九
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そこへ祖母が帰ってきた。だがなにも言わず、平吉に挨拶をするよりも先に、
「さあ」と言って、本を差しだした。
織次は獅子の舞の踊り手が台に飛びあがるかのような勢いで、上から新撰物理書に飛びつくと、前のめりになってそれを見た。黒表紙には綾があり、艶があって、真っ黒な蝶々のビロードの羽のように美しかった。表紙を開くと、きらきらと文字が光って、せせらぎのように動いて、なんというか、言いようのない強い香りがプンとして、目と口に染みこんだ。中に描かれた機械の図などは、ずっしりとした黒鉄の楯のようにランプの前に浮かびあがり、絵に描かれたガラスがパッと光った。
さて、祖母の話では、古本屋はあの錦絵を五十銭から値を付けはじめて、最後は七十五銭より上は出せないと言った。それから上は半銭たりとも付かないと断る。買いたい物理書は八十銭である。どうなろうとすぐに買って帰って孫の喜ぶ顔が見たい祖母は、考えあぐねて、店先に腰かけて、時雨で白髪を濡らしていた。するとそこの亭主が、それでは婆さんこうしなよ、と教える。ここにそれ、初めの一冊だけ、表紙にちょっと竹べらで折り返しの跡がついた、古本の出物がある。定価から五銭値引きして、帳尻を合わせてやる。これを孫に持っていってやるがいい、と始末をつけた。ざっと二百枚の国貞の絵が、かろうじてこの四冊の、しかも古本と取り換えられたのである。
それを聞いた平吉は憤慨した。なんにも言うなと一円を出した。
「織坊、母様の形見だ。お祖母さんと一緒に行って、今度はお前が背負ってこい」
「あい」
と、四冊の本を持って立つと、
「道が悪い。途中で落として汚してはたいへんだ。一冊だけ持っていらっしゃい。また、抱いて寝るのじゃろうの」
と、祖母もにっこりして、嫁の形見を取り戻すための二度目の外出はいそいそとしたそぶりだった。そんな祖母さんに手を引かれて、キチンと小口を揃えておいたあとの三冊の姉妹を父の膝もとに残しながら、織次は出しなに台所をそっと覗いた。灯は棕櫚の葉風に自然と吹き消されたらしく、真っ暗闇で、もうなにも見えなかった。
雨は小止みになっている。
織次は夜道をただ夢中に、本の匂いを嗅ぎながら歩いた。
古本屋はたしか、今日、この平吉の家に来るときに通った、あの湯屋から四、五軒手前にあったと思う。四つ辻に差しかかったところで祖母が破れ傘をすぼめると、まるで蓋を取りはらったように蒼く光る月が出た。山々はまるで骨のように白く澄んだ形を見せ、兎のような雲が走る。
織次はふと、夜店が出ていたころに、銀河の上に見た幻の女のことを思って、さっきとぼとぼと地獄へ追いやられた大勢の姉様たちは、まさに救われて、あんなふうに天に昇るのだと心が勇んだ。
一足先に駆け出して、見覚えのある古本屋の戸口に近寄ったが、店も大戸も閉まっていた。厳しい寒さに雨が降ったせいで、町はしんとして、どこにも灯の光は見えない。
「もう寝たかの」
と祖母がせかせかと近づいていくと、
「ごめんください、ごめんください」
と遠慮がちに店先の戸を叩いた。
「なんじゃ」
と、太い声がする。戸に取りつけた箱のような臆病窓を開けて、窓枠に句切られた四角い顔を覗かせたのは、左右がつながりかけたような眉をして、頬が膨れて、への字の口をして、小鼻の筋から顎にかけていちめんに薄髭を生やした、古本屋の亭主だった。……この顔と、そのときの口惜しさを、織次はどうしても忘れられない。
亭主は、絵はもう人に売った、と言った。
知っている客であれば、連絡を取ってほしい、そこへ行って頼みたい、と祖母が言うと、ちょいちょい見かける男だが、この土地の者ではねえの。越後へ行く飛脚だから、脚が速い。今頃はもう二股を半分越したろう、と小窓に頬杖を支いてあざ笑った。
買い手がすぐに付く、売れ筋の別嬪の絵だった。おぬしが帰ってすぐに、店の燈の下で、あの縮緬着物の絵を散らかして、扱帯も襟もさらけ出して見ていたところに、三度笠を横っちょにかぶり、雨具に豊島茣蓙を背負って、脚絆に草鞋ばきでサッサッとやってきた。その足の長い大男が通りすがりにじろりと見たかと思うと、いきなり値をつけてズバリと買って、濡らしちゃならぬと腰につけ、上帯をきりりと結び添えて、雨のなかをすたすたと行方知れずよ。……
「わかったか、お婆々」と言った。