十
十
諦めのつかない祖母が、なにか二つ、三つ口を利くと、挙げ句の果てに、
「耄碌婆め、帰れ」
と言って、ゴトンと戸を閉めた。
祖母が目を手で押さえながらの帰り道に、本を持った織次の手は、氷のように冷たかった。小さな懐へ本の小口を半分差しこんで、押さえるように顎を乗せてしょんぼりしていると、そのあたりの闇のなかから、辻の浪曲師が語った……
「姫松殿がェ」
という声が聞こえてくる。――織次は、飛脚に買い去られたという大勢の姉様が、干し柿のようにぶらぶらと木の枝に吊り下げられて、上げたり下ろしたりと二股坂で苛まれるのを、目のあたりに見るように思った。
そのとたん、それでもプンと匂ってくる懐の物理書が、松葉のいぶる臭気を放ちはじめた。
もとより言い訳だとはわかっている。狐が化けた飛脚でもなければ、今どき町を通るはずもない。足許を見て買い叩いた絵の、十倍百倍にもなる儲けを手放すのが惜しくて、狢親仁が勝手なことをほざく……と、この難題を引き受けたのが平吉だった。
こうしたいきさつがあって、この平さんが、古本屋の店に居直って、買い戻してくれた錦絵である。
その後、父が在世のころも、折を見てその話が出たし、のちに織次も東京からの手紙で、引き取ろう、引き取ろうと掛けあったのだが、突っぱねたり泣きを入れたりで話がまとまらず、追っかけて問い詰めても、返事が返ってこずに埒が明かない。
織次にとっては、なにがなんでも今日こそ、という意気込みだった。
さて、その話を持ち出すと、それ案の定、天井をにらんで寝たふりでもするつもりなのか、とりあえずすっとぼけて、やっと気がついたという顔をして、
「はあ、あの江戸絵かね。十六、七年、やがて二昔。ずいぶん前のことですな。あったっけかな」
と、煮え切らない返事をするばかり。
「ないはずはないじゃないか。あんなに頼んでおいたんだから。……」
そう言う織次にとっては、なぜかこの絵に生命があって、なんらかによって運命づけられた恋人のようで、しかもその運命が、自分ではどうにもできないことのように思えて、目が覚めればまず思い出し、この家に入るのにも肩をそびやかしたほどだった。
そこまで思い詰めたことに対して、平吉が取った薄情な態度に、織次はすでに苛立ちと焦りを感じていた。
平吉は他人事のように仰向いて、
「なあ、これ」
と、戸棚の前で食事の用意をしている女房を顎で呼んで、
「知らないよな。忘れただろうよ、な、な、お前も、あの江戸絵さ。蔵の中にあったっけかな」
「はい、ござります。出しましょうかえ」と、女房ははっきり言った。
「ありがとう、お琴さん」
と、はじめて親しげに名前を呼び、ふり向いて見つめると、浅葱色の波模様の暖簾越しに、またサッと顔を赤らめた。その様子から思ったのだが、どうやらあの錦絵のなかの、だれだとはわからない一人に、俤がかすかに似通っている。……
「おひとつ」
と、そこへ膳を整えて銚子を手に取った女房が言った。変われば変わるものだ。まだ七つか八つ、九つばかりで、母が生きていたころの雛祭には、緋の毛氈を掛けた桃や桜の段の前に、小さな蒔絵の膳に並べて、この猪口ほどの塗腕で、いっしょに蜆の汁をお代わりしたものだった。あのころのこの娘は、花柄の友染を着くるんでいて、練り物のような顔のほかは、そのころから丸い背をちょっと猫背にして座る癖があって、それだけはいまもその通りなのだが、その他のことはこうまで変わった。
平吉はもう五十を越して、女房はまだ二十二か、多くて三であろう。彼女の姉であった平吉の前妻が死んだあとを、十四、五歳の、まだ鳥も宿らぬ花のようだった娘が、夜半の嵐に散らされた。はじめは孫のように見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、嫁いだ先にふさわしい姿になって、女房ぶりも板に付いたのが哀れに見える。
これも飛脚に掠われて、平吉の手に捕らわれた、一枚の絵であろう。
いや、どうであっても早く絵を出せと、断固として迫ると、女房の返事に苦い顔をして、横睨みをしていた平吉が、
「だが、なんだぜ、これ、なにそれ、なに、あの、人に貸したままになっているはずだぜ。戻してくれと催促はするがね……それ、な、これだ。まだ、あのまま返ってこないよ、そうだよ。ああ、そうだよ」
と、何度も独り合点して、
「え、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、隣近所、親戚じゅうの評判で、平吉のところへ行ったら、大黒柱より江戸絵を見ろ、という騒ぎで、人が来るほど、集るほどに、ちょっとの間も手許に落ちついていた験しがありません」
と、蔵のなかにどうとかと言った、同じ口でそんなことを……。
「わっしのほうじゃ、まあ、持っているとはいっても、いわばね、織さん、なんですわね、それ、あなたから預かっているも同然の品なんだから、出し入れする際には、自然と指垢や手擦れなどと、つい汚れがちにもなりやしょうけど、見せぬと言えば喧嘩になる……弱るのなんの。そこでまず、貸したような、預けたような感じで、よその蔵に秘ってありますわ。ところが、ですな」
と、織次とともに怒りを含んだ女房の顔を、禿げあがった額越しにじろりと睨んで、
「その蔵持ちの家には、わっしが、なんでさ、……ちとその金銭がらみの不義理があって、当分顔を出せない、と言ったようなわけで。いずれ取ってきます。取ってくるには取ってきますが、ついちょっと、それ、金銭がらみのことですからな。
それに織さん、近ごろじゃ値が上がりましたってさ。錦絵は、たったの一枚が、あの当時の二百枚と同じ値だってね。一財産です。あなたにも一財産だが、またこっちにも一財産でさ。金に糸目はつけないから手放さないかと何度も言われましたがね、売るものですか。そりゃ売らない。不肖ながら平吉だ、売らないね。預かり物だ、手放していいものですかい。
けれども、いま言ったような具合ですから、そう簡単にはね。いずれ、そのなんでさ、ま、ま、召し上がれ、熱いところを。ね、ごゆっくり。さあ。これ、お焼き物がない。ええい、間抜けな。ぬただけしかないとは。御酒に尾頭は付きものだわ。ぬたばかり、いや、ぬたぬたとぬたった女だ。へへへへへ、鰯を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ」
それを聞きながら、なにか言いたそうに、膝をもじもじさせて、平吉の顔を盗み見ている女房の様子は、湯船に横飛びでザブンと入る、あの見世物の女を思わせる。これも平吉に買われたために、姿まで変わったのだろう。
女房は座り直すと、
「あなたったら」
と怨めしそうな、情けない顔をする。
ぎょろりと目を剥いた平吉は、険のある顔つきで、
「これ」と言った。
しかしそれは、鰯の催促をしたようである。
「いま、焼いとるんや」
と隣室の茶の間で、女房の上の姉がしなびた声を出す。
「なんまいだ」
と婆が唱える。……その声が、「姫松殿がェ」と聞こえて耳を貫く。……念仏のなかから、じりじりと脂肪の煮える響きがして、生臭いものがむらむらと湧いてきた。
ふと、この臭気が、あの黒表紙の臭いとそっくりだと思った。
それに加えて、山賊に掠われた姉様が松葉いぶしで責められて、乱れる、揺らめく、黒髪までもが眼前にちらつく。
織次は激しく言った。
「平吉、金でつく話はつけよう。鰯は待て」
(了)