八
八
台所と、この上がり框を隔てる板戸に、この地方の慣習で、蘆の簾が掛かっている。それが、破れて、断れて、その上、手の届かないところに何年分かの煤がたまっているのを見ると、まるで廃屋になった相馬の古内裏めいている。
その簾の蔭に、背後に遠い灯をちらつかせて、お納戸色の薄い衣を着て、板戸にぴったりと身を寄せながら、いま出ていった祖母の後ろ影をじっと見送るように佇んでいる女がいた。
ひと目見て、幼い織次は、それがこの現世にない者の姿だとわかった。しかし驚きもせず、ぼんやりとして、小さな身体で立ちつくしていた。
その幼子に振り向けた、気高い真っ白な顔が、雪のようにサッと消える。そのときキリキリキリ――と台所を六角形に井桁で仕切った、内井戸の釣瓶が掛かった滑車が鳴る。続いて小皿がカタリと響いた。
流しのところに、浅葱色の髪飾りが、思いがけず雲間から差しこんだ濃い月の光のようにちらちらとして、黒髪の後れ毛がはらりとかかる、すっと鼻筋の通った横顔がほのかに見えると、白い布巾がひらりと動いた。
「織坊」
と父が呼んだ。
「あい」
織次はばたばたと駆け出して、そのときまで同じ場所で、絵に描いたようにじっとして動かなかった、草色の半纏を着た父親にしがみついた。
「ああ、母親のような返事をするなあ。そっくりだ、いまの声が」
と言いながら、織次を膝に抱く。幼子は父親の胸に抱きつき、
「台所に母様がいたよ」
「ええっ!」と、父親が膝を立てた。
「祖母さんの手伝いをしていた」
親父は、そのまま幼子をしっかりと抱いて、
「織坊、本を買って、なにを勉強する」
「ああ、物理書をぜんぶ読むとね、母様のいるところがわかるって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの。でも台所にいるんだもの。もう買わなくてもいい。……おいでよ、父上」
と言って、手を引っぱると、父親はためらいながら、無駄足だとわかっていながら、畳の上をとぼとぼと歩いて、板の間へ出た。
その足音よりも激しく、鼠の駆ける音がして、窓からは棕櫚の骨がバサリと覗く。そこには、あの、浅葱色の髪飾りの影もない。
織次はわっと泣きだした。
父はそこに立ちつくして、幼子の背をさすりながら、わなわなと震えた。
雨の音がサッと高まる。
「おお、冷てえ、本降り、本降り」
と、声を張りあげて門を入ってきたのが、帰郷した織次がここで向きあっている、小北平吉、平さんであった。
唐傘をガサリと立てかけて、提灯をフッと消す。蝋燭の匂いが立って、家じゅうに仏壇の薫りがした。
「やっ! 人情場面だね。どうなさった、父さん。お祖母はどこへ行った」
そして父が一部始終を話すと――
「あっしが立て替えましょう。惜しい話だ。七貫や八貫で手放すことはありません。古本屋がいくらで買うかはわからないが、さしあたり、その物理書というのを買いなさる、ね、それだけここにあればいいわけだ、とまずそういったわけだ。古本屋の買い値がぎりぎりの値段ならば買い戻すとする。高く買っていたら、売買を取り消しにする、ね。なにしろ、ここは一つ、私に立て替えさせておおきなさい。……そらそら、始まった、始まった、いつものやつが。こんなことに済まないも義理もあったものじゃねえ、ええ、君」
と、学生を気どった口ぶりで、
「だから、気が済まないなら、僕に預けたまえ。ね、僕はかまわん。かまわないけれど、立て替えさせただけじゃ気が済まないというんなら、その金ができるまで僕が預かっておけばいいでしょう。さ、それで決まった。……ここはもう、にっこりとしてくれたまえ。君、しかしなんだね。こういうことになるから、子どもに学問なんぞさせねえほうがいいんじゃないかね。くだらない。織公もかれこれ十一歳。吹子をばたばたさせるくらいは勤まるってもんだ。二銭、三銭の足しにはなる。それ、すぐにヒジキの代金が浮いて出るというものさ。……実のところ、僕の恋人の姉なんぞも、この家に一人、二度目の妻を世話してやろうと言っていますがね。お互いこの仕事で、職人が子どもに本を買ってやる苦労をするようじゃ、将来を考えると嫁のあてがないってものだ。ね、祖母が孫と君の世話をして、この寒空に水仕事をしている。
かわいそうな婆さんじゃないかい、とその姉がいつも言っています」
……ここに出てきた、その恋人の姉というのが、隣室の長火鉢のところに来ている婆娘である。