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 (あきら)めのつかない祖母(としより)が、なにか二つ、三つ口を利くと、挙げ句の果てに、

耄碌婆(もうろくばばあ)め、帰れ」

 と言って、ゴトンと戸を閉めた。

 祖母(としより)が目を手で押さえながらの帰り道に、本を持った織次(おりじ)の手は、氷のように冷たかった。小さな(ふところ)へ本の小口を半分差しこんで、押さえるように(あご)を乗せてしょんぼりしていると、そのあたりの闇のなかから、(つじ)浪曲師(ろうきょくし)が語った……

「姫松殿がェ」

 という声が聞こえてくる。――織次は、飛脚に買い去られたという大勢の姉様が、干し柿のようにぶらぶらと木の枝に吊り下げられて、上げたり下ろしたりと二股坂で(さいな)まれるのを、目のあたりに見るように思った。

 そのとたん、それでもプンと匂ってくる(ふところ)の物理書が、松葉のいぶる臭気(におい)を放ちはじめた。

 もとより言い訳だとはわかっている。狐が化けた飛脚でもなければ、今どき町を通るはずもない。足許(あしもと)を見て買い叩いた絵の、十倍百倍にもなる(もう)けを手放すのが()しくて、狢親仁(むじなおやじ)が勝手なことをほざく……と、この難題を引き受けたのが平吉だった。

 こうしたいきさつがあって、この平さんが、古本屋の店に居直って、買い戻してくれた錦絵である。

 その後、父が在世のころも、折を見てその話が出たし、のちに織次も東京からの手紙で、引き取ろう、引き取ろうと掛けあったのだが、突っぱねたり泣きを入れたりで話がまとまらず、追っかけて問い詰めても、返事が返ってこずに(らち)が明かない。

 織次にとっては、なにがなんでも今日こそ、という意気込みだった。

 さて、その話を持ち出すと、それ案の定、天井をにらんで寝たふりでもするつもりなのか、とりあえずすっとぼけて、やっと気がついたという顔をして、

「はあ、あの江戸絵かね。十六、七年、やがて二昔(ふたむかし)。ずいぶん前のことですな。あったっけかな」

 と、()え切らない返事をするばかり。

「ないはずはないじゃないか。あんなに頼んでおいたんだから。……」

 そう言う織次にとっては、なぜかこの絵に生命(いのち)があって、なんらかによって運命づけられた恋人のようで、しかもその運命が、自分ではどうにもできないことのように思えて、目が覚めればまず思い出し、この家に入るのにも肩をそびやかしたほどだった。

 そこまで思い詰めたことに対して、平吉が取った薄情な態度に、織次はすでに苛立(いらだ)ちと(あせ)りを感じていた。

 平吉は他人事のように仰向いて、

「なあ、これ」

 と、戸棚の前で食事の用意をしている女房を(あご)で呼んで、

「知らないよな。忘れただろうよ、な、な、お前も、あの江戸絵さ。蔵の中にあったっけかな」

「はい、ござります。出しましょうかえ」と、女房ははっきり言った。

「ありがとう、お(こと)さん」

 と、はじめて親しげに名前を呼び、ふり向いて見つめると、浅葱(あさぎ)色の波模様の暖簾(のれん)越しに、またサッと顔を赤らめた。その様子から思ったのだが、どうやらあの錦絵のなかの、だれだとはわからない一人に、(おもかげ)がかすかに似通っている。……

「おひとつ」

 と、そこへ(ぜん)を整えて銚子(ちょうし)を手に取った女房が言った。変われば変わるものだ。まだ七つか八つ、九つばかりで、母が生きていたころの雛祭(ひなまつり)には、()毛氈(もうせん)を掛けた桃や桜の段の前に、小さな蒔絵(まきえ)の膳に並べて、この猪口(ちょこ)ほどの塗腕(ぬりわん)で、いっしょに(しじみ)(つゆ)をお代わりしたものだった。あのころのこの娘は、花柄の友染(ゆうぜん)を着くるんでいて、()り物のような顔のほかは、そのころから丸い背をちょっと猫背にして座る(くせ)があって、それだけはいまもその通りなのだが、その他のことはこうまで変わった。

 平吉はもう五十を越して、女房はまだ二十二か、多くて三であろう。彼女の姉であった平吉の前妻が死んだあとを、十四、五歳の、まだ鳥も宿らぬ花のようだった娘が、夜半(よは)の嵐に散らされた。はじめは孫のように見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、嫁いだ先にふさわしい姿になって、女房ぶりも板に付いたのが哀れに見える。

 これも飛脚に(さら)われて、平吉の手に捕らわれた、一枚の絵であろう。

 いや、どうであっても早く絵を出せと、断固として迫ると、女房の返事に苦い顔をして、横睨(よこにら)みをしていた平吉が、

「だが、なんだぜ、これ、なにそれ、なに、あの、人に貸したままになっているはずだぜ。戻してくれと催促(さいそく)はするがね……それ、な、これだ。まだ、あのまま返ってこないよ、そうだよ。ああ、そうだよ」

 と、何度も独り合点して、

「え、(おり)さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、隣近所、親戚じゅうの評判で、平吉のところへ行ったら、大黒柱より江戸絵を見ろ、という騒ぎで、人が来るほど、(たか)るほどに、ちょっとの間も手許(てもと)に落ちついていた(ため)しがありません」

 と、蔵のなかにどうとかと言った、同じ口でそんなことを……。

「わっしのほうじゃ、まあ、持っているとはいっても、いわばね、織さん、なんですわね、それ、あなたから預かっているも同然の品なんだから、出し入れする際には、自然と指垢(ゆびあか)手擦(てす)れなどと、つい汚れがちにもなりやしょうけど、見せぬと言えば喧嘩(けんか)になる……弱るのなんの。そこでまず、貸したような、預けたような感じで、よその蔵に(しま)ってありますわ。ところが、ですな」

 と、織次とともに怒りを含んだ女房の顔を、禿()げあがった額越しにじろりと(にら)んで、

「その蔵持ちの家には、わっしが、なんでさ、……ちとその金銭(レコ)がらみの不義理があって、当分顔を出せない、と言ったようなわけで。いずれ取ってきます。取ってくるには取ってきますが、ついちょっと、それ、金銭(レコ)がらみのことですからな。

 それに織さん、近ごろじゃ値が上がりましたってさ。錦絵は、たったの一枚が、あの当時の二百枚と同じ値だってね。一財産です。あなたにも一財産だが、またこっちにも一財産でさ。金に糸目はつけないから手放さないかと何度も言われましたがね、売るものですか。そりゃ売らない。不肖(ふしょう)ながら平吉だ、売らないね。預かり物だ、手放していいものですかい。

 けれども、いま言ったような具合ですから、そう簡単にはね。いずれ、そのなんでさ、ま、ま、召し上がれ、熱いところを。ね、ごゆっくり。さあ。これ、お焼き物がない。ええい、間抜けな。ぬただけしかないとは。御酒(ごしゅ)尾頭(おかしら)は付きものだわ。ぬたばかり、いや、ぬたぬたとぬたった女だ。へへへへへ、(いわし)を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ」

 それを聞きながら、なにか言いたそうに、膝をもじもじさせて、平吉の顔を盗み見ている女房の様子は、湯船に横飛びでザブンと入る、あの見世物の女を思わせる。これも平吉に買われたために、姿まで変わったのだろう。

 女房は座り直すと、

「あなたったら」

 と(うら)めしそうな、情けない顔をする。

 ぎょろりと目を剥いた平吉は、(けん)のある顔つきで、

「これ」と言った。

 しかしそれは、(いわし)催促(さいそく)をしたようである。

「いま、焼いとるんや」

 と隣室の茶の間で、女房の上の姉がしなびた声を出す。

「なんまいだ」

 と(ばあ)が唱える。……その声が、「姫松殿がェ」と聞こえて耳を貫く。……念仏のなかから、じりじりと脂肪(あぶら)の煮える響きがして、生臭いものがむらむらと湧いてきた。

 ふと、この臭気が、あの黒表紙の臭いとそっくりだと思った。

 それに加えて、山賊(さんぞく)(さら)われた姉様が松葉いぶしで責められて、乱れる、揺らめく、黒髪までもが眼前にちらつく。

 織次は激しく言った。

「平吉、(かね)でつく話はつけよう。(いわし)は待て」


(了)


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