11:蘇るトラウマ
夕食と入浴を済ませた夜。
私は右手に針を持ち、二週間後に着る予定のドレスに刺繍をしていた。
頭の中は今日の散策のことでいっぱいだったけれど、刺繍をしていれば落ち着く。そう思ったから。
上等な紺碧色のドレスの袖には、昨日まで順調に進めていた花模様が浮かび上がっている。
いつもなら、一針一針、糸が布を通る感覚だけに集中できるのに。
――駄目だわ。どうしても、ユーリス王子のお言葉ばかり思い出してしまう。
このままでは手元が狂い、美しい花模様を崩してしまいそうだ。
私はため息をついて、刺繍道具を片付けた。
革張りのソファに身を沈め、テーブルに飾られた一輪の花を眺める。
テーブルに飾られているのは『クイーン・ラケルタ』。
あの後、ユーリス王子は使いの者を通して、約束通りに貴重な薔薇を届けてくれた。
「フィオレット様。魂が抜けたような顔をされていますけれど、一体どうされたんですか。午後からずっと、様子がおかしいですよ。もしかして、デート中にユーリス殿下に何か言われたのですか?」
ピンクの薔薇をぼんやり眺めていると、ビッキーが近づいてきた。
「そんなことは……」
とっさに否定しかけて、口ごもる。
あまりにも、ビッキーが心配そうな顔をしていたから。
――こんなに私を心配してくれているのに、隠し事をするのは、不誠実よね。
「……。いえ、そう、かも……」
「どういうことです? 詳しく教えてください」
たちまち、ビッキーは眉をつり上げた。
たとえ一国の王子であっても、私を傷つける者は許さないと、顔に書いてある。
私はちらりと、壁際に立つアルシアを見た。
ベッキーには何でも話せるけれど、アルシアはそうはいかない。
アルシアは王宮付きの侍女だ。
ここで見聞きしたことを、外で誰かに話す危険がある。
「いまの私の主はフィオレット様です。何を聞いても胸にしまっておくつもりです」
冷静沈着な侍女は淡々と言い、赤い瞳で、じっと私を見た。
「私が信用できないのであれば、出て行けとお命じください。私はご命令に従います」
「……………」
私は迷った。出て行けと命じるのは簡単だ。
しかし、そうすれば、アルシアは心の中で私に線を引いてしまうだろう。
アルシアは表情に乏しい。
私はこれまで、アルシアの笑顔を一度も見たことがない。
だから、アルシアの笑顔を見ることを密かな目標にしていた。
――ここでアルシアを排除してしまったら……きっと、アルシアは二度と私に心を開いてはくれないでしょうね。
それは、とても寂しいことのように思えた。
「……いえ。私は貴女を信じるわ、アルシア。どうかこれからも、ここにいて」
「かしこまりました」
微笑むと、アルシアは右手で眼鏡を押し上げた。
照れ隠しなのか、ただ眼鏡の位置を整えただけなのか。無表情の彼女からは、何もわからない。
「実はその……、ね。デートをしたときに……殿下から、とても気になるお言葉をいただいてしまって……」
どうにも落ち着かず、私は自分の右手の親指を左指で揉んだ。
「なんて言われたんですか?」
ビッキーが切り込んでくる。アルシアはただ無表情で立っている。
「その……いま一番、私が心惹かれているのは……貴女だと、言われてしまって……」
「えええええ!? ロクサーヌ様でもキアラ様でもなく、フィオレット様が殿下のご本命なのですか!?」
ビッキーはひっくり返った声で叫んだ。
「凄いじゃないですか!! この短時間で、いつの間に殿下の心を掴んだんですか!?」
「わ、私にもわからないわよ……ただ、殿下は、私とエイモン様との婚礼の席にご出席されるご予定だったらしいの。それで、私の名前だけご存じだったみたい。パーティーでマチルダ様に意地悪を言われて泣いたとき、私が殿下に訴えなかったのも好印象だったらしいわ」
「なるほど~。つまり、殿下は容姿や地位ではなく、フィオレット様の人間性に惚れたというわけですね。いやあ、見る目がある! 私、ますます殿下のファンになりましたよ。殿下なら安心してフィオレット様をお任せできそうです」
ビッキーはうんうんと頷いた。
「……保護者のようなことを言うのね」
苦笑する。
「保護者ではありませんが、姉のようなものだとお考えください。しかし、現実問題として、フィオレット様が選ばれるとなると、ロクサーヌ様とキアラ様の反応が怖いですね。お二人は上級貴族のご令嬢です。さぞプライドが傷つくでしょうし、フィオレット様に――引いてはシビラ男爵家に悪感情を抱く危険性も……」
「……そうよね。万が一私が選ばれるようなことがあれば、お二人はきっと、私を恨まれるでしょうね……」
私は顔を伏せ、膝の上で両手を組んだ。
ロクサーヌ様もキアラ様も、本当に素敵な方々だ。
彼女たちに冷たい目で見られることを想像しただけで、胸が苦しくなった。
「……いえ。でも、殿下が本気で仰ったかどうかはわからないから。私と全く同じ言葉をお二人に囁かれているかもしれないし。深刻に悩む必要はないのよ、きっと」
私は自分に言い聞かせるように、わざと明るく言った。
「お待ちください。フィオレット様は、殿下がそんな不誠実なお方だと思われているのですか? エイモンのように、ただフィオレット様を弄んでいるだけだと?」
ビッキーは眉をひそめた。
「……。信じたいわ。でも、信じられるわけがないでしょう。もう殿方の気まぐれに振り回されるのは嫌なのよ… 」
――男爵家の娘が由緒正しい辺境伯家に嫁ぐなど、身の丈に合わぬ話だ。
――君だってわかっていただろう?
――私たちは住む世界が違うんだ――
エイモン様の手紙に書かれた文面が、脳裏に蘇る。
――まさか、本気で男爵家の娘如きがお兄様と結婚できると思っていたわけではないのでしょう? だとしたら、ごめんなさい。笑えるのだけれど。
マチルダ様に言われた言葉が頭蓋に反響し、私は頭を抱えた。
――わかっている。ユーリス王子は私をからかわれているだけよ。私に心惹かれているなんて、あんなのはただの冗談。本気で受け取るほうがどうかしてる。私は王子には釣り合わない。選ばれるのはロクサーヌ様かキアラ様。もう十分にわかった、わかってたからもう止めて!!……




