七
七
親父はその晩、一合の酒も飲まないで、火屋のひび割れに紙が貼られ、笠の煤けた、燈火の赤黒いランプの下で、膳を片づけたあとも、長火鉢の向こうの細工場に立とうともせず、袖に継ぎをあてた、黒の呉絽服連地の半襟が破れた、千草色の半纏の懐に片手を突っこみ、立てた膝を支えに頬杖をついて、支えられたその面長な思案顔を重たそうにして、黙ったままでいる。
ちょっと取りつく島もないから、
「だって、欲しいんだもの」と言い捨てて、ちょこちょこと板の間を伝って、だだっ広くて寒い台所へ行く。すると向こうの隅に、霜が降りている。……そこでは、頭巾もかぶらず、白髪をおばこ結びにした祖母さんが、がちがちと冷たい音をたてながら、皿小鉢を洗っている。
「買っとくれよ、よう」
と、聞き分けもなく織次は、祖母さんの袂にぶら下がった。流しは高い。台所の破れたごみ箱の上下を、ちょろちょろと鼠が走って、小さな石油ランプが蜘蛛の巣の向こうで、ぼおっと光をたたえている。
「よう、買っとくれよ。お弁当は梅干しでいいからさ」
祖母は織次の顔を見て、しばらく黙っていたが、
「おお、どうにかして進ぜよう」
と、洗いかけた茶碗をそのままに、前垂れで手を拭きながら、氷のような板の間を通って店の畳に引き返して、火鉢の前で力なげに膝をつくと、まだうつむいたままの姿の親父の背中を見ながら、
「のう、そうさっしゃいよ」
「なるほど」
「ほかでもない織次のことだから、亡嫁も喜ぼう」
「それでは、母様、ご苦労をかけますが」
「なんの、お前」
と言うと、納戸へ入って、戸棚から持ち出した風呂敷包みに包まれていたのが、その錦絵だった。二百枚以上の国貞の絵。虫干しのときやひな祭り、秋の長夜の折々ごとに目にしていたから、それで親しんだ姉様の姿は数え切れない。下谷の伊達な女も、深川の婀娜な女も、たんと描かれていた。
祖母さんは風呂敷包みを下に置いて、
「一度、見さっしゃるかい」と親父に訊ねた。
「いや、見ますまい」
と、顔をそむける。
祖母は解きかけた結び目をそのまま結わえて、ちょいと襟を引き合わせた。細い半襟の半纏の袖の下にそれを抱えて、店の外れにある板の間から土間に下りるときに、暗いところで、
「可哀やの、姉様たち。わしが許を離れても、蜘蛛男に買われっしゃるな、二股坂へ行くまいぞ」
と小さな声で言い聞かせた。織次は子ども心にも、その絵を売って金に換えるのだと思った。……顔なじみの濃い紅、薄紫、雪の膚の姉様たちが、すっと門を出て、この闇夜のなかを行く……そう思うと、ふと寂しくなった。それでも、紅、白粉がなんのそので、新撰物理書の黒表紙が四冊並んで、目の前でひょいと踊った。
「待ってございよ、織や」
ごろごろと引き戸の音が静かに鳴る。
台所で、どどん、がたがたと、鼠が荒野を駆ける物音を立てる。
すると祖母が軒先から引き返して、番傘を持って出直しながら、
「あの、台所の燈を消しといてくらっしゃいよ、のう」
と言い残すと、門の戸がガタリと閉まった。
下駄の音はコトコトと、どこまで行くのだろう。時雨の雨脚がサッと通っていく。祖母に導かれた哀れな振袖が、詰袖が、褄を取ったり、裳裾を引いたり、鼈甲の櫛を照々(てらてら)とさせ、銀の簪を揺々(ゆらゆら)させて、真っ白な脛も露わに、友染の花の幻のように、雨具もなしにびしゃびしゃと、裸足で田舎の、山近な町の暗夜をたどり行くさまが、雨戸の破れ目から朦朧として透かし見えた。
これも科学の権威である。物理書というものが掲げる学問の威光で幼い眼を眩ませて、その美しい姉様たちを、追い立て、追い立て、叩き出すことになった黒表紙の残酷さは、大人になったいまでは鬼にも思える。
台所の灯は、遥かな奥山の一つ家のように点っていた。
いつもならその壁の上にある窓からは、隣の空き地に生えた棕櫚の樹が、風にも雨にもばさばさと髪を揺すって、骨だけになった団扇のような顔を覗かせるのだが、その夜は妙にしんとして、気配も感じさせない。
鼠もひっそりと、なりを潜めた。