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 そのときはなんの思い入れもなく、例の二股山(ふたまたやま)を仰いだのだが、ここに来て、昔の見世物小屋の前を通ると、あの蜘蛛(くも)大名が庄屋をしている山なのかと、可怪(あや)しく胸に響くのだった。

 その蜘蛛大名以外にも、一座には、胴が太く、脚が短い、芋虫(いもむし)が髪を結って緋色(ひいろ)の腰布を巻いたような侏儒(いっすんぼうし)の女が三人ばかりいた。女たちは見世物の踊りを済ませて、寝る前に町の湯屋へ行くのだが、そのときは風呂の(ふち)に両手を掛けて、両脚を横に振りあげてドブンと浸かる。そして湯のなかでぶくぶくと泳ぐのだと聞いた。

 そういえば湯屋はまだある。かつては、真っ黄色の絵の具で塗られて両眼を光らせた巨大な蜈蚣(むかで)が、赤黒い雲のように(うず)を巻いた真んなかに、蜈蚣(むかで)退治の俵藤太(たわらとうた)が、弓矢を持って身構えた暖簾(のれん)が掛かっていたのを覚えている。それがいまでは、ただ、男、女と分かれた上に、柳湯と白抜きされたものに掛け替わっていて、(かど)の目印の柳とともに、枝垂(しだ)れたように下がっている。気がつくとあたりは森閑(しんかん)として、風もない。

 人通りもほとんど途絶えた。

 けれども、ふと気づくと、柳の陰で暗くなった湯屋の硝子(ガラス)戸の奥深くから、どこからともなくドブン、ドブンと湯を揺さぶるような響きが聞こえる。……

 立ち止まった織次(おりじ)の耳には、それが遠い二股山から伝わってくる、なにかの(こだま)のように聞こえた。織次の祖母が、見世物の侏儒(いっすんぼうし)の女たちのことを、

「あの()たちはの、蜘蛛庄屋にかどわかされて、その腰元になったいの」

 と、昔聞いた話を語ってくれたせいだろう。ああ、薄曇りの空は低く、町は浮きあがったように見通しが浅く見えるが、故郷(ふるさと)の山は深い。

 また、山といえば思いだす。店々の灯りがカッと明るく照らす町の果てには、まるでそこまでの(にぎ)わいを句切るかのような一筋の路があり、その先には数百の燈火(ともしび)の織り目から抜けだしたような、薄ぼんやりとした灰色の暗がりが闇夜にただよっている。大手前の土塀(どべい)(すみ)に足場板を置いた仮の高座をしつらえて、まばらに立った見物人を前に、デロレン祭文(さいもん)を語る坊主がいた。坊主とはいっても長い頭髪を額で振りわけていて、ごろごろと(しゃく)を鳴らしながら塩辛声で、

「……姫松どのはェ」と、大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)の恋女房が、山中にある滝夜叉姫(たきやしゃひめ)の隠れ家に捕らえられて、手先の(ぞく)たちから松葉いぶしで責められる場面を語る。――木の枝に吊り上げられ、後ろ手に縛られた(ひじ)を突き上げて身をそらし、髪を逆さに落として、ヒイヒイとむせび泣く。やがて夫の光国(みつくに)が駆けつけて助けることになるが、それは明晩、と言ったのだが、翌晩も同じ場面を語って、しだいに姫松の声が()れていく。

「愛しいあなたが来てくれる、光国どの、助けておくれ」と言うばかりで、この光国どのの足の遅いことといったら。

 三日目の夜に、やっとこさ山の(ふもと)に到着する。

 織次は子ども心に朝から気になって、蚊いぶしの煙を蚊帳(かや)のなかで()いでも、責めさいなまれる姫松のことを思いだして、続けてその翌晩も聞きにいった。すると、デロレン坊主の汚い弟子が、懐手(ふところで)拳骨(げんこつ)を握り、肩をそびやかしたやくざな姿で近寄ってきたが、(ひざ)のあたりで(すそ)を切った古浴衣(ふるゆかた)を着ているから、胸のあたりがだらんとしている。そいつが片手をぬいっと出すと、織次の(あご)を持ち上げるような手つきをして(ぜに)をねだった。爪の黒いその手のひらに、持っているだけの小遣いを載せると、目を見開き、黄色い歯でニヤリとして、身体を()でようとしてくる。おかしなことになったと後ずさりしたところで、うなじに大粒の雨がポツリと落ちた。

 たちまち激しい夕立になる。織次は青くなって家路へと駆け出した。しかし家までは七、八町はあるのだから、びしょ濡れになったことはいうまでもない。

 その後、二夜(ふたよ)ほどは、空模様を見て両親が外出を許さなかった。

 その次の晩は嘘のように晴れた。織次は、磨きをかけたような良い月が浮かんだ夜に、手綱(たづな)から切り放された馬のように飛びだして行ったのだが、もうデロレンの高座は跡形もなく消えていて、後ろに幕を張っていたあたりの土塀の割れ目に、白々と月光が射しているだけだった。

 ぼうっとなって道ばたに立ちながら、前夜の雨が恨めしいと空を仰ぐ。澄みわたった夜空にはいちめんの銀河が、間近な山の()から町家(まちや)の屋根に、美しい橋を架けている。そこへ重ね合わさるように、雲のように真っ白な女の姿が後ろ向きで、瑠璃(るり)色を透かせた薄い黄金(きん)輪郭(りんかく)をした下げ結びの帯を見せながら、スッと立ちあがって、するすると月の前を歩いて消えた。

 織次は、そんなことを思いだしながら歩いて、ちょうどそのあたりの道筋に差しかかった。

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