21-執着始発
また、いつもの夢をあなたは見る。
暗くて軽くて暖かくて心地よい暗い闇の中で、目を覚ます。
そんな羊水のような闇に包まれている。
原初の闇の坩堝。総ての始まりのうつほ。
思考が溶けていく。思考が消えていく。あなたの思考が渦巻いて、無くなる。
原初より溢れ出す惑星の活動。原点から流れ出る生命の胎動。
核心で揺らめく激流のような炎。最後の確執さえ攪拌された白日の記憶。
綴じられた袋と貫く墓標。漂白され漂泊した果てに漂着する故郷。
けれども、楽園は既に枯れ果てた。それでも、塵は種子となり残滓は生命を育む。
根は薪を這い、茎は灰を貫き、葉は夜を覆い隠していく。いずれ咲く花は風を彩る。
あなたは始発点。朝露の雫が垂れ堕ちるまで、楔を穿たれたあなたの視点は逸らせない。
いずれ終着点に至るまで。いずれ故郷が蝕まれるまで。斜陽の晩鐘が鳴りやむまで。
あなたは、剪定される万象を観測し続ける。
それが、あなたの定理だから。
――そう、これはいつか憶える在る時の――
〇
その日、私は――になった。
彼の空の鏡のような瞳に映し出されて、この命は輝くのだろう。
そう、信じてやまなかった。
でも、黒いクモがそれを阻んだ。空を雲が覆い隠してしまった。そのせいで彼の瞳は濁ってしまった。
ががが。ざざ。嵐のようなノイズが吹き荒ぶ。
骨を貫くような寒さで目を覚ました。凍える身体を縮こませて、手をこする。はあぁ、と息を吹きかけて手を温める。
顔も洗わずに足早にリビングへ移動した。発火の魔術が刻まれたスクロールで赤い魔石を包んで小枝とともに暖炉に投げ入れる。ほどなくぱちぱちと薪が鳴き始め、赤い炎が揺らめきだす。寝ぼけ眼のまま手を火にかざし、手が温まるまでそうしていた。
簡単な朝食を摂ると、まずは散歩に出かける。健康な身体を維持するための毎日の日課だ。朝の散歩は好きだ。太陽すら昇っていない、彩度の低い静かな――好きだ。鼻の奥までつうと抜ける冷たくて澄んだ朝の空気が、好きだ。人ひとりいない早朝の畦道をるんるんと鼻歌を歌いながら歩いていく。
霜柱をしゃくしゃくと踏み鳴らす。るんるんと歌う。しゃくしゃく。るんるん。
村のまわりを一周するころには完全に朝日が昇っていて、村の人たちと挨拶をしながら家に戻った。
家に帰っても、――――するばかりで、一日のほとんどは暇だ。この時期は農業もしないし、皆家で副業に励んでいる。日の当たる窓際の、お気に入りのロッキングチェアの上で外を見ながら、日が暮れるのを待つ日々。何にもせずに、ただ椅子に揺られている。
「アニモ、あなたもこっちに来て手伝ってちょうだい」
窓の外を眺めてどれくらい経ったか、ふと名前を呼ばれた。――がこちらを見ている。相も変わらず暇なので、母の副業を手伝った。今日は黄色の糸を真っ青な布に縫いつけて、お花の模様を描いていく。次はもっと濃い太陽のような黄金色。次は畑の黒土色。沢山時間をかけて、ようやく一枚の刺繍を縫いあげる。
目の前に広げて掲げ、仕事の出来栄えを確認する。太陽の花。ヒマワリの――――。うん、綺麗だ。この辺りでは栽培していないけれど、もう少し西の方に行くと大きなヒマワリの栽培地域があるそうだ。ざざざ。東南の方にも農場があると聞いた事がある。この花は好きだ。元気を貰える気がする。
隣の母をちらりと見ると、母もヒマワリの――――を縫っていた。お揃い、いや、全く同じものを作っている。机の上には完成した同じものが何枚か重なっていて、母の集中力の高さを思い知った。そんな母が好きだった。彼女の――に――――いた。
夜になると、母が夕食を作ってくれた。豆と根菜のスープ。決して味がいいわけではないけれど、体の芯まで温めてくれる――――が好きだった。ご飯を食べたあと、桶に汲んだお湯とタオルで身体を拭く。ぐずぐずしていると身体が冷めて風邪を引いてしまうので、てきぱきと行う。
いつの間に眠っていたのか、再び目を覚ますと朝だった。胸を反らして肺の空気を入れ替える。顔を洗って、散歩に出かける。もうだいぶ暖かくなってきた。新しい季節の訪れを報せるように、道端の雑草が新緑を朝日に照らしている。そんな変わらないようでたしかに変化のある景色を見つけながら、るんるんと鼻歌を歌って歩いていく。
道すがら近所の人たちに挨拶をして、家に戻る。最近引っ越してきた女の人にも挨拶をする。彼女はなんだか顔色がずっと悪くて、なんか気に入らない。家に戻れば母が用意してくれた朝食を食べて、今日も家の仕事を手伝う。そんな変わらぬ毎日を過ごす。ざざざ。
都会の方へと出張に出かけていた父がお土産にくれたのは一冊の――――と丁寧に製本された小説だった。本は高い。この二冊に実際はどれだけの価値があるのか、想像もつかないが、きっと畑一枚からとれる恵みでは足りないぐらいの価値があるだろうことは実感できた。暇があればその本を読んだ。自分の元へ帰らぬ大切な人を待ち続ける男の話だった。主人公の気持ちはよく分からなかったけれど、嫌いではなかった。それどころか、傷んだ心を癒すのは薬ではなく、それ以上の劇薬だ、というメッセージはなかなかに良かった。
そしてそんな時だ。激情がやってきたのは。
彼の髪は白昼の麦畑の色をしていた。彼の瞳は、まるで空の鏡だった。その姿に、その顔に、その瞳に、端的に言って一目惚れした。だを好きだと思った。
「ねえ!アナタ、名前は!?」
視界に彼を見つけたとたんに、詰め寄った。好きな花は?好きな料理は?好きな話は?あ、それ――も好きよ!それなら――も知ってるわ!波頭の崩れるが如く、沢山の質問で埋め尽くした。ざざ、ざざざ。
彼は物書きだそうだ。彼は――色が好きなのだそうだ。誰は――が好きなのだそうだ。彼の好きな料理は――だそうだ。彼は無尽蔵の質問に、真摯にひとつひとつ、全てに答えてくれた。日が暮れるまで、机に向かいながら答えてくれた。そして彼の好きなものを、同じように好きになった。彼に――――をプレゼントした。彼はこの気持ちに答えてくれた。彼の中に――がいる。――何がいるんだ?ざざざ。
それがとても――――った。この人生でこんなに幸せなことがあっていいのかと思うほど、充実していた。――何がそんなに、ウレシイんだ?
なのに、その幸福は長く続かなかった。
あの女だ!あのいつも澄ました女!毎朝挨拶してやってるのにいつもはっきり喋らないあの女!
なんで!どうして!みんな話を聞いてくれないの!
あの女が横取りしたんだ!あの女が後から入ってきたんだ!
ああ、ついに母と父まで、信じてくれなくなった。
村はずれにある小屋に押しやられた。追放というやつだろう。
「村から追い出さないだけ感謝しろ」だの「この魔女」だのと何度も言われた。それでも村から追い出さない理由は、父と母が何度も頭を下げたかららしい。
――そんなの、嬉しくない。信じてくれなかったクセに。この死にたくなる気持ちが理解できないクセに。心配してるふりしてせいいしているクセに。
日記を書くことにした。父から貰った日記帳を開いて、まず一ページ目に書き込む。
『――、――――――する』
堰を切るように、溜まった思いが爆発した。気の赴くまま、喉の奥が痛くなくなるまで、爪を噛む歯が痛くなくなるまで、お腹の下の方のぐるぐるが無くなるまで。書き殴って書き散らして書き連ねて書き下して書き捨てて書き荒らして書いて書いて描いて掻いて怪て画いて戒て開て解て斯いて書き続けた。
それから泣き疲れて眠ってしまうまで書き続けて、それで起きた時、書いていた全てのページをびりびりに破いて、燃やして捨てて、ヒステリックにまた泣いた。
それからはただ退屈な日々が続いた。林の中の家に押し込まれて、外には出させてくれないクセに、仕事は奴隷のようにさせてきた。
好きだった――も、しだいに見るのも嫌になってきた。いつからか心の中に住み着いた魔物が胸の内から悉くを食い散らかしていくのを感じた。あの人が来てから、こんなにもぼろぼろになってしまった。あなたは何も知らない籠の中の鳥の心になんでもかんでも火をつけて回ってきたクセに、この緋色の火の子を沈めてはくれないの?いや、きっとあなたなら来てくれるはずだ。あなたは選んでくれるはずだ。絶対に裏切らないはずだ。絶対に許してくれるはずだ。悪くないと言ってくれるはずだ。でなければ――を返してちょうだい!私は、こんなにも――――なのに!
私が、何をしたというの?私はこんなにも正直に生きているのに!
私の、どこが気に入らないの?私はこんなにも良い子にしていたというのに!
どうして私じゃなくて、あんな性悪女を選ぶの!私はこんなにも可愛らしいのに!
――許せない。許さない。ありえない。
私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は
復讐、開始。
〇
ぱち、っと瞼が開いた。視界は思いのほかクリアだ。机の上に置かれたランタンが部屋を白く照らしている。自分の上に覆いかぶさった女をどかす。体の具合を確かめながら、立ち上がる。
「――”其は大地の眷属。其は星の精霊。契りは成った。吾は大地の生命。吾は精霊の御子。契機に応えよ。我に祝福を授け給え”――」
女の頭をなでるように手を添えて言葉を紡ぐと、その女の頭が青白い炎に包まれた。黒ずんで爛れた肌が白さを取り戻していく。そして再び、黒く変色しその身体を塵に還していく。頭から首へ。身体全体へ。腐肉の焼ける匂いが部屋に満ちていく。
コト、と音がした。それはもう姿の無い女の手を貫いていた簪だ。床にはたりと落ちたコートを拾い上げる。わざわざ手に持つのも面倒なので着てしまおう。コートに袖を通してから、簪を拾おうと床に手を伸ばした。その時、
ねえ、なにをしているの?
突然、声が響いた。
ねえ、聞こえているんでしょう?無視しないでちょうだい。
それはどこから響いたのか。部屋には誰もいない。空気は震えていない。
ならばそれは声ではなく、その問いの主は明白だ。
「……驚いた」驚いたのはこっちのセリフよ。
「まさか、」だって、
「まだ自我が遺っているとはな」私の体に誰かいるんだもの。