第九話
儀式をする場所も決まったことで、翌日の練習にも身が入った。
「週末は運気もいい」とソロモンも地下の儀式であるが納得してくれた。運気がいいんじゃ。
しかし、高まるモチベーションとは裏腹に、その日の練習は午前中でお開きとなった。ニュートンは「盛り上がってきてんだろ!」とブーブー文句を言ったが、ソロモンと伯爵にはまだやる事があるのだそうだ。
「まだ、呪文ができていないんじゃよ」
「呪文?」
海江田には何のことか解らない。
「要するに方程式をわかりやすく詩のようにしたものじゃ」
呪文は基本的にニュートンの論文にある方程式を解りやすくしたもの、三百年後の世界で言えば「歌詞」に当たる。
その後、暇になってしまった海江田とニュートンは、儀式に必要なロウソクやらの材料の確認に代理店の倉庫に向かった。
「洗濯バサミと紐がありませんね」
二人は近所のドン・キホーテに足りないモノを買いに行くことにした。
このドン・キホーテという店、自分を英雄騎士だと思い込んでいるスペインの下級貴族ドン・キホーテが冒険の先で手に入れたモノを店で売っている当時の欧米で流行った大型チェーン店である。
元々悪人から押収したり、戦場で敵から強奪してきたモノばかりなので、仕入れが安く、低価格での商品提供を可能にした、乱世の欧米ならではのお店なのである。
店に向かう間、二人は道行く女性の姿は極力見ないようにした。
「儀式前は不純な気持ちはなるべく抑え、神聖な気分を上げていくように」と伯爵とソロモンから言われていたからだ。
「隠れて悪さをしても神様というのは、いつも我々を見ているのじゃ」
と、ソロモンに言われた二人。
ソロモンの言っていることは尤もであった。
二〇二一年現在。
日本の総人口は一億三千万人なのに対し、日本に住んでいる神様は五十兆六十五億人と言われている。八百万の神と言われていた太古の昔から比べると、この人口増加率は人間をはるかにしのぐ勢いである。
「むしろ不純なのはどっちだ?」と文句の一つも言いたいだろうが神様はいいのだ。神様とハムスターとマンボーは子供を産むのが仕事なのである。
十七世紀当時のイングランド国内の神様人口は、推定で二兆二千億人と言われている。
人間には目が届かなくても、そこらへんにウジャウジャいる神様には見られているのは当たり前なのである。
公衆便所でオシッコをしている時、隣の便器から強い視線を感じたら、ほぼ間違いなく神様である。シャンプーをしている時に背後に感じる気配も大抵は神様なのだ。
向かいのホーム、路地裏の角に人を探してしまうのは、神様の気配がするからだ。
なので、禁欲は徹底して行わなければならなかった。
三百年後の世界でも、禁欲を油断してネット上でプライベートの画像があらわになってしまう人々は多い。あれは、全部神様の仕業なのである。
二人はドン・キホーテで洗濯バサミを選んで回った。
後の海江田の手記によると、この時、二人の間に小さい亀裂が入ったのだという。
ニュートンは自分から言い出した儀式であるため「どんな辛い儀式でも耐える」と覚悟を決めていた。よって洗濯バサミも『どんなに痛くてもいいから、とにかく引っ張っても乳首から取れない』モノを選びたかった。
しかし、海江田は違った。
ニュートンの儀式を支えたいという気持ちはあったが「痛いのは嫌」と言葉には出さないが、ブレない心を持っていた。そして、東洋から来た貧弱な乳首には、欧米の強力な握力に慣れた洗濯バサミは荷が重すぎた。
「ニュートンさん、これにしませんか?」
海江田が陳列された洗濯バサミの一つを手に取ると、ニュートンは「よしきた!」とシャツをめくり、当たり前のようにビーチクに挟んだ。
どんな風が吹いても決して洗濯物を離すまいと意気込みを持つ洗濯バサミが、乳首を握り潰そうとしているにもかかわらず、ニュートンは表情を一つも変えず、海江田にこう言ったという。
「海江田さん、これじゃスグに取れちゃうよ。ソロモンのジジィが言ってたろ。儀式中は思いっきり引っ張りあった方がいいって」
「いや、そうですけど。僕は初心者ですし」
「俺だって初心者だよ。儀式を完成させるには、我慢も必要だろ。解ってくれよ、海江田さん」
「ですけど。段階を踏んで言った方がいいと思うんですよ」
海江田の言い分など、聞いていないようにニュートンは洗濯バサミを凝視してどれにするか選んでいた。
「おっ! これなんかどうだ?」
ニュートンはそう言って先端に紙やすりがついた洗濯バサミを手に取った。商品名も『潰す!』というシンプルな名前であった。
海江田はこの時「僕はとんでもない事を引き受けてしまったのではないか?」と初めて後悔したという。
「これなら、どんだけ引っ張っても外れないぜ! よし決まり」
海江田の意見など聞かず、ニュートンはそれを十セットほど買い物カゴに投げ込んだ。
「ちょっと待ってくださいよ。こんな強烈なので挟んだら!」
海江田がニュートンを止めたが、聞く耳を持たず、次の売り場へ向かってしまった。
この時のどれほどの不安に襲われていたのかを海江田は手記でこう綴っている。
『ニュートンさんが紙やすりの洗濯バサミをカゴに入れた時、私の股間は縮み上がった。もちろん、私も紙やすりに耐える練習をしたかった。しかし、SMクラブ、イメクラ、大根おろしで乳首をこするゲームなども、儀式前に禁欲をしている身では行う事はできなかった。私には、これに耐える為の練習をする術がなかったのだ。
文字通りの八方塞がり、ぶっつけ本番で儀式を迎えるしかなかった。それがどれだけの恐怖かは、皆の想像に任せたい』
その後、二人は紐を選びに、別のフロアへと移動した。
「なぁ、海江田さん。ゴム性の伸縮自在の紐の方が、見ている客にはインパクトを与えられるんじゃないか?」
ニュートンがそう聞いても、この時の海江田は不安で声など届いていなかった。
「おい、海江田さん! 真面目に選べよ! もう時間ないんだよ!」
「あ、すいません」
不安な顔をしている海江田が、ニュートンには「やる気がない顔」と映ったのだ。
一流の物理学者を目指すと決めた時から、ニュートンはあうる決意をしていた。それは『儀式の役に立たない者は容赦なく切り捨てる』というモノだ。
一見、非情に見える考えだが、争いの激しい学者業界で生き残って、スターになろうとすれば、仲良しチームで馴れ合っているわけにはいかないのだ。
現にのちの焼却処分されたニュートンの日記には、この日の事はこう書かれていた。