一
明治四十三年(1910年)一月発表。
【原文】(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/529_20653.html
【登場人物】
立田織次 帰省中の二十四、五の青年
小北平吉 織次の亡父の職人仲間
お琴 その女房
お琴の母親
上の長女、お琴の姉
(以下、回想の人々)
織次の父
織次の亡母
織次の祖母
古本屋の亭主
蜘蛛男
侏儒の腰元たち
デロレン坊主
一
柳を植えた……その柳が集まって茂っているあたりに、清水の湧く井戸がある。
……大通りの四つ角にある郵便局で、東京から組んで送られた、若干金になる為替を受け取って、三つ折りにした紙に巻くと、まずは懐に入れる。
春は過ぎたとはいっても、まだ五月の半ばである。日の長い初夏の時節、昼どきの郵便局は閑散としていた。受け付けた窓口だけではなく、他の窓口にもだれも立っていない。だが、為替はすぐには受け取れなかった。
窓口係は悠長なもので、
「金額はいかほどですか。差出人はだれでしょうか。あなたがご本人ですか」
などと間延びした、しかもことさら耳につく東京ことばで問いかけてくる。
窓口越しに見たその窓口係は、二十四、五歳の青年だった。羽織は着ずに、小倉織の袴をはき、久留米絣らしい袷を羽織った下に、白いシャツの袖ボタンを手首で留めている。肥った腕の肩のあたりまで袷の袖をたくし上げて、なんとも忙しそうにしているのだが、それでいてすることはさっぱり要領を得ない。見た目にそぐわず悠然と落ち着きすまして、やや人を見下すような振る舞いからすると、この地方の士族出身者なのだろう。「……ですか」と尻上がりの語尾でしゃべって、ときどきじろじろと下目でこちらを見てくるのは、田舎者だと侮るなと主張したいと思われる。窓口の向こうに、そんな態度があからさまに見え透いている。郵便局員よ、心落ち着けるがいい。受取人の立田織次も東京人だというわけではなく、この地方出身の平民なのだから。
さて、局の石段を下りると、目に柳が飛びこみ、井戸があることに気づく。
織次は広々とした四つ辻に立っていた。
「さあ、どこへ行こう」
どこへでも好きなところに行ける。でなければ、どこへも行かなくてもいい。今回の帰省中に転がりこんでいる従姉の家に、このまま帰ってもいいのだが、そこはついさっき出てきたばかり。すぐに引き返したなら、忘れ物でもしたのかと思われるだろう。
先祖代々の墓参りは昨日済ませたし、その帰りには久しぶりに見たかった公園も廻ってきたし、出席の約束をした会合は明日だし、夜には好きなものを食べさせると従姉が言っていた。さしあたってはなんにもやることがない。こんなにのんびり過ごせるのは何年ぶりだろう。だれかが背負ってくれるというなら、そのままおんぶされてもいい、などと他愛のないことを考えるほど、のびのびとした気分だった。
気候はというと、ポカポカを通り越して、この上カッと日が照ると、日中はじりじりと感じそうなほどで、目近な山々にうっすらとかかった雲が、真綿を日光で干しているようにも見える、ふっくりと軽い暖かさである。そんな真昼の陽光のなかでは、柳の葉も差す陰を感じさせず、ふわふわと柔らかい風を受けている。
その柳の下を駆け抜ける腕車も見えず、人通りもちらほらと見受けられるばかり。東京でなら浮かれた夢でも見ているような風景だが、この土地ではこれでも賑やかな町である。城址のあたりの上空でトンビが鳴くと、ちょうど今が旬の鰯を焼く匂いがただよってくる。
飯を食べにいってもいいし、ちょっと珈琲に菓子でもいい。どこかの茶店で茶を飲むのもいい。そんなことをしたいわけでもないけれど、袷に羽織の姿で身は軽い。駒下駄は新しい。為替は受け取ったし、なんならだれかに金を貸してもいい。
「いや、冗談はやめにして……」
そうだ! 小北のところへ行かなければならないのだった――そう思うと、のびのびとしていた手足がキリキリと締まって、身体が帽子まで堅くなった。
なぜだか周囲を眺めてしまう。
小北などと呼び捨てにすると、学生だか、故郷の級友だかのようだが、そうではない。小北平吉……いや、平さんというのが似合っている。織次の亡き父親と同業の職人である。
ここまで来ればそう遠くはない。この柳が植わった通り筋の突きあたりに、蒼々とした山がある。そこに向かって二丁ほど進み、城の大手道を右に見て、左に曲がった、家並みの揃った町の中ほどに、今も暮らしを立てているはずである。
その男を訪ねること自体に問題はないのだが、訪ねる理由には十年来の思いがこめられている。……それがなんなのかは、もうすこし伏せておこう。
さあ、小北の家へ、となると、背後から追い立てられるようにそわそわしはじめる。できるだけ自分を落ちつかせながら悠々と歩きだしたのだが、三十代手前にもなった彼の胸が騒いでいる。さては、先ほどまでののんきな気分は、この波が立つ前ぶれとして、一時的に海が静まるようなものだったらしい。