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 この通りがある場所は、織次(おりじ)が生まれた町とはかなり距離が離れているので、軒を並べた両側の家に、知り合いの顔が見えるわけでもない。それでも、なにかにつけて思いだすことはあった。通りの中ほどに、料理屋を兼ねた一軒の旅館がある。彼は、以前そこへ、東京から来た新任の県知事が来館するというときに、向かい側の軒下に立って眺めていたことを思いだした。そのときは玄関に紅白の幕を張り、水桶(みずおけ)に真新しい柄杓(ひしゃく)(そろ)え、うやうやしく厄払(やくばら)いの盛り砂をして、門から新筵(あらむしろ)を敷きつめていたものである。通りがかりのお百姓は、その前を通りすぎるようとして、

「ああっ」と言って、腰を折り曲げるように頭を下げた。

 威勢(いせい)を誇っておられた県知事であるが、後年、地方長官会議の折に上京なされて、電話番号が一桁だというのが自慢の旅館にことさら宿を取って、ネギの(げっぷ)をしながら東京の町なかへとお出ましになる程度のご人品であったとは、そのころは夢にも思われないことであった。

 夢のようだといえば、今はパン屋になった場所の、ちょうどそのガラス窓のあるあたりに幕を張って、暑い夏の季節になると、夜店が並ぶなかに見世物の小屋がかかったものだった。星明かりの下での暗い舞台で、猿芝居、大蛇、熊、盲目の墨塗(すみぬり)など、あるいは西洋手品などの出し物が、その囲いのなかに蕺草(どくだみ)の花を咲かせていた。なかでも表通りにさらされて人目を引いていたのは、蜘蛛男(くもおとこ)の見世物だったことを思いだす。

 蜘蛛男というのは、額が突きだした大きな頭と、しゃくれた鼻の黄色い顔をした男で、大人の二倍はあろうかと思う長いその顔から、さらに一尺ほど積みかさねた飯櫃(めしびつ)のような頭にちょんまげを結っている。その下にあるはずの身体というものがないかのようで、(あご)から手足が生えたような男が、金ぴかの(かみしも)を着ている。まるで手品師が、ホイ来た、と箱のなかから親指でつまみ出したような初老の親仁(おやじ)である。

 一番の呼び物であるこの蜘蛛男は、小屋の正面に置かれた、(ねずみ)の嫁入りで担ぎ出しそうな小さな駕籠(かご)のなかでぐったりとなっていた。ふんふんと鼻息を荒くするたびに、おでこに蚯蚓(みみず)のような横筋をうねらせながら、きょろきょろと混み合う群衆を眺めて待機している。出番が来ると、口上言(こうじょういい)が、

「太夫よ、太夫よ」と呼びかける。すると、駕籠のなかできりっと頭を振り立てて、

只今(ただいま)、それへ」

 と年老いた子どものような声を出すと、顎をしゃくって身繕いをする。その身動きに、(いたち)の臭いがプンとだだよう。ひょこひょこと歩いて行く足どりが、蜘蛛が巣を渡っていくかのようで、大頭(おおあたま)(ぼん)(くぼ)のあたりに、焚付(たきつ)けにする木切れのような(はかま)の腰板が、ちょこんと飛びだしていたのを思いだした。

 その蜘蛛男が小屋のなかの舞台に出たとたんに、通りからの目を(さえぎ)って、ふわふわと幕が下りる。そのとき蜘蛛男は木戸口に立った大勢の人々のほうをふり向いて、「うふん」と言って目を見開くと、脳天からぶら下がったような紅い舌をペロリと出した。幼かった織次はゾッとして、雲に()されているような月の出た夜道を、家に逃げ帰ったことがあった。

 人間ではないだろう、鳥か、獣か、それともやっぱり土蜘蛛(つちぐも)のようなものかと織次が(たず)ねると、そのころ六十歳ほどだった祖母(おばあ)さんが、

「あれはの、二股坂(ふたまたざか)の庄屋殿じゃ」と言った。

 この二股坂というのは山奥にあって、可怪(あや)しい伝説が少なくない。それを越すと隣国への近道になるが、人間界との境界となる、自然の関所のように土地の人は思っていた。

 このあたりからは、峰の松に(さえぎ)られるから、その姿は見えない。さらに北西の位置にあって、町外れのほうへ後戻りすると、間近な山の背後(うしろ)に海がありそうな雲を隔てて、山の形がありありと見える。……

 汽車が開通してから初めての帰省だったので、停車場(ステエション)を出たところから見る故郷(ふるさと)は、さてどうだろうとひと目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、まずその山を見て、しばらく茫然(ぼうぜん)として(たたず)んだのは、つい二、三日前のことだった。

 椀車(くるま)を雇って、行く先の従姉(いとこ)の町の名を告げるより、まっ先に()いた。

「あの山は?」

二股(ふたまた)じゃ」と車夫(くるまや)が答えた。

 織次は、この地方で育ったのだが、子どものころは用のない町外れまでは行ったことがなかったので、五月(さつき)晴れの空の下で、ただ名を聞いたことがあるだけだった暗いその山が、気になってしかたがなかった。

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