
「はい。では、私は歴史書を探してきますね」
ユーリス王子が歩き出す。
私はドレスの裾を翻し、刺繍関連の本がある棚に向かった。
王宮書庫らしく、一般の書店では見られない図案集が多く並んでいる。
どれにしようか迷ってから、私は一冊の図案集を手に取った。
頑丈な木の板を表紙とした、古びた図案集だ。
書庫の中央にある閲覧席に座り、本を広げる。
現代では見られないような複雑な紋章や、遠い昔に用いられていた儀礼服の刺繍パターンの数々に、私はたちまち夢中になった。
――そうだ。王家の紋章を刺繍して、ユーリス王子にハンカチをプレゼントするのはどうかしら。この前は薔薇もいただいたし、何かお礼がしたいわ。
不意に、視界の端で人影が動いた。
反射的に顔を向けると、書架の隙間から、ユーリス王子が本を立ち読みしている姿が見えた。
細く長い指先が紙の端にかかり、ページをめくる。
その仕草があまりに優雅で、見惚れてしまう。
伏せられた睫毛は長く、その横顔は絵画のように整っていて……思わず胸が高鳴った。
――本当に、綺麗な人。
王子の横顔をこんなにじっくり眺められる時間など滅多にない。
見過ぎては失礼だとわかっているから、視線を戻す。
でも、一度意識してしまったものはどうしようもなくて。
視界の端にいる王子の姿が気になって仕方ない。
……こんな状態で、読書に集中できるわけがなかった。
しばらくして、王子が一冊の本を手に歩いてきた。
「その図案集は面白いですか?」
「はい。とても参考になります。あの、殿下。よろしければ、殿下の紋章を刺繍したハンカチをお贈りしたいと思うのですが……いかがでしょうか?」
ユーリス王子はアメジストの瞳を何度も瞬かせてから、大きな笑みを浮かべた。
「嬉しいです。楽しみにしています」
まるで子どものような無邪気な笑顔だったから、心臓が跳ねた。
――こ、これは……気合を入れて刺繍をしないといけないわ。
ここまで期待されるとは予想外だ。
しくりと胃が痛くなったけれど、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
この半年間、刺繍漬けの生活を送ってきたおかげで私の腕は一流の針子にも負けない。少しでも家計の足しになればと、刺繍作品でお金だって稼いできたのだ。
「……精一杯努めます」
「ふふ。私のために張り切ってくださるのは嬉しいですが、そこまで頑張らなくともいいですよ。失敗作であろうと何であろうと、フィオレット嬢が作ってくれたものは何でも嬉しいですから。私もここで本を読んでも良いでしょうか? 集中が乱れるようなら、別の場所で読みますが」
「いえ、そんなことはございません。どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます」
王子は微笑んで向かいの席に腰を下ろし、分厚い本を開いた。
本の表紙には、若い男女が手を取り見つめ合う絵が描かれている。
――あら? 王子が読まれているのは、流行りの恋愛小説では?
気にはなるけれど、読書の邪魔をしてはいけない。
王子に続いて、私も手元の本に視線を落とした。
そのまま二人で、読書に没頭する。
静かな書庫に、ページをめくる音だけが響く。
それはとても穏やかで、心が落ち着く時間だった。




