第31話:死線というなの経験
シナモンの身体が、異様なほど滑らかに沈み込んだ。
それは先ほどまでクラウンが命がけで渡り合っていた、ヘインドルの「静止した水面」のような構えそのものだった。
「うおおおおッ!」
クラウンが吠え、地を蹴る。
先ほどヘインドルの刀を折り、勝利を掴んだはずの猛攻。しかし、それを迎え撃つシナモンの瞳には、もはや焦りはない。
――ガギィィィッ!!
凄まじい衝撃。クラウンの渾身の一撃は、吸い込まれるように血刀・血華の腹で受け流された。
紛れもない。先ほどヘインドルが見せた技の極致そのものであった。
「……あはっ! 本当に凄いよこれ。身体が、勝手に『正解』を教えてくれるんだ!」
絶え間ない連撃を繰り出すクラウンの攻めは、あまりにあっさりといなされ続ける。
今ならわかる。ヘインドルの無念が。
これほどの高みに上り詰めてなお、年齢という絶対の存在に抗えない人間限界。
わかっていた。どこにどう攻め込んできて、どう切り返せば勝てるのか。
しかし、身体が動かない。自分が積み重ねた経験と技術が、若さだけの単調な勢いに競り負けた無念が。
だが、それ以上に無念なのは、積み重ねた美しさも、打ち負かされた悔しさも持ち合わせないシナモンという男に、己が磨き上げた技術も経験も盗み取られ、あまつさえ勝利までも奪い去ろうとしていることであった。
負けられない。
実力でヘインドルに打ち負けるのなら甘んじて受け入れよう。
だが、この男だけには負けられない。
いや、クラウンは『勝たなければならなかった』。
偶然にも偉大なヘインドルという男に勝ってしまったクラウンには、その責任がある。
しかし、届かない。どれだけ打ち込んでも体勢は崩れず、先ほどまで相対していた「隙のある」シナモンは、もうそこには存在しなかった。
そこにいるのは、老いとともに身につけた老剣士の完成された枯れた美しさと、若かりし頃に研ぎ澄ませた剛剣をも簒奪した、ヘインドル自身ですら辿り着けなかった「全盛期」を、皮肉にも最悪の形で模倣させた怪物だった。
「……ああはっ! 今度は、僕から行くよ!」
シナモンの身体が跳ねる。それは、老剣士の技術に若者の瞬発力が上乗せされた、理不尽なまでの加速。
(……ッ!?)
死ぬ! そうクラウンが思った瞬間。
これまで無意識に封印していた未来視を、死の恐怖がその鎖を喰い破り、思わず発動する。
クラウンは知っていた。未来視で知り得た未来に備えるように漏れ出る僅かな予兆が、視線や呼吸に現れ、超一流の剣士にはカウンターを狙っていることが見透かされてしまうのだと。
クラウンはそのリスクを本能的に恐れ、無意識にその力に頼ることを拒んでいた。
しかし、死の境界線が鼻先まで迫った瞬間、理性が追いつくよりも早く、生存本能が死を避けるための唯一の選択を最速でたたき出した。
脳裏に映る、数秒先の死の軌道。それを本能のまま実行した瞬間。クラウンは死を確信した。達人たちと刃を重ねた時の必敗のパターンにまさに今陥っていたからだ。
だが、偶然か必然か、クラウンはその死の一撃を見事に回避した。
そのあまりに予想外の出来事に、両者ともに驚きを隠せなかった。
しかし、その意味合いは多少異なる。
確信の一撃を回避されたシナモンの驚愕と、強者たちによって突きつけられ、自らが切り捨てたはずの未来視で回避できてしまったことへの驚きである。
だが、クラウンは驚きと同時に確信した。
目の前にいる男は、自分がしのぎを削ってきた者たちより遥かに弱いのだと。
どれだけヘインドルの技術や技を真似ようと、ヘインドルが嘆いていたとおり、この男には積み重ねた美しさがない。
クラウンが今まで刀を交えてきたヘインドル、ミロット、フォルラら一流の使い手たちが、血と汗と涙を引き換えに得てきた勘、度胸、技術といったあらゆる経験則の上澄みだけを吸い取ってしまった彼には、クラウンの未熟ゆえに生じる僅かな予兆――視線や呼吸すら察知できずにいた。
今にして考えてみれば、確かにそうだった。
クラウンがシナモンに屋敷へ招かれ手合わせをしたあの時も。達人ならば立ち振る舞いだけでクラウンの思考を読み、一本取るべき状況において、シナモンは及び腰になっていたクラウンに対し、一度たりとも斬撃をかすらせることすらできなかったのだ。
「……あはっ、あははは! なんで? なんで今のが当たらないのさ!」
シナモンが叫び、再び肉薄する。ヘインドルの全盛期すら超越させたその剣技は、一太刀ごとに空気を裂き、クラウンの肌を焼くほどの圧があった。
クラウンは未来視を使いながら、死線を潜り続ける。
武の道を極めた者からすれば、それは未熟者同士の荒削りな戦いであったろう。
だが、それゆえに起こり得る、爽快なまでの真っ向勝負は、どこか心を躍らせるものがあった。
(……視える。次だ!)
クラウンは未来視の残像を頼りに、勝機となる一撃を待った。シナモンが踏み込み、その絶対的な剣技でクラウンを仕留めようと攻めに転じた、その瞬間。
クラウンは未来視を起点とした、渾身のカウンターを仕掛ける。
本来、シナモンの持つ技術なら対応できたはずだった。
だが、そこで「バグ」が生じる。
迫りくる刃に対し、達人には決してあり得ない、シナモンの心の奥底にある死への恐怖が、わずかに判断を遅らせた。
技術が「正解」を導き出していても、中身であるシナモンが恐怖で身を竦ませ、本能が拒絶したのだ。
――ドシュッ!!
確かな手応え。クラウンのカウンターは、シナモンの肩口から胸元にかけてを深く切り裂いた。
「……あがっ、は……っ!!」
鮮血が舞い、シナモンが大きく後退する。これまでの激闘で負ったダメージに加え、今のカウンターが決定打となり、勝利の天秤は完全にクラウンへと傾いた。
だが、とどめを刺そうと踏み込んだその瞬間、クラウンの身体がガクリと震えた。限界だった。
無理矢理酷使し続けた身体がついに悲鳴をあげ、未来視の反動からくる疲労感にクラウンは意識が朦朧とし、とどめを刺しきる前に、その場に力なく倒れ込んだ。
双方の激しい呼吸音だけが響く中、シナモンは傷口を押さえ、倒れたクラウンを見下ろした。
「……あはっ、あははは……! 強いなあ、本当に。……今の、死ぬかと思ったよ」
心底嬉しそうにシナモンは告げた。
それは、シナモンが生まれて初めて歓喜したあの瞬間と同様の感情であった。
生まれや血筋にとらわれず、ただの自分の腕一本で成り上がってきた達人たちに向けたあの憧憬にも似た感情。
実力も手数も上回ってなお、突きつけられた敗北感。
シナモンは人生で初めて、敗北したのだ。
それも、たった一点。
死線を超えることでしか得られない「己を賭す覚悟」――ただそれだけを上回られたことで、敗北したのだ。
上澄みをすくい取っただけの借り物の技術では、決して届かない領域。
そのたった一つの差で、自分の全てを叩き伏せてみせた少年の度胸に。
シナモンは心底、酔いしれていた。
「次は、もっと面白い『正解』を見せてよ。それまで……死なせやしないから」
シナモンはクラウンを称えるように微笑むと、倒れた彼をそのままにして部屋を後にした。それは善意などではなく、自分が初めて認めた「最高の好敵手」を、こんなところで終わらせたくないという身勝手な執着だった。
彼を治療させ、いつか再び、この痺れるような殺し合いを再現する。その歪な期待を胸に、シナモンは自らの重傷の身体を引きずり、血を流しながら幾つもの角を曲がり廊下を歩き続けた。
静まり返った廊下の先で、―――ドォォォォンッ!!
前方の壁を突き破って現れたのは、長いコートを翻したハイウェイだった。
「……何、君……だれ……?」
返り血を浴び、血刀を杖代わりに立ち尽くすシナモン。その姿は、ハイウェイの冷徹な眼には「屋敷を荒らし、逃走を図る侵入者の残党」としか映らなかった。
「……ここの兵士、じゃねーよな?」
「え? 待って、僕は――」
槍を突き上げたハイウェイに咄嗟に出た言葉はハイウェイを制止させるには及ばず、シナモンの言葉を代わりに綴るようにグシャッと肉と骨が潰れる嫌な音が響く。
「……完了だ。ったく、もうひとりには逃げられちまったからな。手間をかけさせやがって」
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