17-追憶遡上
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暗い部屋のベットの上で、目を覚ました。
随分と永く眠っていた気がする。体中が重くて、瞼は開けられたが身体を起こすことができない。
風船の口を解く時のように、肺じゅうのガスを一気に全て吐き出した。
口内は完全に乾いていて、喉の奥ががらがらと痛い。
体を横に倒してみる。下敷きになった細い腕がすぐに痺れた。なんとかして身体の外側に出す。
「ゲェボッ、ぇホッ、ぇぉっ、オエッ!」
一瞬身体を上げただけなのに、とても辛くて倒れてうつぶせになった。咳を吐き出した先のシーツを見ると、黒い染みがあった。暗い部屋の中でも良く見える。吐き出されたばかりの赤黒。鉄臭い味が口の中に広がる。洞を風が通るような音を立てて息をする。ぜえぜえと呼吸をするのがやっとで、その染みを見ていると頭がくらくらした。
部屋には明かりひとつない。今は夜だったか。いや、そもそもこの部屋に窓なんてあっただろうか。まあ、いいか。どうせじきに暗くなる。瞼が閉じていく。
最後に人に会ったのはいつだったか。昨日は、何も無かった。
最後に歩いたのはいつだったか。一昨日も、何も無かった。
最後にあの人に逢ったのはいつだったか。その前のひも、何も無かった。
最期に、ぼやけた視界の中からベッドの端に置いてある簪を見極めて力いっぱい掴みよせて、握り込む。
ああ、これがあれば怖くない。
意識が薄れていく。瞼が閉じる。記憶が綴じる。
ふととんだ意識を取り戻す。疲れているのだろうか。自宅の扉の前に立っていた。手をかけていたノブをつかんで外に出ると、灼きつくような朱色が眼を眩ませた。反射的に腕で顔を隠したが、斜陽は肌と肉を貫いて眼球を突き刺した。
「おや、起きて大丈夫なのかい、ユリィ」
すぐそばから聞こえた声に振り向くと、扉のすぐ傍らに男が座っていた。麦畑をかきまぜたような煌びやかな髪が夕日に輝いていて、とても綺麗だった。空を梳いた様な優しい瞳がまっすぐこちらを捉えていた。その姿は凛としていてとても画になっていたけれども、どこか淋しそうな、つつけば割れてしまいそうな儚さがあった。
「おはよう。それとももう『こんばんは』になるのかしら、ユビン」
彼を見つめ返してできるかぎり自然に微笑んで見せた。彼は眩しそうに、痛々しく眼を細めた。それを見ているとなぜだか途端に心が苦しくなって、自然と眼窩から涙が溢れた。立っていられなくて、膝から彼に崩れ落ちて、倒れ込むように抱きしめた。しくしく泣いて、硝子細工のような涙が零れた。
ユビンも唇を噛みしめながら、腕の中の今にも割れてしまいそうな女を精一杯抱きしめた。「ごめん、ごめんなぁ」と女の小さい背中を大きくゆすりながら、汗だらけの頬に躊躇いなく擦りつけて、彼も泣いた。髭が少し生えた彼の頬はじょりじょりしていて不思議と心地よかった。
もうじきこの体は死に至る。もうすでにこの体は病に侵されている。
いや、もうこの村は終わりかけている。村じゅうのみんな、どこかおかしい。
体が枯れそうなほど吐いたり、沸騰しそうなほど熱を出したり、体が泡みたいにぶつぶつしたり、みんなおかしい。
村にひとり来てくれた軍医の先生は流行り病だと言っていた。
もらった薬は寝込んでいる内に無くなった。村の井戸の水を枯らすぐらいたくさんの水を飲んだ。たくさんのうんちを下した。でも食べるものは殆どなくて、ようやく食べられたものも結局吐いてしまって体内にはほとんど入って来なかった。そうしているうちに体はどんどん細くなって、体調はどんどん悪くなって、ベットの上で過ごすことが多くなった。ユビンはまだ幾分か元気らしく、今日は街まで薬を買ってきてくれたらしい。ユビンはこの村には住んでいない。まだ元気だから、この村から出て行った。村長がそう指示した。
ユビンから薬を受け取って、家に戻った。扉を隔てて彼と手を合わせる。だらんと跪いて、扉の先にいる彼を想った。いずれ聞こえてきた靴音を追いかけるように手を伸ばして、それは扉に阻まれた。
次は、いつ会えるのだろう。次は、いつ来るのだろう。次は、あるのだろうか。
豆や根菜を煮込んだ味のしないスープを啜って薬を飲みすぐにベッドに戻った。
まだ陽が落ちたばかりだが、もう体力は無かった。
「ユリアおばさん!火ぃちょーだい!」
突然後ろから名前を叫ばれた。振り返ると村の子供たちが呼んでいた。どうしたのか尋ねると、どうやら蛇が出たらしい。蛇くらいなんてことぁないだろうと言うと、
「蛇が村ン中に卵、産みやがったのさ!だから燃やしてやろうって」
持っていた桶を下ろして、かわりに走ってきた少年にげんこつを振り下ろした。
「そんな簡単に生き物の命を奪うんじゃあないよ!遠くに捨ててくるだけにしなさい」
よろめく少年に追撃をかけるように叱る。少年は観念して他の子供たちが集まっているところへと戻っていき、やがて子供たちは木の棒の先っちょで白い卵を挟みながら、協力して村の外へと消えていった。
それを見届けると、置いた桶を持ち直して井戸の方に向かった。
「昨日はあれから大丈夫だったかしら?」
水をくみ上げていると、声をかけられた。そちらへ目をやってみると、隣の家のガーラが手に桶を抱えていた。昨日は、というのも、昨日は畑仕事の最中に貧血を起こし倒れているところを、通りかかった彼女に手を貸してもらったのだ。ええ、もうなんともありませんと答えると、奥さんは笑って目を細めた。ほんとうは日光を浴びるだけでまだ少し頭がちかちかするが、それでも昨日と比べるとだいぶ楽になった。
「そういえばお隣のミーシャさんも体調を崩して床に臥してるそうよ」
ガーラに井戸を譲ると、話は文字通りの井戸端会議へと移った。
今年は雨が少ないこと。先日やってきた軍医の先生のこと。子供のこと。ミーシャが体調を崩したらしいこと。お隣、とはいっても畑をいくつか隔てた隣のため、物理的距離は隣とは言い難いところがある。それでもお互い毎日顔を見合わせているのだから互いの体調は把握している。近頃体調を崩すものが増えている。お腹がゆるく鳴ったり微熱を発したりと症状は軽いため、季節の所為だとかそういうところだろう。集会所にもなっているこの広場でたむろしている子供たちの姿も、いつもよりも少なかった。
「わ!」
少し考え事に呆けていると、突然大声がした。びっくりして顔をあげて、横を向いたガーラの視線を追ってみると、そこに黒いひものような、蛇がいた。
「きっと卵を探しに来たのね」
あれはきっと母親だと直感した。今しがた子供たちが村の外まで追い出した卵の母だ。その頭をきょろきょろと動かしながら地面の上を這っている。一瞬、目が合った気がした。視線はすぐに外されたけれど、その黄色の瞳の中に刻まれた黒い瞳孔がたしかにこちらを見た。心の奥まできゅうと掴まれた気がした。
その黒蛇は細くて長い舌をちろちろと出し入れしながら、やがて広場の外まで出ていった。
ガーラと別れ、桶を家まで置きに行って、それから日が暮れるまで農作業をした。
家の貯水釜にある水を何杯か掬って、沸かす。それから布を浸して絞って体じゅうを拭った。蝋燭の小さな灯が体をぼんやりと照らす。おなかの下の方についた古傷をなでると、胸の底の方に澱となって沈んだはずのものが舞い上がって、いつのまにか涙が出ていた。
それから炊事場で夕食を作る。根菜や少しのお肉を煮込んで、シチューと呼べるかもしれない料理を作った。スプーンでひとさじ掬って口に運ぶ。舌先からじんわりと熱が広がって、それからスープの味が伝わり、次いでお肉の味が流れ込んでくる。卓に並べられた料理は一人分。
旦那は2人の子供が死んだ状態で生まれてきた時にどこかへ行った。
もう何年も前のことになる。まだ都会にいたころ、前の旦那と駆け落ちして実家を飛び出した。女手一つで姉弟を育ててくれた母にも、その弟にも猛反対されたが、結局振り切って実家を飛び出した。何か月かしてお腹に子供がいることを旦那に打ち明けると、その日はとても喜んで、随分と高いウォッカを二瓶も空けて騒いでいた。思えばあそこが、この人生で最も明るく輝いていた時期かもしれない。
それから何か月かして、お腹の子がいよいよ生まれてくるかもしれないという時に、お医者さんからお腹の子が流れてしまうかもしれないと伝えられた。そのお医者さん曰く、そのお医者さんは街でも有名な方だったのだけど、子供は感染症に罹っているとかで、もし無事に生まれてくることができても、この街では生きていけないのだそうだ。この街の汚れた空気をたくさん吸い込んでしまったことが、もともと子供への悪影響だったことも手伝って、子供が重い病気に罹って生まれてくることも少なくないらしい。たちまち怖くなって「今から田舎の方へ引っ越すのはどうか」とお尋ねしたが、今からではもう遅いこと、こんな時期に馬車に揺られるなんて子供だけでなくあなたにも悪いということを言われ、結局お腹の子を流すしか選択肢がなかった。
お腹にかかえていたものがなくなると、旦那は家に引きこもり、部屋中の物を壊す癖が生まれた。酒が切れると何度も殴られるようになり、ついに帰ってこなくなった。
胸の奥に魔物の卵が棲みついたように、ぎゅるぎゅると心の奥を蝕んで、掻き回して、何回も吐いた。
ようやくなんとか外に出られるほど回復して、散歩を日課にし始めた。目的もなく街を彷徨い歩いた。街を往く人はみな布か何かで口を覆っていたので、真似をして散歩することにした。これだと誰が誰だか覚えられなくて、なんだか楽しかった記憶がある。
でもその日は違った。ふと訪れた酒場に、旦那がいた。若い女の人を傍に侍らせていて、上機嫌に杯を飲み干していた。その若い女の人の肩を抱きながら、ついにこちらに気づくことはなかった。
もう何も考えられず、家まで走った。心の中に棲みついた魔物がどんどん心を食い散らかして、何も考えられなかった。魔物の牙が体の内側から全てを切り刻んでびりびりにしてすたずたになってぐるぐるぐるぐる、ベッドの上でとぐろを巻くように膝を抱えて泣き続けた。泣き疲れて目を覚ました時、もうこの街に居場所はないと感じた。啖呵を切って出てきた以上、実家に戻ることも出来なかった。
なんとか移住先を見つけて、今のこの田舎の寒村で農作業をしながら、古傷を癒すように、羽を休めるように暮らしている。
鍋の四分の一ほどのシチューを食べ終えると、食器を片付けて眠る準備をした。残りは明日の分だ。
蝋燭が無駄にならないように手際よくベッドメイクを済ませ、飛び込んだ。
今の生活は、決して豊かではないが満足している。
けれども、ひとつ、この生活に彩りを落としてくれるものがあるなら、蓋をした心を潤してくれるものがあるなら、それは男だろう。誰かに、愛されたい。ベッドの上でその睫毛を見つめたい。肌に触れて、触れられたい。そんな醜くくて浅ましくて単純な思いを、きっと渇望している。
それから何週間かして、軍医の先生の定期診察が訪れた。でもその日は先生と助手の方だけではなかった。
馬車から降りて、こちらへ歩いて来る。
麦畑をかきまぜたような煌びやかな髪が太陽の光を吸って輝いていた。
その男の瞳は空のようにどこまでも澄んだ青色で、鏡のように風景を反射していた。
その瞳に、私が映った。
私は、その鏡に吸い寄せられるようにして彼を求めた。
彼の名は、ユビンと言った。
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