わたしが生きる理由
―――― 死にたい。
仕事で失敗してしまった。職場の人に多大な迷惑を掛けてしまった。
自分の力で挽回出来るミスでは無かった。
―――― わたしはどうしてこうなんだろう……。
小さい頃から人とは違っていた。
特別という意味ではない。人よりも劣っていたのだ。
小学生の頃は忘れ物が多く、宿題もいつも遅れて出していた。
人の話をよく聞けなくて、おまけに注意力も散漫で、遠足の時はみんなが移動している中で使い捨てカメラのシャッターを切り続けていた。現像する気も無い癖に必死になって写真を撮っていて、先生に怒られた。
そんなんだから、いつも虐められていた。バカにされて、笑われて、それが当たり前になっていた。
社会に出た後、いつも人から笑われているような気がした。誰かが小声で話していたら、それが自分の陰口を叩いているのだと錯覚した。
人が怖くて、人が嫌いで、人の顔を見る事が出来なくなっていた。
職場の上司はそんなわたしの欠点を見抜いていた。
『ちゃんと顔を見ろ』
『笑顔! 大事だぞ。こうだ!』
『言葉はもっとハキハキ言うんだぞ。オドオドするな!』
そんな風にたくさんのアドバイスをくれた。だから、期待に応えたくてわたしなりに必死だった。上司の指示で遠くに異動になった時、実家から離れるのが嫌で嫌で仕方がなかったけれど笑顔で頷いてしまった。一人暮らしは寂しくて、必死に自分を鼓舞していたけれどストレスが溜まり続けて異動先の職場でどんどん孤立してしまった。
実家近くの職場に戻された時はホッとした。だけど、それまでとは全く違う業務を命じられてしまった。不安で仕方がなかった。わたしには無理だと思った。だけど、期待に応えたかった。
必死に新しい業務の事を勉強した。でも、現行の業務も並列して行わなければいけなくて、わたしの集中力は更に散漫になってしまった。出来ていた筈の事も出来なくなって、どんどん自分に対する信用度が落ちていった。
挙げ句、とんでもないミスを犯してしまった。
「もう、疲れちゃった……」
こういう時、涙を流せたら楽になれるのかもしれない。だけど、わたしは泣き方が分からなかった。
学生の頃は泣き虫だった筈なのに、悲しい時も苦しい時も涙を流す事が出来なくなっていた。
作り笑いは得意になったのに、泣いた振りすら出来ない。
「……あっ、降りなきゃ」
降りた後、前を見た。向かい側の電車がもうすぐ到着するとアナウンスが流れて来た。
とても不思議な気分だった。
死にたいと思った事は今までもたくさんあった。でも、実際に死のうとはしなかった。
痛いのは嫌だし、死ぬのは怖かったからだ。
だけど、わたしの体は吸い込まれるように前へ進んでいった。
―――― 終われる。
それがとても魅力的に思えた。
体に力が入らなくて、目の前がクラクラして、苦しくて堪らなかったからだ。
フラフラと進んでいく。電車に飛び込んで死んだら家族に大変な迷惑が掛かるのに、仕事だってわたしが抜けた分を補填する為に同僚や上司が大変な思いをするのに止まれない。
―――― ああ、わたしって身勝手だなぁ。
いつも愛想笑いばかり浮かべていた。
みんなの仕事が少しでも楽になるように自分の持ち分以上の仕事をこなして来た。
誰かが失敗したら必死にフォローしたし、大丈夫だと励ましてきた。
先輩や上司の愚痴にも付き合って来た。
頼まれ事や命令には二つ返事で応えて来た。
それは全部自分の為だった。みんなに優しくしてもらいたかったからだ。わたしが励ました分だけ励まして欲しかったからだ。フォローした分だけ、フォローして欲しかったからだ。そういう醜悪な部分を隠し通せていると錯覚していた。
―――― 本当に嫌になる。
わたしはわたし自身の事が誰よりも嫌いだ。
生まれてくるべきじゃなかった。生きるべきじゃなかった。
「無責任過ぎない?」
「え?」
いきなり、目の前に奇妙な少女が現れた。
髪が赤い。それに肌が白くて、瞳は青い。外国人だ。
「わたし、どうしたらいいの?」
「え?」
流暢な日本語で問い掛けられた。だけど、わたしには彼女が何を聞きたいのか分からなかった。また、人の話をまともに聞けない悪癖が出たのかと思ったけれど、どんなに考え込んでも分からないままだった。
「わ・た・し! 分からないの? アリーシャ・ヴィンセント。アンタが書いてる小説の主人公だよ!」
「ア、アリーシャ!?」
それは確かにわたしが書いている小説の主人公の名前だった。
飽きっぽくて、感性も死んでいるわたしが唯一続けられている趣味が小説の執筆だった。
学生時代からパソコンで小説を書き始めた。小説と言っても、オリジナルの物ではない。二次創作小説という既存の物語を土台にした物だ。
最初は大好きだったノベルゲームの二次創作小説をネットで読んだ事が切っ掛けだった。原作のゲームとは異なる展開にワクワクして、その日は徹夜をしてしまった。その小説を皮切りに様々なネット小説を読み耽った。
そんな中で自分でも書いてみたいと思った。その時丁度読んでいた忍者を主役にした漫画の二次創作を書いてみた。すると、感想を貰えた。それが凄く嬉しかった。
初めは完結させる事が出来なかった。思いついたネタを書いてみて、途中で展開が思いつかなくなってしまう事が多かった。
だけど、一つの作品を完結させる事が出来た。それはわたしがネット小説に触れる切っ掛けになったノベルゲームを題材にしたものだった。感想をたくさん貰えた事もモチベーションを高める事が出来た理由の一つだった。
それから同じ原作を題材に別の作品を書き上げた。三作書き上げた後は別の作品を題材に書いてみる事にした。学生の頃、夢中になって読んでいた海外の小説だ。その作品の二次創作小説はとてもとても長い内容の物になった。感想はあまり付かなかったけれど、わたしはいつの間にか書く事の楽しさに惹かれていた。
わたしではないわたしが大好きな物語の世界を旅している。
気づけば映画を見ている時や本を読んでいる時に自分の小説に取り入れられる物がないかを探るようになっていた。ゲームをプレイしている時もわたしは同時に自分の分身とも言えるオリジナルの主人公が物語の展開を変えていく妄想をするようになっていた。
何作も書き上げている内にオリジナルの小説を書いてみたくなった。だけど、どんなに頭を振り絞っても序盤で展開が思いつかなくなってしまった。
自分だけの世界が欲しい。わたしの主人公達の物語を書き上げたい。
そう思えば思う程、わたしの中から何かが零れ落ちていった。
二次創作の小説も途中まで書いて投げ出してしまうようになった。
アリーシャはそうした二次創作小説の主人公だ。
「ねえ、分かってるの? 君が君の物語を終わらせてしまったら、わたしの物語も道連れなんだよ?」
「……これ、夢? それとも、わたし、もう死んでるの? 走馬灯……?」
「違うよ! いや、違わないのかな? だって、わたしを生み出したのはあなただもの。あなたはSNSで作り上げた仮想の自分を主人公にしてみた。それがわたしなわけだから、言ってみれば、わたしはもう一人のあなただもの」
「……えっと」
確かに、アリーシャはわたしがSNSに投稿する時に作り上げた仮想の人格をそのまま主人公の性格として当て嵌めた存在だ。他人とのコミュニケーションが上手く取れない現実の自分とは違う、わたしにとっての理想の自分だ。
「理想……? 今まで書いてきた二次創作小説を切っ掛けに声を掛けてくれた人達の呟きとか、漫画やアニメの元気な子のセリフとかを真似ただけでしょ? だから、わたしのセリフとか心情って、すっごくブレブレだったじゃない」
自覚はある。だから、言い訳染みた内容の話を書いてしまった。
アリーシャの性格がブレていたのはそれなりの事情があったのだと、そういう話に持っていく為の展開を書いてしまった。それがあまりにも醜悪に思えて、続きを書く気が無くなってしまった。
「……現行で書いてる主人公の話は随分ノリノリみたいじゃないの」
アリーシャに睨まれた。彼女の物語を手放した後もわたしは書く事を止められなかった。
現行で書いているのはわたしとは全く違う主人公。好きな漫画の好きなキャラの性格を当て嵌めて書いてみたら感想もたくさん貰えた。
アリーシャを書いている時とは全然違う。
「そんなにわたしの事が嫌いなわけ? 自分自身だから?」
そうだ。わたしはアリーシャの事が嫌いだ。
だって、彼女はわたしだから……。
「だから、道連れにするって言うの? わたしはまだ終わりたくないと思っているのに?」
「……終わりたくないの?」
「当たり前でしょ! アンタの好きなうんざりするような陰鬱な展開がやっと終わったのに! その直後に物語を手放すなんて、嫌がらせとしか思えないんだけど!?」
「べ、別に陰鬱な展開が好きなわけじゃ……」
実際、わたしは陰鬱な内容の本や映画がとても苦手だ。
見るなら明るい内容のものがいい。
「でも、アンタはいつも陰鬱な展開を書くじゃない」
「だけど、最後にはキチンとハッピーエンドにたどり着かせようとする」
アリーシャの言葉に続くように知らない男の人が現れた。顔が見えない。
「当ててやろう。貴様は陰鬱な現実から救われたいのだろう」
「だけど、わたしの物語では救われる事を拒んだ。救われた事が無いからでしょ? 現実のアンタはいつだって陰鬱なまま、だから、わたしが救われる事を拒んでいる」
「でも、私の事は救ってくれた」
また、新しい人だ。黒い髪の美しい女性だ。
「ユーリィなの?」
「うん。わたしもあなたが生み出した主人公。きっと、アリーシャよりもあなたに近い者。だけど、あなたは私を救った。それはアルフォンスがいたからでしょ?」
アルフォンス・ウォーロック。彼の存在はユーリィの物語にとって無くてはならないものだ。だけど、初めから重要キャラとして描いていたわけではなかった。ただ、ユーリィの物語を書いていて、気まぐれに登場させた男の子だった。だけど、彼はユーリィをとても大切に思っていて、ユーリィの為ならどんな事でもしてくれた。わたしが書いている筈なのに、彼はまるで生きているかのように勝手に動き続けた。
「アルフォンスはあなたにとっての理想。あなたを救ってくれる人。実在しない夢。だからこそ、彼はわたしを救い出してくれた。アルフォンスはあなたにとっても王子様だった」
「……うん」
書き上げた後、わたしはユーリィが羨ましくなった。
自分で書いた作品なのに、本当にバカみたいだ。
だからかもしれない。その次の作品はどこまでも陰鬱で残酷な物語になった。
感想でわたしの精神を本気で心配し、精神病院を勧める人まで出て来た始末だ。
「それでも、最後は救われた」
「それは……」
「最初は貴様自身だった。けれど、書いている内に彼は貴様ではなくなった。『僕は――・――だ』と彼自身が呟いた時、彼は貴様では無くなったのだ」
顔の見えない彼の言う通りだ。あのセリフはわたしの中から出て来たものではない。
自然と現れたセリフだった。彼もアルフォンスのように勝手に動き出した。
「そして、フレデリカ・ヴァレンタインが貴様になった。だから、彼女自身は救われなかった。毒を飲み下し、死んだ」
そうだ。わたしではなくなった彼を救いたくて、フレデリカがわたしになった。
フレデリカは彼を救ったけれど、そのまま命を終えてしまった。
「救われたい癖に救われる事を拒んでいる。それが貴様だ」
顔は見えない。だけど、彼が誰なのか分かった。
この苛烈な性格は彼しかいない。だけど、彼は現行の作品の主人公と同じくわたしの中から出て来たものではなかった。好きな漫画の登場人物達の性格を当て嵌めた原作の主人公だ。
「終わりは救いではない。救われたいのなら、生き続けろ。そして、貴様如きを気にかける者がいる事に気づく事だな」
「そんな人……」
「ねえ、本気で言ってるの?」
アリーシャが呆れたように言った。
「君の家族がどんなに君の事を気にかけてるのか分かってないの?」
「分かってないわけないよね? だから、フレデリカには優しいお姉さんがいたんでしょ」
そうだ。フレデリカには姉がいた。彼女はとても優しく、気高い女性だった。少しワルだったけど……。
「職場の先輩や上司だって、頭ごなしに叱らなかったでしょ。必死になってフォローしてくれて、対策を練ってくれてたじゃない」
アリーシャはわたしを見つめて言った。
「アンタの人生、まだまだ捨てたもんじゃない筈だよ。だから、わたしの物語を書いてよ」
その言葉と共に列車がホームへ入って来た。わたしは後ずさり、アリーシャ達の姿は見えなくなっていた。そして、スマートフォンにSNSの通知音が流れた。そこにはわたしを気にかけてくれる人の呟きがあった。
わたしは階段に向かって歩きだした。
「……続き、書かなきゃ」
まだ、わたしの物語は終われない。
だって、まだ終わらせていない物語が多過ぎる。彼ら、彼女らの物語はわたしが書かなければ終われないのだから。