雨降らば降れ 風吹かば吹け まわれ まわれ 風車 老いて修羅道を行く (再録改訂増補版)
この世は借り物であり、この世は仮の世界です、
我ら皆
地上の旅人なり、
生の放浪者なり。
仮の体で
仮の世を生き
仮の姿で死んでいくのみ、なればなり。
生まれたのも夢ならば
こうして生きている
いや
生かされているのも、
夢なり。
そうして
いつか
死んでいくのも
また、大いなる夢なり。
病気も
災難も
大儲けも
妖艶な愛人も
名声も
誉れも
勲章も
悪罵も
大豪邸も
山成す黄金も
すべて
すべて
すべてが
仮のものであり
夢に他ならない。
この仮の世に於いては
本当のものなんて
何一つ
ただの一つも
本当のものなんて
ありえない
あるはずがないということさ。
この世は仮の世であり
この生は仮の生であり
この豪邸もまた、仮の家である。
すべて仮の物
すべて借り物である。
あなたは自分で自分の体を創造しましたか?
あなたは自分の意志で生まれましたか?
全てノーですよね。
気が付いたら生きてた
気が付いたらこの世にいた
それが事実でしょう。
つまり、
誰かから与えられたこの仮の生。
「誰か」からもらったこの仮の肉体。
たまたま偶然に、住んでるだけのこの家。
だから。
それらはいずれその「誰か」にお返ししなければならない時が来る。
この肉体も
この命も、
この家も
この財産も
決して永久にあなたの物でなんかないのです。
いつかはお返ししなければならない時が来るのです。
それまでの、、ほんのひと時の、あなたは、、ただの「一時預かり人」にすぎないのです。
この体
この家屋敷
この財産も
すべてがやがて返さなければならない「一時的保管者」に過ぎない、
それがあなたであり
また、私の真実の姿です。
たとえば、、、
愛する人と結婚できた。
ありがたくその偶然に?感謝しなさい。
その愛する人がわずか28歳で癌で亡くなってしまった。
それもそうなるしかなかったと、肯定しなさい。
産まれたからには人はいつか、遅かれ早かれ必ず死ぬのです。
それがこの人は28歳だったというだけです。
哀しいでしょうけど仕方のない事なのです。
或いはもっと残酷な急死、という場合だってあるでしょう。
事故死。殺人。災害死。
これらはまさに理不尽な、到底肯定できないような死ですよね。
でもあえて批判を恐れずに言うなら、、、
それも「ありうる死」、、だったということです。
人は自分の死を選べないのです。
突然の死も、、神の眼から見たら
ありうることの一つでしかないのです。
100歳まで生きる人もいれば
たった5歳で病死する子供もいる。
これが悲しい浮世の現実です。
選べない。
その人の意志や努力ではないのです。
いくら節制して健康維持に努力しても30歳で早死にする人もいますし
適当に暴飲暴食していても80歳まで生きる人もいます。
これはもう運命なのです。
それが寿命の不可思議なのです。
それがなぜかというと、
我らの生は誰かから与えられた物だからです。
私が私の生を創造したわけでないからです。
気がついたら?生まれていた
気がついたらこの世に生を受けていた。
あなたの命って誰かからもらったものです、。
それが事実です。
であるから
私たちは自分の命 俺の命 私の命
自分の人生と、勝手に思い込んでしまって、
信じ込んでいるが
実はその生は
「誰か」から与えられた物です。
決してあなたのモノなんかじゃあないのです。
あなたの自由になんかなりません。
あなたの意志に反して病気になるし
あなたの意志に反して死ぬのです。
あなたという存在は、「誰か」が作ったもの、
あなたは誰かから作られた存在。
あなたは誰かから与えられた命を「仮免許」?で、いきてるだけなのです。
つまり、、言い切ってしまうと、、、
あなたは神の被造物です。
神が、泥から作られた泥人形
神が、埃から作られた埃人形
神が、木切れで作ったデク人形。
それがあなたなのです
そしてこの私なのです。
そんなちっぽけなつかの間の借り物の存在
それがあなたなのです
そして私なのです。
そうして
だから、
泥から生まれたものはいつかまた泥に帰るしかないのです。
埃から生まれたあなたはまたいつか、、ホコリに帰るのです。
それは必然なのです。
神の作った泥人形は
例え一時的には栄耀栄華を誇ろうと
被造物ゆえに
ある日ある時
意に反して死ぬしかないのです。
それが泥人形の宿命です。
いくらあなたが「もっと生きたい」と絶叫しても無駄なのです。
死ぬべき時が来たら死ぬしかないのです。
それがあわれな被造物の運命だからです。
つまり、、、もう一度言いましょうか。、、
この世は仮の世であり
この生は仮の生であり
この家は仮の家である。
すべて借り物である。
誰かから与えらえたこの仮の生。
誰かからもらったこの仮の肉体。
たまたま偶然に、住んでるだけのこの家。
それらはいずれその誰かにお返ししなければならない時が来る。
この肉体も
この家も
この財産も
決して永久にあなたの物でなんかないのです。
いつかはお返ししなければならない時が来るのです。
この世に於いては
すべては、借り物であり、
間に合わせであり、
一時しのぎである。
そうして、
完璧なものとか、、、
不滅のものとか、、、、
永遠のものなんて
何も
何一つ
ただの一つもこの仮の世には、ない。
それが
この世の真実だ、
あなたという存在は、あなたの父母の縁によって
仮に呼ばれて、命を授かり
この浮世に客人として
仮に、来ているだけであり、
この世に永久にとどまれるわけでもない。
時至れば
あの世とやらに帰っていかなければならない運命でもある。
なぜなら?
あの世こそ
あなたが出でたってきた
ふるさとだからであり
この世は、ほんの束の間、過ごすだけの、
仮の宿に過ぎないからだ。
では?
そんな仮の世で
私たちはいったい
どう生きたらよいのだろうか?
或いはどう過ごしたら
いいのだろうか?
究極には
それは仏智であるところの、
無欲であり、、、、、
色即是空の生き方、、、、
衆生慈悲であり
菩提心であろうが、、、、、、
一庶民の迷える我が身に引き比べてみれば
そんな悠長な?こと言ってられる、余裕もないのが実情?ですよね?
だって
食うためには汗水たらして働かなきゃならないし、、、。
家には妻子が、給料を待ちわびているし、、、
日々の雑用は山成りしているし、、、
税金も督促状が来てるし、、、。
40年住んでいるマッチ箱建売住宅は雨漏りしてるし、、、。
でも、、、
言うまでもなく
そんな庶民人生もまた、、、
仮のものなんですよ。
夢は必ず醒めるんですよ。
あなたの
その
切実な
世知辛い
庶民人生も
また
いつか醒めるときが来るんですよ。
この仮の人生は必ず終わるんです。
大富豪人生も
庶民人生も
ともに終わります。
人生という
束の間の夢は醒めるときが必ず来ます。
その時どうするか?
いや、
それまでどうするか?
残された夢見る人生タイムは
意外に
少ないものですよね?
だから
ここは思い改めて
庶民人生で
雑事にかまけてるのも
ほどほどにして?
さあ、
そろそろ、、
生死迅速ということを勘考いたしましょうかね?
なぜって?
雑事まみれの、
食うためだけの、そんなあなたの庶民人生も
もうすぐおわりの時が近づいているからですよ、、、。
雑事と辛労と、労役と、忍従だけで
この仮の世の人生を
終わるというのも、
どうでしょうか?
最期には
せめて
玲瓏な白玉の
彼岸の仏智にでも
たとえわずかでも
触れてから
庶民人生を
終焉させてみたいとは
思いませんか?
それとも、
なんら悟ることも無く、、、
ある日
督促状の税金払いに行った帰り
脳梗塞で倒れて
御臨終ですか?
むなしいのが人生とは言いつつも、
これでは
又
あまりにも
むなしすぎませんかね?
あなたはどちらを選びますか?
人生を、『夢の中で夢を見ているようだ』と言った,古人もいますね。
どんな鈍い人でも、一度くらいは、いったい
『この世って、だまし絵?なんじゃないのかしら?』
と思ったことがあるのではないんでしょうか?
確かに人生は、不確かで、不合理で、不条理で、矛盾に満ちていて、
まるで騙されているかのようでもありますよね?
この肉体にしたって自分の思い通りにはいきません、
突然難病奇病になったり、余命半年なんて言われたりもしますよね。
自分の体さえ自分ではコントロールできないのです。
自分の体でありながら、制御不能です。
ですからこの体も借り物なのです。
あなたのものではないのです。
ある高僧はこう言いました。
「私は何十年前かに、母上からこの体をお借り申した。
だからこの借り物の体を、傷つけたり、損じたりしないようにこうして大事に使わせてもらってきた。
しかし今とうとう私にも死期が迫ってきている。
私はこの体五体すべてを、今すべて、お返しして死んでいきます」と。
体さえ自分のものではない、借り物、
まして、この世のその他のことなどすべて仮のモノ、に過ぎないのだ。
あなたのものなんてただ一つもないんだよ、
この家も、このお金も、そして妻も子もすべて借り物、
いつかはお返しする時が来るんだよ。
そうして真っ裸になって、閻魔大王の前に
引きずり出されて
うたかたの、仮の世の、人生夢草紙を
反省させられるんだよ、
「仮の世に仮に生まれて仮に生き仮に夢見て仮に死ぬまで」
この世は借り物であり、この世は仮の世である、
所詮は、あなたが長く留まるべき場所ではないのである。
ところで、
こんな言葉を聞いたことはないだろうか?
「あなたは神から使命を授かって生まれてきたのです。あなたはこのつかの間の人生でそれを
果たす義務があるのです」
でも?
平凡な、おバカさんの、庶民に過ぎないこの私の、
「使命」っていったい何だろう?
そんなものとてもあるようにおもえないんだけどなあ。
いいや でもやっぱりあるんだよきっと、
やっぱりあると思う、
使命は必ずしも、高邁なものばかりとは限らない、
卑近なもの、ありふれたものでもたぶん神の視座から見たら立派な?使命なんだと、今にしてみれば、私はそう思う。
ただし、その前に、人生をあまり、深刻に、過度に重大に思わないほうがいいと、私は思う。
なぜなら人生というものの正体とは、、あやふやで。不条理で、つかみどころがなくて、あれ?もう消えちゃったの?
というカゲロウのようなものだからです。
人生ほど不確かなものはありませんよ。
人生ほどあてにならないものもありません。
朝、ほっぺたが真っ赤な美少年だったのが、夕方にはまさか、荒れ野に死んで蛆がわいてるとは、、だれが思いますか?
でもそれが人生なのです。人生とはそういうものなのです。
誰にも、いつ死が来てもおかしくない。
あなたも私も、今元気でも夕方にはもう死んでるかもしれない。
それが人生の正体です。
そう思うと着飾るのも、美食三昧も。色恋も、金も、名誉も、むなしいこと限りありませんよね。
でも神は「それが肉の子の取り分だ」、といいます。
確かに、肉の子からこれらを取り去ったら、、何も残りませんものね。
「明日のことは思い煩うな。今そこにある肉の子の楽しみを楽しみなさい。なぜなら、それがあなたの人生の取り分だからです」
もっとかみ砕いて言うと、
「人生なんて終わってみれば、、なあんだ、こんなもんだったのか」
その程度のモノなんですよ。
といって小ばかにして?あるいは卑下して?
自暴自棄に生きることも神は望みませんね。
取り分に満足してその範囲内で行きなさいと言ってるだけですから。
自暴自棄で人生を毛嫌いして太く短くという生き方にならず。
かといって人生をあまりにも重大視して深刻になりすぎずに
ある意味
どうにでもなれ
なるようになれと
開き直ることが正解なのです
受肉の
肉の子の
被造物としての
人生を歩みやがて命の灯が尽きれば静かに死んで消えてゆくことを
神は(創造主)はお望みなのです。
「あなたは塵から作られた。だからまた塵にもどるのだ」
そうです。
あなたも私もいずれ消えゆくちりあくたにすぎません。
でも?それは神がワケアッテ?おつくりになった木偶人形です。
分際をわきまえて。
おごり高ぶることなく
かといってあまりにも卑下することもなく、
この夢の人生を生き切るのです。
人生を駆け抜けるのです。
そうです
人生の本当の意味って
縁あって、あなたに与えられた、
その命を生き切ることなのですから
あたえられたその命がある限り
その命の因果交流電灯を青白く点滅させて
生ききることこそが
神からの、まさに「使命」だという真実なのですから。
そうして
全身で生き切った跡には?
そうです。
何も残りません。
塵に帰ったからです。
塵は風に舞って飛び去り、
もう誰も
誰一人
あなたという存在がこの世に、かつて生きてたなんて知る由もないのです。
あなたは完全に忘れ去られるのです。
それでいいのです。
人生とはそういう意味でまさに夢そのものです。
おい、そこの君、人生はすべて夢なんだ。
そうじゃないのかい?
違うかい?
「夢の世を 夢とも知らず 迷わされ 思い遂げずに 辿る死の道」
「ついに行く道とはかねて聴きしかど、きのうきょうとは、思わざりしを」
「生死は事大なり、そして、生死は迅速なり』
「とりべ山たにに煙のもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ」
『仮の世を、仮の体で、仮に生き、目覚め知らずに、仮に死ぬまで。』
「仮の世に仮に生まれて仮に生き仮に悩んで仮に死ぬまで」
『白露のしずくに頬をなでられて夢仮の世の夢ぞ醒めける』
だから
まわれ
まわれ
風車
風吹く限りは
まわれ
まわれ
風車
波乱万丈の英雄の人生も、
あるいは、
平々凡々の庶民の人生も、
終わってみれば、
どっちも、
共に虚空に漂う、
ただの、まぼろし