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どす黒い盃

2008年 東京・韓国街

「おい、ここは立ち入り禁止だ! 下がれ!」

 警視庁の刑事が、規制線の前で一台の黒いバンを制止した。

「あん? 何があった」

 バンの窓から顔を覗かせたのは、小原一家総長・星山だ。刑事は星山の顔を見るなり、苦虫を噛み潰したような顔で無線機を取った。

「おい、富山! 丁度いい、小原一家だ。署に連行して話を訊くか?」

 奥から、暴力団対策課の富山刑事が駆け寄ってくる。

「どうした富山さんよ、穏やかじゃねえな」

「……米田組の連中がやられた」

 富山の絞り出すような声に、星山は息を呑んだ。

「は? 何だと」

「バラバラだ。あんたらの仲間が、原型も留めない肉塊になって転がってる」

「待て……嘘だろ……」

「お仲間は武器を持ってた。公務執行妨害に銃刀法違反、上は事務所の強制捜査を命じるだろうよ。悪いが、今はこれ以上近づかせられねえ。とりあえず、親父さんに伝えろ」

 富山は周囲を警戒するように見回すと、車体に身を寄せ、星山の耳元で低く囁いた。

「……犯人の手口、9年前のあの事件とそっくりだ。『人斬り糸平』。奴の仕業だと俺はみている」

「何だと!? あのクソ野郎、やはり野に放つべきじゃなかったんだ……!」


 『人斬り糸平』。世間では、精神を病んだ怪物としてその名を知られている。

 9年前、チェーンソーを手に無差別殺人を繰り返した凶行は日本中を震撼させた。警察に追い詰められた彼は、逃げ込んだ民家の無実な家族を巻き添えに、硫酸を被って心中を図った。硫酸は糸平の顔面を無残に焼き尽くしたが、警察の突入により死ぬことさえ許されなかった。

 その後の調べで、彼は過去に実の妹を襲い、長らく精神病院に収監されていた経歴が発覚した。事件は「脱走中」の凶行であったため、刑事責任能力を問われず、死刑どころか刑務所にさえ送られなかった。彼は「医療観察法」という盾に守られ、特別な病棟へ措置入院となった。

 だが、あろうことか、わずか2年で彼は退院した。

 あのような怪物がいとも簡単に自由の身になったのだ。硫酸で醜く崩れた顔の裏側に、煮え繰り返るような憎悪を秘めて。そして今、その殺人鬼が「韓国街の死神」として再臨した。


2日後 遊園街

「やはり、見事なまでに釣られてくれたねぇ」

 大北組組長・摂津は、不気味に整えられた顎髭を指でなぞった。

 側近の錦田が、書類に目を落としながら答える。

「へい。どうやらそのようです。ですが、糸平がバラした連中は、末端の若い衆ばかりだそうですが」

「いいんだよ。小原や米田の戦力を少しでも削れればね。それに、彼らは馬鹿じゃない。ファインのような末端の枝を叩くより、直接『本丸』を狙ってくるはずだ」

 摂津の口元に、歪な笑みが浮かぶ。

「最悪、直接ここに来るかもしれない。だが……満堂の仇を討つ絶好の機会じゃないか。なあ、糸平?」

 部屋の隅、暗がりに蹲っていた影が、ゆっくりと立ち上がった。

「そうですね、オヤジ。早く、星山とかいう脳筋を刻んでみたいなぁ……イヒヒヒ……!」

 その笑い声を聞いた錦田の顔が、嫌悪感で歪んだ。糸平の異常な所業は、同じ極道の目から見ても吐き気を催すものだったのだ。

 摂津は満足げに頷き、殺人鬼を労った。

「米田・小原との決戦に備えろ。今日はもう帰って休め、糸平」


翌日 獄界町

「あいつがこのタイミングで現れたのは、決して偶然じゃない」

 情報屋の笹山は、揚げたての天ぷらを星山の前に置きながら、重々しく口を開いた。

「やはり、ファインが雇ったのか?」

 星山の問いに、笹山は首を横に振った。

「関係はもっと深い。奴らは『兄弟分』だ」

「何……!?」

「そう、そのまさかだ。糸平は大北組に入ったんだよ。ファインは形式上、摂津と盃を交わした子分だが、数ヶ月前、糸平も摂津と盃を交わしたという情報がある」

「……摂津のおっさん、正気か!? あの怪物を身内に引き入れるなんて」

「善輪会の内戦が始まる前から、あの男には嫌な予感がしていた」

 笹山は深く溜息をつき、手元の茶を啜った。

「善輪会は、古臭いが『仁侠』の看板を背負っていた。だが、摂津が実権を握ってからの大北組は違う。手段を選ばない、血の通わない獣の集団に変わり果てた気がするよ」

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