22-深く沈んで滓に消える
それで、今、どうなっているの?
頭の中で声が響く。その問いを投げたのはその身体の持ち主だ。
「君は既に死んだ。それは理解しているか?」
ええ。そうみたいね。そんな気がする。
「私は死体に憑依することができる。こうして会話ができるほど自我が遺っているのはとても珍しいケースだ。ああ。決して多くはないが初めてではない。死に際にとても強い感情を持っていると死後の肉体に自我が残留することがある」
会話って……随分と一方的じゃない。まだ聞いてもいないことにまで答えてくれるなんて。私の考えてることは全て伝わってしまうのね。なのにあなたの考えてることは声にしてくれないと伝わらないなんて、不公平だわ。
……わあ、身体の主導権まであなたにあるのね。勝手に歩き回らないでよ。
「そういうものだ。君の自我がこうして意識を認識して会話できるのは、私が君に憑依することで、君の自我が私の能力に共鳴して起こる現象だからな」
よく分からないわ。でもまあとりあえず納得してあげる。
で?何の用なの?死んだとはいえ、私の体で好き勝手されるのは不愉快よ。
「ああ。君、どこか記憶が抜け落ちているだろう?」
体の持ち主――アニモの残留意識が脳の引き出しを漁り回る。直近の記憶から果ては幼少期の記憶まで、膨大な量のフラッシュバックがガイアの意識を飛び回った。アニモが熟考する間、ガイアも彼女の記憶を手掛かりにヒントを探していた。記憶の断片より彼女の死後日数を割り出す。……今日から7日前。他の村人は皆第四段階のストレイになっていた、つまり死後三週間ほどは経過していた。それに比べると彼女はまだ「死にたて」だ。
この違いはなんだ?単純に他の村人との接触が少なかったから感染が遅かったのか?彼女がこの家に追放されたのは今から一か月前。彼女以外の村人が病に倒れるようになったのは3週間前。そして彼女が調子を崩すようになったのは2週間前。死ぬ前の症状はほとんど共通している。脱水症状、ひどい熱、下痢、血痰を吐き身体のむくみ。彼女も病に感染していたというのは間違いはないだろう。
ねえ!聞いているの!?
意識を集中させ記憶を激流のように飛び交わせていたせいで、アニモの呼びかける声が聞こえていなかった。口に手を当てていたのをビクッと反射的に外し、「どうした」と落ち着き払って返す。
……あなたのいう通り、思い出せないことが沢山あったわ。
「不自然に欠落した記憶があるはずだ。矛盾しているようで証拠不十分な事柄はどんなことについて偏っている?」
分からない。分からないわ。いろんなモノが繋がらない。なによ、これ!訳分かんないわよ!
みんなみんな他人みたい……なんなのよこれ!
「安心しろ。私はそれを取り戻すために来た。その欠落した記憶――喪った命題を取り戻すためにこうしている」
窘めるように言って、まだ頭の中で喚くアニモを無視して歩き始める。
もう一度寝室へ行き、ベッドサイドテーブルの下の引き出しから日記帳を取り出す。表紙をめくって中身をもう一度見るが、何も起きない。
それ、私の日記帳よね。
彼女はこれを自分の日記帳だと理解している。誰から貰ったものかと問うと、淀みなく「父から」と答えた。手帳の内容も読めているようだった。枯れかけのランにも、お気に入りらしいロッキングチェアにも、彼女は特別変わった反応を示すことはなかった。それをいつ手に入れて、誰から貰って、どのように使っていたか、彼女は覚えていた。だが、壁に飾られたヒマワリのタペストリーについては、彼女の記憶が曖昧だった。「なんだっけ、それ」「私が縫ったの?それ?いつ?」「分かんないわよ」というふうに、脳みそをぐずぐずと掻き回し始めた。
次に、リビングの箪笥から毛糸のかせや裁縫道具を見せた。だがしかし、どんな毛糸のかせや棒針、定規を見せても、彼女はタペストリーの時とは違って顔をしかめることはなかった。
「このハサミ、君の名前が掘ってあるだろう。誰かから貰ったものか?」
これもまた淀みなく、「お母さん」と答えた。
「なら、これを渡されるとき、なんと言って渡された?」
……あれ?何、なんで?分からない。
「だろうな。なら次だ。誰かから物を貰った時、その誰かはどんな気持ちをしていたと思う?」
分かんないって言ってるでしょ!分かんないわよ!何なのよその質問!
「誰かに物を渡したとき、相手はどんな感情を抱いたと思う?」
知らない!知らない!誰かに物を渡した事なんて無い!!
癇癪を起こした子供のように、アニモは喚き始めた。ガイアが身体の主導権を握っていなかったら彼女は泣き始めていたかもしれない。
「……なるほどな」
この一連のやり取りで、ガイアはアニモという女のことをおおよそ理解できた。元より聞き取りを行う必要はなかった。彼女の記憶はガイアも見たからだ。彼女が生前何をしたか、どう生きたかは既に知っている。だからこそ、彼女の反応で問いの答えにさらに確信に近づくことができた。
背嚢を背負い、ランタンを手に家を出た。もうここに用はない。林の脇に咲くベラドンナを横目に村の中心へと歩いていく。目的地は集会所だ。
ねえ、なんなの?どこに行くの?
「今から君を命題の元まで運ぶ」
アニモという女はとにかく幼稚だ。わがままな子供だ。子供というのは往々にして周囲を気にする。周囲の声に敏感になる。理不尽なまでに自分本位で突拍子のない事をやらかす。
だから彼女の命題は、一見脈絡が無いようで、だからこそ分かりやすい。子供というのは『周囲から見た自分』の在り方に固執する。ならば、物理的なそれはどこにあるのか。
それ、取り戻すとどうなるの?
「君の自我は消えてなくなる」
は!?なんで!嫌よ、そんなの!
「悪いが君に拒否権は無い。これは私の仕事だ」
コートを再び風が靡かせる。ガイアは無表情に告げる。
「どちらにせよ、君の自我はもう数日で消える。命題を取り戻さなかったとしても、肉体の腐敗は進行していくからな」
え……なによ、それ。
「最初にも言っただろう。君が意識を保てているのは私がこの身体に憑依しているからだ。それに、君はもう既に死んでいる。ストレイ……ゾンビになるよりはマシだろう。ここが潮時と諦めろ」
その声は夜風よりもなお冷たい。その足取りは衰えず。淡星の導く広場へとたどり着く。
アニモはもう、何も言わない。頭に思考が響かない。喪った記憶は未だ戻らず。だがその星の尾はもうすぐそこにある。破れた入り口を潜り、その奥の部屋へと歩いていく。
身体がガイアの意志と無関係に動き始める。沈んでいた思考が再び蠢き始める。喪われた記憶が戻ってくる。
アニモという女はとにかく周囲を気にしていた。周囲をよく観察し、その環境を愛した。身近なものに好意を持ち、あらゆるものに興味を示した。そしてその好いたもの全てを、彼女は欲した。いや、「周囲の中にある自分」の証を、彼女は欲した。「周囲が抱く自分への評価」を、彼女は求めた。
ガラクタの散乱した部屋の奥へと手を伸ばす。伸びる手は迷いなく。汚れた靴がくたびれたシャツを踏みつける。腕が青色の布を掴んで、引き上げた。
「なるほど。これがアニモの命題か」
青い布地に刺繍された一輪の大花。太陽の色のタペストリー。アニモが生前、ユビンに送ったもの。
数ある「周囲にあるもの」の中から、なぜこれが命題足り得たのかは、おそらく彼女の死に際の激情にある。最も強く固執した人物に対する感情が起因となっているのだろう。
それを握りしめた拳は開かないが、引き換えに身体の自由が戻ってきた。
アニモの意識も完全に消失したようだ。脳をかき乱す騒音が無い。
これで、じっくり考えられる。
女の自我の抜け殻で、ガイアは思案する。
誰もいない集会所の中、ひとつきりの意識の中で、会議は踊る。
そして、結論。
「一連の事件は、誰かが意図したものだ」