四
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ここまで来ると、すでに湯屋は郵便局の方に遠ざかっている。
このあたりの道ばたで、月のかかった夜空に雲を渡る女の幻を見たのだと見上げると、その屋根の上から城の大手の森にかけて、一面にどんよりと曇ったなかに、一筋の真っ白な雲がなびいている。やがてその雲が、銀河になる季節も近い。……眺めていると、幼いころのあの光景を目の当たりに見るようでもあるし、また夢を見たのだという気もする。前世が兎であったときに、木賊のなかからひょいと覗いた景色なのかもしれない。そうだ、できることなら前世は兎であってほしい。二股山の狸なんぞでは嫌だな。
いや、こんな他愛のないことばかり考えたり、思い出したりするのも、小北のところへ行くというので、気まずさに悩んでいる自分の心を、ほかならぬ自分自身が別のほうへ気を向けて、紛らわせようとしていたようだ。
さて、この道筋から、かつて織次の家があった某町のほうへ大手筋を折れて直進し、一丁ほど行ったところに小北の家がある。
両側に軒が並んだ町筋だが、小北の家の向かい側だけは、一軒ほどの敷地がポカリと空いて、立派な石畳とはいえ緑青色に苔むした大溝があり、町内の防火用水の水溜まりになっている。
向こうの溝から泥鰌にょろり、こっちの溝から泥鰌にょろり、などという早口ことばは、おそらくこの水溜まりからはじまったのだろうと、子どものころの織次は夏の夜店の行き帰りに、独りで考えたものだった。
同じ早口ことばに、茶釜雨合羽というのがある。ふと見るとこの溝の左隣が、ちょうど合羽屋なのが面白い。いまも変わらずその店には、渋紙の暖簾がかかっていた。
そのとき二、三人が通りかかって、なかの一人が彼の前を通りすぎて行きしなに、ふとふり返って、またひょいひょいと身軽に歩きだした。織次は、溝の前から小北の店へ視線をキッと向けると、帽子の庇を下げて透かし見た。
そこに立ち止まったまま、しばらくためらっていたのである。
木格子の内側にはガラス戸が張られていて、店内に道具のあるのはわかったが、前垂れ姿の弟子や半纏を着た主人の平吉の姿は見えない。
織次は羽織の両方の袖口がぐいっと胸まで上がるように両腕を組むと、身体に勢いをつけて、つかつかと店内へ足を運んだ。
「ごめんなさいよ」
「はいはい」
と、軽い返事をしながら、ちょこちょこと身軽に茶の間から出てきた女は、下ぶくれをした色白で、鬢を真ん中から分けた濃い毛の束ね髪をして、ちょっと煤けた人形のような古風な顔をしていた。容色も悪くはなく、紺の筒袖の上着を、浅葱色の紐で胸高にちょっと留めた、いかにも甲斐甲斐しい女房といった姿だった。このあたりの暮らし向きではそれが通例で、だれもおかしくは思わないけれど、畳の上で尻端折をして、前垂れで膝を隠しただけの、下着をまとっただけの足が、すこし気になりはしたのだが。その足を茶の間と店の敷居で止めて立ちつくしたまま、口早な口調で言う。
「どこからおいで遊ばしました。なんの御用でしょうか」
と、なにも考えずに言うセリフのようである。言葉づかいは丁寧だが、会釈をする様子には取りつく島もない。
「私だ、立田だよ。しばらくぶりだ」
もう忘れたか、覚えがあるだろうと顔を向ける。すると、黒目がちだが生気のない、墨で塗ったような瞳を向けてじっと見ていたが、
「あれ」と言ったとたん、力が抜けたようになって膝を支いた。急に胸を反らせながら、驚いた様子で、
「どうしましょう、あなた」
と言って、ひょいと立ちあがると、端折った裾から覗かせたふくらはぎを気にするどころではなく身を返して、後ろ姿を見せながらつかつかと摺り足で、奥のほうへ駆けこみながら、
「ねえ! ねえ! ちょっと……立田様の織さんが」
「なに、立田さんの」
「織さんですよ」
「やっ、それは」
と、平吉の声が台所ですると、がたがたと土間を踏む下駄の音が響いた。