三
三
そのときはなんの思い入れもなく、例の二股山を仰いだのだが、ここに来て、昔の見世物小屋の前を通ると、あの蜘蛛大名が庄屋をしている山なのかと、可怪しく胸に響くのだった。
その蜘蛛大名以外にも、一座には、胴が太く、脚が短い、芋虫が髪を結って緋色の腰布を巻いたような侏儒の女が三人ばかりいた。女たちは見世物の踊りを済ませて、寝る前に町の湯屋へ行くのだが、そのときは風呂の縁に両手を掛けて、両脚を横に振りあげてドブンと浸かる。そして湯のなかでぶくぶくと泳ぐのだと聞いた。
そういえば湯屋はまだある。かつては、真っ黄色の絵の具で塗られて両眼を光らせた巨大な蜈蚣が、赤黒い雲のように渦を巻いた真んなかに、蜈蚣退治の俵藤太が、弓矢を持って身構えた暖簾が掛かっていたのを覚えている。それがいまでは、ただ、男、女と分かれた上に、柳湯と白抜きされたものに掛け替わっていて、門の目印の柳とともに、枝垂れたように下がっている。気がつくとあたりは森閑として、風もない。
人通りもほとんど途絶えた。
けれども、ふと気づくと、柳の陰で暗くなった湯屋の硝子戸の奥深くから、どこからともなくドブン、ドブンと湯を揺さぶるような響きが聞こえる。……
立ち止まった織次の耳には、それが遠い二股山から伝わってくる、なにかの谺のように聞こえた。織次の祖母が、見世物の侏儒の女たちのことを、
「あの娘たちはの、蜘蛛庄屋にかどわかされて、その腰元になったいの」
と、昔聞いた話を語ってくれたせいだろう。ああ、薄曇りの空は低く、町は浮きあがったように見通しが浅く見えるが、故郷の山は深い。
また、山といえば思いだす。店々の灯りがカッと明るく照らす町の果てには、まるでそこまでの賑わいを句切るかのような一筋の路があり、その先には数百の燈火の織り目から抜けだしたような、薄ぼんやりとした灰色の暗がりが闇夜にただよっている。大手前の土塀の隅に足場板を置いた仮の高座をしつらえて、まばらに立った見物人を前に、デロレン祭文を語る坊主がいた。坊主とはいっても長い頭髪を額で振りわけていて、ごろごろと錫を鳴らしながら塩辛声で、
「……姫松どのはェ」と、大宅太郎光国の恋女房が、山中にある滝夜叉姫の隠れ家に捕らえられて、手先の賊たちから松葉いぶしで責められる場面を語る。――木の枝に吊り上げられ、後ろ手に縛られた肘を突き上げて身をそらし、髪を逆さに落として、ヒイヒイとむせび泣く。やがて夫の光国が駆けつけて助けることになるが、それは明晩、と言ったのだが、翌晩も同じ場面を語って、しだいに姫松の声が嗄れていく。
「愛しいあなたが来てくれる、光国どの、助けておくれ」と言うばかりで、この光国どのの足の遅いことといったら。
三日目の夜に、やっとこさ山の麓に到着する。
織次は子ども心に朝から気になって、蚊いぶしの煙を蚊帳のなかで嗅いでも、責めさいなまれる姫松のことを思いだして、続けてその翌晩も聞きにいった。すると、デロレン坊主の汚い弟子が、懐手の拳骨を握り、肩をそびやかしたやくざな姿で近寄ってきたが、膝のあたりで裾を切った古浴衣を着ているから、胸のあたりがだらんとしている。そいつが片手をぬいっと出すと、織次の顎を持ち上げるような手つきをして銭をねだった。爪の黒いその手のひらに、持っているだけの小遣いを載せると、目を見開き、黄色い歯でニヤリとして、身体を撫でようとしてくる。おかしなことになったと後ずさりしたところで、うなじに大粒の雨がポツリと落ちた。
たちまち激しい夕立になる。織次は青くなって家路へと駆け出した。しかし家までは七、八町はあるのだから、びしょ濡れになったことはいうまでもない。
その後、二夜ほどは、空模様を見て両親が外出を許さなかった。
その次の晩は嘘のように晴れた。織次は、磨きをかけたような良い月が浮かんだ夜に、手綱から切り放された馬のように飛びだして行ったのだが、もうデロレンの高座は跡形もなく消えていて、後ろに幕を張っていたあたりの土塀の割れ目に、白々と月光が射しているだけだった。
ぼうっとなって道ばたに立ちながら、前夜の雨が恨めしいと空を仰ぐ。澄みわたった夜空にはいちめんの銀河が、間近な山の端から町家の屋根に、美しい橋を架けている。そこへ重ね合わさるように、雲のように真っ白な女の姿が後ろ向きで、瑠璃色を透かせた薄い黄金の輪郭をした下げ結びの帯を見せながら、スッと立ちあがって、するすると月の前を歩いて消えた。
織次は、そんなことを思いだしながら歩いて、ちょうどそのあたりの道筋に差しかかった。