五
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「さあ、お上がりあそばして。まあ、どうして、あなた」
と、また店口に取って返して、女房が立ち迎えた。
「じゃあ、ごめんなさい」
「どうぞこちらへ」と大きな声を出して、平吉は満面の笑顔を見せている。茶の間越しに見える向こう側へ、台所から駆けこんできて、幅の広い前垂れで濡れた手をぐいっと拭きながら、
「さあ、さあ、奥へ、さあこちらへ」と、もう部屋の真ん中へ持ち出していた座布団を、床の間のほうへずらしながら、くるりとこちらに向き直った。
「ほんとにお構いなくね」と、言いながら織次が茶の間を通り抜けたとき、二間の衾の上に渡らせた、二階に上がる階段が緩く架かったところに置かれた、よく拭きこまれた大戸棚の前ですれ違いになった女房は、バタバタと店のほうへ後ずさりしていった。
その茶の間には長火鉢を挟んで、二人の年寄りが差し向かいで座っていた。ああ、まだ達者のようである。火鉢の向こうにうずくまったその老人の法然頭が、火の気の少ない灰の上では冷たそうに見えている。火鉢に掛かった鉄瓶よりも低いところにしなびているが、もう七十を超えているだろう。これがこの家の女房の母親で、年が五十も離れているのは、あまりに差がありすぎるようだけれども、それは女房が大勢の娘のなかでいちばん末っ子だからである。
では長女はといえば、いまその母親の前に、五十歳ほどの婆が後ろ向きに座っているのがそれで、黒の絹紬の羽織を着て、小さな髷には、先が耳かきになった鼈甲の簪をちょこんと極めて、手首に輪数珠をかけている。
久しぶりの挨拶にでも来ていたのだろう。この婆娘は、よそへ嫁いで、いまは自分の子どものところに住んでいるはずだ。その倅もまた、煙管や簪などを作る職人である。
織次は、この婆娘が、なぜかはわからないが、虫が好かないと思った。ひと目見ただけで、幼いころの記憶のなかで怨みがあるような気持ちがむらむらと起こったからである。このとき婆娘が、黄色いでっぷりとした眉のない顔を上げて、額を向けてじろりと見上げたのを、織次はキッと一瞥しただけで、知らん顔をして奥の間へ行った。
「南無阿弥陀仏」
と、そのとき年寄りがうなるように唱えると、婆娘はそれにかぶせて、
「南無阿弥陀仏」と中途半端に若い声を出した。
「さて、どうも、お珍しいことで、なんともはや」と、平吉は座りもせずに、中腰でそわそわしている。
「お忙しいかね」と、織次は構わず、更紗の座布団を引きよせた。
「ははは、勝手に道楽をして忙しいんでしてな。ちょうど暇がありましたもので、本業をうっちゃって板前のまねごとで包丁の腕前を見せていたところでしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯がとれますよ」と、縁にはみ出るくらいの端っこに座ると、そこにあったごみを拾って、首をひねると、土間に棄て、放り投げた手をもう一方の手でつかんで、指を揉みながら、
「いつ、こちらへ」
「二、三日前さ」
「ざっと十四、五年になりますな」
「早いものだね」
「早いもなにも、織さん、わっしなんざもう、ごらんの通りの爺になりましたよ。これじゃあ途中ですれ違ったぐらいでは、ちょっとおわかりになりますまい」
「いや、ちょっとも変わらないね。あいかわらず意気な人さ」
「これは驚いた!」
と、天井を抜けるかと思う勢いで掲げた手で額を叩いて、
「はっ、恐れ入ったね。東京仕込みのお世辞はきつい。あなた、いい加減になさりませ」
と前垂れを横に刎ねて、ぴたりと膝に手を支いて肘を突っ張ると、こちらに向き直った。
「なに、冗談なものか」
そう言ったとき、織次は、吸い終わった巻煙草を火鉢に刺して、うつむいてにっこりした。面持ちは凜としながらも優しかった。
「粗末なお茶でございます。すぐに、あの、入れかえますけど、おひとつ」
と女房が、茶の間から膝を摺って、半身を覗かせた。
「これ、わっしがことを意気な男だとお言いなさるぜ。御馳走をしなけりゃいかんね」
「あれ、もし、お膝に」と、平吉の言うことをうっかり聞き漏らしたらしい女房が、織次の膝に落ちた煙草の灰を弾いて、ハッとしたように瞼を染めた。