大人になったら召し上がれ
※洋酒が入っているチョコレートが登場しますが、未成年やアルコールに弱い方、妊娠・授乳期の方、運転される方への飲食を推奨するものではありません。
「バレンタインの恋物語企画」参加作品です。
「バッカスが無い!」
狭いLDK中に、私の声が響き渡る。
「ごめん。買い忘れちゃって」
夫の陣の声がカウンターの向こうから返ってきた。
「一粒食べて、気合い入れたかった!」
「分かった。今から買ってくるよ」
そう言って、陣はだるだるのスウェット上下にダウンジャケットを羽織って玄関に向かった。
時刻は夜九時。私は「よろしく」と手短に言った。
明日は二月十四日のバレンタインデーということで、勤務先の保育園有志で、職員へチョコレートを贈ることになった。私は予め買っておいた板チョコと生クリームとココアを冷蔵庫から取り出す。
生クリームとココアの封は開いている。昨日試作品を作ったからだ。
「あれ、生クリーム、足りるかな?」
生クリームの小さな紙パックを持ち上げた時、予想よりも軽いことに気付く。昨日レシピを見ながら作った時に分量を間違えて多く使ったか。私はスマホを叩き、昨日見たレシピを確認する。
「まぁ、大丈夫かな」
ケトルで湯を沸かし、耐熱ボウルに注ぐ。一回り小さいボウルに適当に割った板チョコと生クリームを入れて、湯に浸ける。木べらで混ぜながら、湯煎でチョコレートを溶かしていく。
「ただいまー」
メガネのレンズが真っ白に曇った陣がリビングに戻ってきた。ダウンジャケットのポケットから赤い箱を取り出し、キッチンにいる私の元に来る。
「ラミーじゃん、これ!」
「そこのコンビニに行ったらラミーしか置いてなかったんだ。バッカスはまた今度買っておくよ」
「うう。ラミーも好きだから良いけどさ」
私はボウルから手を離し、素早くラミーを開封し、一口かじる。ラムレーズンの香りがすうっと鼻に抜ける。柔らかい噛み応えのチョコレートが口全体に広がる。
「ハァー、キッチンで食べるラミーは最高」
一口かじったラミーをポンと箱の上に置き、私は作業を再開する。
■■■■■
「世莉は、ほんとバッカスとラミーが好きだね。そんなに好きなら、キッチンで食べるんじゃなくて、ゆっくりデザートで食べればいいのに。いつも飯作りながらだよね」
シンク横のカゴに積んでいた食器を布巾で拭きながら、陣は言った。
「キッチンで料理しながら食べるのがカッコいい大人って気がしてさ」
ケトルで沸かした湯とボウルの湯を入れ替えながら私は言った。昨日より板チョコの量は多いが、生クリームは何とか足りそうだ。
「そう? つまみ食いみたいで、俺の母親だったら止めろって言いそうだよ」
スーパー企業戦士だった夫を支えてきたスーパー専業主婦の姑らしいなと思いながら、私は木べらを動かす。
「お母さんが、台所でバッカスを食べてたんだ。仕事から帰って、慌ててエプロンつけて、冷蔵庫からレトルトのハンバーグとか取り出す時に、一緒に緑か赤い箱も出してた」
棚に皿をしまう音を聞きながら、私は続ける。
「お母さんから『大人になるまで駄目』って言われてたから、凄く憧れだったんだよね。一つ口に入れた瞬間、お母さんの顔がニコッてなるの。あの顔が見たくて、台所を覗くんだけどいつも『向こう行け』って言われちゃうんだ」
銀色のバットを取り出し、クッキングシートを敷く。そこに溶かしたチョコレートを流し入れる。
「二十歳の誕生日に自分でバッカスとラミーを買ってきて、お母さんと一緒に夕飯を作りながら食べた時は感動して泣いちゃって。お母さんはめちゃくちゃ笑ってたけど」
表面が滑らかになるように整え、冷蔵庫のドアを開ける。タッパーや小鉢を移動させてどうにかバットを押し込めた。
「さて、固まるまで休憩。お風呂入ってくるね」
そう言って私はかじりかけのラミーを口に放り込んだ。
「うん、美味しい〜。でもバッカスの方が食べかけを置く必要ないから、ついバッカスばっかりになるんだよね」
「だからラミーもバッカスも、ながら食いしなきゃいいんだよ」
とっくに食器を片付け終えた陣が、笑いながら言った。壁にもたれて立っている彼の前を通り過ぎ、私は脱衣所に向かった。
■■■■■
入浴後、リビングソファで陣と一緒にネトフリドラマを流し見終えた頃、壁掛け時計を見る。
「十二時半か。もう固まっているかな」
私はソファから立ち、キッチンへ向かう。陣はスマホで天気予報を見ていた。
冷蔵庫から取り出したバットを乾いたまな板の上でひっくり返す。四角いチョコレートの塊はクッキングシートから綺麗に剥がれ、まな板にどんと載った。
それを包丁で一口サイズに切り分け、仕上げにふるいを使ってココアを振りかける。専門店で買った少量だけどちょっと良いココアだ。余っても飲むことは無いので、全部使ってしまう。
サラサラのココアを纏わせ、生チョコの完成だ。私は一粒味見し、買っておいたラッピング用の箱や袋を棚から取り出す。
「俺も食べたい」
陣がキッチンにやってきて、私の隣に立った。
「これは駄目。昨日、試作品をあげたでしょ」
「仕方ないなぁ。交換じゃなくてプレゼントか」
「は?」
陣は冷蔵庫のドアを開け、小さなタッパーを取り出した。さっき私が移動させた、中身がよく分からないやつだ。
私と陣は、休みが合わない。今日、陣は休みだったので、夕飯を作ってくれていた。だから出汁取りした昆布の切れ端かなと思っていた。
「何それ?」
「ハッピーバレンタイン」
陣は青い半透明の蓋をぺろりと剥がした。彼の手の平よりも小さいタッパーの底部分が茶色くなっていて、内側角部分からクッキングシートの端がはみ出ている。
「バッカスで生チョコを作りました!」
「え、いつの間に?」
「今日、夕飯作った時のついでに。仕上げのココアは、もう無い?」
陣は空になったココアの袋を見る。
「だって、余っても仕方ないし」
「ふーん。まっ、このままでいっか」
陣ははみ出ているクッキングシートをつまみ、タッパーから剥がした。一緒に上の茶色い塊も出てきて、ペロペロと綺麗にクッキングシートから剥がれた。四角い茶色い塊を、陣は半分ずつになるよう指で千切った。塊はふにゃんと二つになった。
「うん、いける、いける。美味いよ」
プレゼントと言いながら、陣は私が受け取る前に片方を口に詰め込んだ。ラミーよりも少し面積のある、ギリギリ形を保っている柔さのチョコレートを私は一口かじる。
「う、うまぁ……」
バッカスの芳醇な風味が口全体的に広がる。チョコレートの甘さと生クリームのまろやかさが、優しくとろけていくようだ。
「いつも、ありがとう。愛してるよ」
二口目で残り全部を口に入れた瞬間に言われ、私は思わずむせた。
「な、何よ、急に!」
「今日はバレンタインだろ? 愛の告白」
「だからって、今言う? ヒゲ剃りサボって髪ボサボサのままで。私はすっぴんで、『賀梨高校庭球部』ジャージ着てるし! てか、せめてラッピングしなさいよ!」
恥ずかしさ・照れくささに頭を支配されて、私はチョコが残る口でまくし立てた。陣はそれを聴きながら笑った。
「じゃあ今日の仕事終わりに、ちゃんとした格好でもう一度言おうか。俺、明日の土曜日も休み取れたんだ。世莉も休みだろ」
「うん、今週は土曜日保育担当じゃないから」
「終電気にしなくて良いし、一旦家に帰って、着替えてから、飯食いに行こうよ」
「終電気にしないって、家に帰らないの?」
「良いじゃん、泊まるの。結婚してからは行ってないし」
「……バカ」
顔が熱いことに気付き、私は箱に詰めた生チョコを冷蔵庫に入れてから、キッチンを離れる。
「ちゃんとお風呂入って、パンツ履き替えてね。私はもう歯磨きして寝るから!」
「店、どうする? 久しぶりにあの店行く?」
「そうね。予約取れそうなら、お願い」
私はせかせかと廊下に出て、洗面所に行く。
洗面台の鏡に映る自分の顔は、まだ少し赤い。歯ブラシを咥えながら私は、お正月セールで買ったワンピースの値札をまだ外していないことを思い出していた。
バッカスが無かった理由。
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本当はちゃんと世莉用・チョコレート用に二箱買ってたけど、生クリームと牛乳を間違えた&10ccを100ccと間違えたので、一箱分はショコラショーたっぷりサイズとして、陣が美味しく頂きました。原付に乗るのを控えた為、世莉が帰ってくるまでにバッカスを買いに行けませんでした。夜九時に出かけた時も徒歩だったので、寒くてバッカスを買うまで他のコンビニに行くという選択をしませんでした。
ちなみに生クリームが少なかったのは、陣が10cc使ったからです。
生チョコについて
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世莉は生チョコと保冷剤を保冷バッグに入れて持って行き、園に着いたらすぐに職員用冷蔵庫に保管しました。
2025/03/06追記:タイトル画像を添付しました。