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 親父(おやじ)はその晩、一合の酒も飲まないで、火屋(ほや)のひび割れに紙が貼られ、笠の(すす)けた、燈火(ともしび)の赤黒いランプの(もと)で、(ぜん)を片づけたあとも、長火鉢の向こうの細工場(さいくば)に立とうともせず、(そで)()ぎをあてた、黒の呉絽服連(ごろふくれん)地の半襟(はんえり)が破れた、千草(ちぐさ)色の半纏(はんてん)の懐に片手を突っこみ、立てた膝を支えに頬杖をついて、支えられたその面長(おもなが)思案顔(しあんがお)を重たそうにして、黙ったままでいる。

 ちょっと取りつく島もないから、

「だって、欲しいんだもの」と言い捨てて、ちょこちょこと板の間を伝って、だだっ広くて寒い台所へ行く。すると向こうの隅に、霜が降りている。……そこでは、頭巾(ずきん)もかぶらず、白髪をおばこ結びにした祖母(おばあ)さんが、がちがちと冷たい音をたてながら、皿小鉢を洗っている。

「買っとくれよ、よう」

 と、聞き分けもなく織次(おりじ)は、祖母(おばあ)さんの(たもと)にぶら下がった。流しは高い。台所の破れたごみ箱の上下を、ちょろちょろと(ねずみ)が走って、小さな石油ランプが蜘蛛の巣の向こうで、ぼおっと光をたたえている。

「よう、買っとくれよ。お弁当は梅干しでいいからさ」

 祖母(としより)は織次の顔を見て、しばらく黙っていたが、

「おお、どうにかして進ぜよう」

 と、洗いかけた茶碗をそのままに、前垂れで手を拭きながら、氷のような板の間を通って店の畳に引き返して、火鉢の前で力なげに膝をつくと、まだうつむいたままの姿の親父(おやじ)の背中を見ながら、

「のう、そうさっしゃいよ」

「なるほど」

「ほかでもない織次のことだから、亡嫁(あのこ)も喜ぼう」

「それでは、母様(おっかさん)、ご苦労をかけますが」

「なんの、お前」

 と言うと、納戸(なんど)へ入って、戸棚から持ち出した風呂敷包みに包まれていたのが、その錦絵だった。二百枚以上の国貞(くにさだ)の絵。虫干しのときやひな祭り、秋の長夜の折々ごとに目にしていたから、それで親しんだ姉様(あねさま)の姿は数え切れない。下谷(したや)伊達(だて)な女も、深川の婀娜(あだ)な女も、たんと描かれていた。

 祖母(おばあ)さんは風呂敷包みを下に置いて、

「一度、見さっしゃるかい」と親父(おやじ)(たず)ねた。

「いや、見ますまい」

 と、顔をそむける。

 祖母(としより)は解きかけた結び目をそのまま結わえて、ちょいと(えり)を引き合わせた。細い半襟(はんえり)半纏(はんてん)の袖の下にそれを抱えて、店の外れにある板の間から土間に下りるときに、暗いところで、

可哀(かわい)やの、姉様たち。わしが(もと)を離れても、蜘蛛男(くもおとこ)に買われっしゃるな、二股坂(ふたまたざか)へ行くまいぞ」

 と小さな声で言い聞かせた。織次は子ども心にも、その絵を売って金に換えるのだと思った。……顔なじみの濃い(くれない)、薄紫、雪の(はだえ)の姉様たちが、すっと(かど)を出て、この闇夜のなかを行く……そう思うと、ふと寂しくなった。それでも、(べに)白粉(おしろい)がなんのそので、新撰(しんせん)物理書(ぶつりしょ)の黒表紙が四冊並んで、目の前でひょいと踊った。

「待ってございよ、(おり)や」

 ごろごろと引き戸の音が静かに鳴る。

 台所で、どどん、がたがたと、鼠が荒野を駆ける物音を立てる。

 すると祖母(としより)が軒先から引き返して、番傘を持って出直しながら、

「あの、台所の(あかり)を消しといてくらっしゃいよ、のう」

 と言い残すと、(かど)の戸がガタリと閉まった。

 下駄の音はコトコトと、どこまで行くのだろう。時雨(しぐれ)雨脚(あまあし)がサッと通っていく。祖母(としより)に導かれた哀れな振袖(ふりそで)が、詰袖(つめそで)が、(つま)を取ったり、裳裾(もすそ)を引いたり、鼈甲(べっこう)(くし)を照々(てらてら)とさせ、銀の(かんざし)を揺々(ゆらゆら)させて、真っ白な(はぎ)(あら)わに、友染(ゆうぜん)の花の幻のように、雨具もなしにびしゃびしゃと、裸足(はだし)で田舎の、山近(やまぢか)な町の暗夜(やみよ)をたどり行くさまが、雨戸の破れ目から朦朧(もうろう)として透かし見えた。

 これも科学の権威である。物理書というものが掲げる学問の威光で幼い(まなこ)(くら)ませて、その美しい姉様たちを、追い立て、追い立て、叩き出すことになった黒表紙の残酷さは、大人になったいまでは鬼にも思える。

 台所の(ともしび)は、遥かな奥山の一つ()のように点っていた。

 いつもならその壁の上にある窓からは、隣の空き地に生えた棕櫚(しゅろ)の樹が、風にも雨にもばさばさと髪を揺すって、骨だけになった団扇(うちわ)のような顔を覗かせるのだが、その夜は妙にしんとして、気配も感じさせない。

 鼠もひっそりと、なりを(ひそ)めた。

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